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非戦平和学習会発題概要 5 資料編

 以下は、当日レジメの後につけた参考資料です。安保関連法よりも、ここに掲げた『戦争絶滅請け合い法案』を通した方がよほど戦争の抑止力になると思います。王様は戦争に行かないから、王様をなくしたら戦争にならないと考えたが甘かった。だったら、国家元首である大統領や総理大臣に「真っ先に戦争に行ってもらったら」という案は、戦争の本質を突いていると思います。第五条は私たちも他人事ではありません。「戦争プロパガンダ10の法則」もまさに正鵠を得ています。よくよく注意したいですね。

 最後に参考にした文献、お勧めの文献を新しい順に掲載しています。ぜひお読みください。

非戦平和学習会時参考資料
『不戦条約』 1928(昭和3)年8月27日
「第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する」

「武力不行使原則」 1945(昭和20)年6月26日
国連憲章2条
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

集団安全保障
国連憲章42条 
 安全保障理事会は、第四十一条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

国連憲章43条
3 前記の協定は、安全保障理事会の発議によつて、なるべくすみやかに交渉する。この協定は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によつて各自の憲法上の手続に従つて批准されなければならない。

自衛権
国連憲章51条 
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲

「戦争の放棄」 1947(昭和22)年5月3日
憲法9条 
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国際平和支援法
国際社会の平和及び安全の確保のために共同して対処する諸外国軍隊に対する支援活動の実施

平和安全法制整備法
我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律
1.自衛隊法
2.国際平和協力法
国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律
3.周辺事態安全確保法→ 重要影響事態安全確保法に変更
重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律
4.船舶検査活動法
重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律
5.事態対処法
武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和及び独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律
6.米軍行動関連措置法→ 米軍等行動関連措置法に変更
武力攻撃事態等及び存立危機事態におけるアメリカ合衆国等の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律
7.特定公共施設利用法
武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律
8.海上輸送規制法
武力攻撃事態及び存立危機事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律
9.捕虜取扱い法
武力攻撃事態及び存立危機事態における捕虜等の取扱いに関する法律
10.国家安全保障会議設置法

「お詫び」の祈り 福嶋儀兵衛に関する伝承 (伝 福嶋真喜一)

 大本社の庭に居り立った儀兵衛はそのたたずまいの聞きしにまさる清楚さにこころを打たれた。宮らしき何の飾りも施設もないひなびた百姓家である。土間に立つ「天下太平諸国成就天下総氏子身上安全」と認められた幟が鮮やかに儀兵衛の目を射った。生神さまがここ居ますの思いが身に迫るのであった。
 一両日何かとご理解を承り、いよいよ御広前を辞し帰路につこうとしてあとふりかえる儀兵衛の目に幟の文字があらためて天地乃神の又なき御神願として、拝まれ、終日神前に端座され、御取次に余念あれせられぬ金光大神の御姿が尊く仰がれるのであった。ここに導かれ参りあわせた御神縁、頂いた御信心が並々ならぬものであることを思うと共に、おのれに寄せられる御神意が奈辺にあるかを反芻せられずにおれなかった。
 大本社に詣る度に、儀兵衛の目をひき心を打ったものの一つに、この「天下太平諸国成就」「総氏子身上安全」という幟があった。
 金光大神様の御祈念の詞を承り、日々御祈念下されているそのご様子を伺うに及んで、改めてその幟に認められている神の願いのだいならぬさまを痛感させられた。
 これまで眺めていた幟、読んでいた文字が神願そのものとして、わが身をつつみ、わが心をとらえ、おのれ自身がその願いの真っ只中にあらしめられ、生かされ、その願いのままに生きずにおれなくなっていくのを覚えた。飢饉にさいなまれる村人の中に生い立ち血なまぐさい争乱の世を過ごしてきた儀兵衛の心底には、いつのほどにか幟にみる願いが芽生え育っていたのである。
(中略)

 北清事変を経て日露の間に戦火が交えられるようになりその災禍の甚大さはこれまでの比でなかった。儀兵衛は金光大神の身をもって示された神願を日々祈願し続けていたが、時に思いあまることもあったのであろう。ふと家人に、「勝った負けたと話なさるが、どちらにしてもそのかげには、敵も味方も沢山の人が死に傷ついている。また山野もこわされ、多くのものが廃っていく、神さまの氏子が殺し合い神さまのお恵みがお粗末になってゆくとは勿体ない事じゃ、神さまもおなげきじゃ、まことに相すまんことじゃ、なんとおことわりお詫びをもうしてよいやら」ともらすのであった。

 明治37年5月13日真砂教会の教徒の息子が旅順港で戦死した。24歳の若人が御国のためとはいえその尊い生命を失った。一般世人はその戦功を称え、その栄誉をほめるのであったが、両親にとってはこの上ない悲しみであった。儀兵衛はその悲しみに耐える両親の姿を見るにつけて、ありし日の面影、とりわけ広前に参っていた若くたのもしい姿が偲ばれ、戦いのさけえられぬ悲しみを深くかみしめるのであった。
 かつて御本社に於いて仰いだ幟の文字を思い浮かべ、心より御神願の成就を願い、神意に逆らい、聖慮を悩まし続ける悲しい人間の所作を詫びるのであった

『戦争絶滅請け合い法案』

 法案は100年くらい前、デンマーク陸軍大将が、世界から戦争を無くそうと「戦争絶滅請け合い法」という法律をヨーロッパの各国議会に提案した。日本でも1929(昭和4)年に雑誌で紹介されている。

 それは、「戦争が始まったら10時間以内に次の人から最前線に一兵卒として送られる。
第一に国家元首
第二に国家元首の男性親族で16歳以上の者
第三に総理大臣、国務大臣、官僚のトップ
第四に国会議員(但し戦争に反対した議員は除く)
第五にキリスト教その他の高僧であって、公然と戦争に反対しなかった者」

『戦争プロパガンダ10の法則』

 民主主義国家になれば、戦争は起こらず、しないはずだった。ところがさにあらずである。民主主義社会にあっては、国民の支持がなければ戦争を始めることができない。それではどう国民を戦争へと向かわすのか。アンヌ・モレル氏は、第1次大戦から湾岸戦争までの指導者の主張に一定の法則があると、『戦争プロパガンダ10の法則』にまとめている。

第1の法則「われわれは戦争をしたくない」
第2の法則「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
第3の法則「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
第4の法則「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
第5の法則「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる」
第6の法則「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
第7の法則「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
第8の法則「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
第9の法則「われわれの大義は神聖なものである」
第10の法則「この正義に疑問を投げかけるものは裏切り者である」

参考文献
伊藤 剛『なぜ戦争は伝わりやすく、平和は伝わりにくいのか』(光文社新書、2015.7.20)
森 達也『すべての戦争は自衛意識から始まる』(ダイヤモンド社、2015.1.29)
木村草太『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書、2014.5.2)
松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書、2013.4.15)
松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013.3.25)
孫崎 享『これから世界はどうなるか』(ちくま新書、2013.2.10)
小熊英二『社会を変えるには』(講談社現代新書、2012.8.20)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012.1.22)
伊勢崎賢治『紛争屋の外交論』(NHK出版新書、2011.3.10)
加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社、2009.10.20)
島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(岩波新書、2006.7.20)
アマルティア・セン『人間の安全保障』(集英社新書、2006.1.22)
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004.4.10)
浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書、2004.1.25)
藤原帰一『「正しい」戦争は本当にあるのか』(ロッキング・オン、2003.12.5)
加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書、2003.1.20)
加藤陽子『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書、2002.3.19)
藤原帰一『戦争を記憶する』(講談社現代新書、2001.2.20)

非戦平和学習会発題概要 4

6 金光大神の平和観と金光教人としての生き方

○「信心の根本」 殺す⇒生かす 「犬猫までも敵をこしらえるな」
     「心で人を殺すのが重大な罪」
 そこで金光大神様の信心であるが、その根本は、いうまでもなく万物の命を生かす根源の働きである天地金乃神様を信仰する私たちは万物を生かしていく存在であるということ。教祖様は、「犬猫まで敵をこしらえるな」、「心で人を殺すのが重大な罪」と教えられている。「目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神のおとがめがある」と仰るように、一般の倫理規範よりさらに厳しい態度を求められている。

○金光大神の信心に基づく「平和の論理」
「戦争の論理⇒人を守るために命をかける⇒殺されるから殺す」
「平和の論理⇒人を助けるために命をかける⇒殺さない、殺されない、殺させない」

 その金光大神の信心に基づく「平和の論理」であるが、前にも触れたが、「人を守るために命をかける」は「自分たちを守るためにやむなく戦う」という自衛の論理であり、「殺されるから殺す」という戦争の論理となる。平和の論理と一見似ているところは「人を守るために命をかける」と、平和の論理である「人を助けるために命をかける」という部分である。

 本日も鬼怒川の決壊で多くの人々が自衛隊や消防、警察、海上保安庁のヘリコプターで助けられました。自衛隊は東日本大震災でも大活躍でした。その命をかけた働きは賞賛に値するものだと思います。
 ただ、ここで間違えていけないのは、「人を守るたるに命をかける」はそのために人を殺す、「殺されるから殺す」という戦争の論理へ繋がっているということ。自衛隊の本質はそこにある。ここが平和の論理と戦争の論理の決定的違いである。即ち、平和の論理の根本は「殺さない、殺されない、殺させない」である。

○「命を大切にする」視点⇒「生き方」、「生き道」としての視点
 もう一つ注意すべきは、「命を大切にする」という視点である。まさにその通りではあるが、命だけの視点で捉えると、「自分が大切にする命のためにやむなく命を取る」、また命を捧げるといった「国家の為に死ぬことは崇高な使命」、「自己犠牲が最高善」という正義の戦争の論理を越えられない。そこで、金光教人としての生き方、生き道としての視点が必要となる。

○「人を助けて神にならせて頂く」道
=自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもない。 
 「人を助けて神にならせて頂く」このお道を歩む私たちは、「対立や排除の論理、人の犠牲の上に成り立っている平和を享受できるか」という問いを常に自身に課していく必要があるのではないか。 

○命のおかげ・物のおかげ・事柄のおかげ⇒道のおかげへ
「本然のいのちが承服する」生き方
 では、その生き方、生き道とはどういう道なのか。私は高橋正雄先生とそのご子息である高橋一郎先生に学んでいる。ある先生から正雄先生は、「『命のおかげ』は生かされて生きるおかげ、『物のおかげ』はお金や物の上で不自由のなきこと。『事柄のおかげ』とは、人間関係や病気災難から助かっていくおかげであり、お道の信心はその上で道のおかげをいただかなければならない」と教えられたと教わった。その道のおかげが、世界真の平和というご神願であると。(正確に欠けるのでご存じの方は教えてください)

 それから高橋一郎先生は、「本然のいのちが承服する生き方」を教えられている。その生き方とは「一事一物も犠牲にせず、自分も他人も、個人も社会も、精神も物質も,人間も牛馬も、全世界のことより、箸の上げ下ろしに至るまで、すべての事、すべてのものが、各々その本分を尽して、立行くことのできるような世界と、それをめざしての生き方。自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生甲斐を感じて幸福であり得るような世界を、生命は心の底から願うており、そういう世界の建設を願うて生きる生き方にこそ、我々は人間としてのほんとうの喜びを感じ得るのではなかろうか。自分と自分を取巻く天地人生の一切万物が、共に其の本分を尽し、各々其の生を全うして思い残すことのないような世界を求めて止まないのである。そういう世界と、そういう世界をめざしての生き方に、我々は人間として、真の真なるもの、善の善なるもの、美の美なるもののあることを感ずる。其処においては、真はそのまま善であり、善はそのまま美である。そういう天地人生究極のねうち、生命の憧れ求めて止まぬ絶対の世界こそ、『神聖』の名に値する、唯一のものではなかろうか」。高橋一郎著『金光教の本質』金光教徒社 1949(昭和24)年刊 9、10頁

○平和に対する金光大神の信心の立場、立ち処
 1人ひとりを大切にするのが人権。人が人を大切にする関係性が平和である。本教は「天下太平諸国成就 氏子身上安全 幟染め立て、祈念いたし」の「総氏子」の「総」が決めてである。「天が下の人間は、みな神の氏子」、すべての1人ひとりの平和、日本だけの平和ではない世界中全ての人々の助かりを願ってくのが、私たち金光教人の生き道である。

 「救命艇の倫理」という11人が海に投げ出されているが、救命艇は10人しか乗れない。その1人の犠牲は多のためにやむを得ないという論である。多数のために少数の犠牲はやむを得ないとする論理は、特に戦争や大災害時に露わになる。

 安心、安全を求めている人の多くは、この犠牲者のことが視野に入っていない。例えば全体の安心、安全のために原発の再稼働や沖縄への基地の押しつけは、原発で土地、生活を奪われた人々や沖縄住民のことが見えていない。常に自分は多数の方にあると考えている。もちろん多数少数の問題ではなくて、往々にして多数派が「する側、殺す側」となり、少数が「される側、殺される側」にされる。問題は、多数が少数を見てみないふりをすること。金光教人の立ち所は、「される側、殺される」側に思いをよせ寄り添い、少なくとも見て見ないふりをしない、忘れてはならないということである。

 先の「全国青年教師集会in関東」の講話で、このことについて言葉足らずで「金光教人は犠牲になる道を行くのか」と質問され、早島教会玉井光雄先生のお話を紹介して頂いた。それは、「10人乗りのボートで進んでいたときに1人が助けてほしいと近づいた。他のほとんどの宗教者は『自分が犠牲になってその人を助ける』と言ったが、玉井先生は『10人が11人となると助からないいうならば、11人がおかげをいただけるように天地金乃神様に願うのがお道の信心である』」と答えたと。

 これは先ほど紹介した高橋一郎先生の「本然のいのちが承服する生き方」とも通ずる。もちろん本当にそのような場面に出くわした場合、正直どうできるかは分からない。こうした問いはそのこと自体を問うのではなくて、誰かの犠牲の上で成り立っている日常生活ではないかと問い、その日常の生き方、態度をどうしていけばいいかと考え、お道の信心で見たらどうかと信心の問題で物事を見ていくことに意味があると思う。

○目指すべき平和
 それは何も難しいことではなくて、私たちが日々行っている「お礼」「お詫び」「お願い」の信心と同じである。ただ、私たち人間側からみるのではなくて、神様の目から見ればどうかを常に意識することがいる。 

「お礼」
 天地の働き、天地の恵みをいただいて生きているにもかかわらず、そのお礼どころか足り不足ばかり言っている。それで難儀になるのは当然ではないかと見ておられる。わが命は、神様に与えられて、生かされて生きている。まずは平和に暮らせているお礼が第一義に大切。この道理を知らないところに神様への無礼がある。
「お詫び」〈神嘆論 神悲論〉 
 天地金乃神様は、自身のお体の上で、自身のお子同士が、兄弟同士が、愚かにも殺し合いを続けている様に、嘆き悲しんでおられる。その最大の神様へのご無礼をお詫びを申し上げていく。 

「お願い」〈御神願〉
 神様の願いに生きる。平和の問題が日常の問題にならないことがある。テレビや新聞で毎日のように報道されているにもかかわらず、自分の問題になってない。それは問題が問題になってないからである。だからこそ信心しなければならない。
 普通問題や難儀があって信心すると考えているが、問題がある場合は、信心があろうがなかろうがその問題解決に努力する。問題にならないからこそ信心をさせて頂く。それが神様の願いに生きることになる。

 本教の役割は、もとよりある政治勢力におもねたり、利害調整範囲の政治にとらわれることなく、利害得失を越え、特定のイデオロギーに惑わされず、人間の生の根源、根底を改めて問い直し、そのゆがみを正し、その狂いを整え、真実の生き方に導くのが、神様より託された私たちの使命であり、本教の役割である。戦後教団は次の3つで再出発した。また、目指すべき平和である「世界真の平和」を私は次の3つにまとめている。

「戦後金光教団の再出発として」
1 二度と武器を持たない。
2 二度と戦争に協力しない。
3 一人ひとりの生活を通してご神願成就。

「世界真の平和」
1 遠くにある理想や目的ではなく、人間生活の前提であり、手段である。と同時に平和は希有なるものであり、深く感謝しつつ、時々刻々と創り上げていくものである。
2 ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての一人ひとりの平和である。
3 表層的に平和を唱えるのではなく、私たち人間の心の奥に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化しようとする無礼を詫び、改まり、他者の痛みをわが痛みと感じつつ願い、行動するところにある。

 私たちは「殺されるから殺す」のではなくて、「殺されない」生き方、「殺させてはならない」社会、文明の構築、すなわち「あいよかけよで立ち行く」世界真の平和の構築が願われていると思う。

(本編終 つづく)

非戦平和学習会発題概要 3

④改憲論に対して、具体的方法を提示する。
1 【原理的・合理的判断】武力・軍事力による平和の方が実は危険。暴力に訴える場合と非暴力の貫く場合のどちらが有利であり得かという合理的判断の必要性
2 【平和的手段】 複数の非暴力、平和的オプションの存在 
3 【信仰に基づく平和の必要性】 法、倫理、道徳を真に規範たらしめる信仰。

 とはいうものの改憲論者からは、「中国は軍事力を増強、北朝鮮はミサイルを向けている。攻めてきたらどうするの。尖閣諸島なんか一発でとられちゃうよ。国家が自衛権を保持するのは当たり前であり、軍事力を持って世界に貢献してこそ一人前の国家である。何も戦争をするというのではなくて、抑止力のため備えておくことが必要」と。

 また「理想だとか正しいとか正義感ぶって、自分たちは安全な場所にいて、きれい事ばかり並べている。憲法を守れ、戦争は嫌だと叫んでいれば平和が来ると思っている空想主義者」だと。  

 こうした意見に対して三つの観点から応えたい。

1 【原理的・合理的判断】
 まず「原理的」には、平和の種々の問題を主体があって客体を認識する「個体論」で認識するのではなく、主体と客体は事後的に構成されるという「関係論」でとらえるべきと提示する。例えば尖閣問題、個体論では「中国対日本」だけの関係であり、固有の領土を歴史的に検証して相手を説得、圧力をかけるしかなく、最終的には相手を屈服させるしかない。関係論は、「日中」、「中台」、「台日」、あるいはアメリカとの関係など、複数の関係を視野に入れ、問題がどうやって構成されてきたかを調べ、相互の関係と認識を変えることによって解決を図るという方法である。本教の「あいよかけよ」の精神に繋がる。

 自分たちを守るためにやむなく戦う自衛の論理はまさに個体論。関係論では、備えるのではなくて敵を作らないこと、友達を増やすことである。この関係論は以下の二つから、ただ単に相手の意見を聞き置くといった悪しき相対主義ではない。
1 「自分たちは正しい。悪いのは奴らだ」と一方的に思わない態度が絶対的に正しい。
2 カントは世の中に絶対に正しいことが一つあるという。それは人間を手段として扱わないこと。命の手段化をしないこと。全ての人間を尊重するということである。

 もう一つ歴史の教訓とすべきは、必ず国家権力は暴走し、マスコミは煽り、国民は熱狂するものと考えておいた方がよいということ。人は不安や恐怖に弱い。そして集団化して正義や大義に酔いやすい。戦争はこの熱狂から始まり、平和を願う心が戦争を誘引してしまうこともある。指導者やメディアは国民の期待に応えようと暴走する。一旦戦端が開かれると恨みと憎悪が反復しながら報復の連鎖が続き、戦争が終わらない。全ての戦争は自衛の意識から始まり、報復の連鎖へと繋がってきたことをよくよく教訓として、この事実を示していかなければならない。

 また現在、相争ってはいるが平和への努力も実ってきているのもまた事実。米国認知科学者スティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』で、人類は有史以来暴力を減らし続けており、今が一番平和という。人類史における暴力減少の要因を、他者への共感や配慮に根ざした思考や行動に次第に重きが置かれたことにあるという。文化の進化であり、これを「文明化」という。愛国心を煽り、軍事力に頼るあり方は前文明、反文明で時代の逆行。人類文化のもう一段の進化が望まれる。文明化の先頭に立ち平和ブランドに誇りを持ち、世界からリスペクトされる日本が期待されているのだ。

 次に合理的には、世界が平和であるならば、年間9兆ドルの経済効果があり、戦争は巨額の経済損失を生む。戦争で儲かっているのは一部の国際金融資本家だけである。来年度予算の防衛省概算要求額は5兆911億円。イージス艦一艦で1500億円。オスプレイ12機で1321億円。船一隻と飛行機12機だけでスカイツリーが4本も立つのだ。平和利用すればどれだけ有効か推して知るべしである。

 また、戦争に備える方がよりリスクや危険、社会の不安定を生み出す。武器輸出三原則が防衛装備移転三原則と言い換えられ、このままでは戦争なしでは経済が持たない国になる。佐世保市の予算は50%以上が軍事関連。これが国家規模へとなる恐れもある。

 さらに「勢力均衡・バランス・オブ・パワー」という抑止力は、安全保障のジレンマを生み出す。例えば、ウクライナ問題でロシアが踏みとどまっている理由は、国際的に孤立して経済に支障が出ることなのだ。国際世論こそ最大の抑止力である。

2 【平和的手段】
 以下の複数の非暴力、平和的オプションがあり、平和的に解決していくことこそ日本の役割である。

◆国家の安全保障⇒「人間の安全保障」「共通の安全保障」「協同安全保障」
安全保障を人間に視点を当てて、平和的に解決していく。
・テロ、犯罪、人権侵害、貧困、飢餓、感染症、環境破壊、災害といった脅威を取り除き、人々が安心して生活ができる保証
◆安全保障=セキュリティ⇒ケアする社会へ ケアリング・ソサイティ
◆ハードパワーではないソフトパワー 漫画やアニメ 文化交流
◆元国連難民高等弁務官緒方貞子氏ら「難民救済」。伊勢崎賢治氏の「武装解除」
◆非暴力服従⇒非暴力抵抗 市民的防衛 ナチスに対してのデンマークやノルウェー。
◆「平和教育」
 戦争を語り継ぐのではあるが、その「戦争の記憶」が「記憶の戦争」となる恐れがある。日本は戦争そのものが絶対悪とみる。ゆえに戦う主体によって戦争が正しくなるはずもなく、反戦の倫理⇒平和主義⇒戦争の放棄と武器の追放に向かう。 
 しかし、特にアメリカはホロコーストという絶対悪を前にしたときに、その悪に踏みにじられる犠牲者を見殺しにせず、立ち立ち上がらなければならないとなる。正戦の倫理⇒現実主義⇒暴力を放置した責任となる。

 このように戦争の記憶の仕方にも違いがあることを認識した上で、そうとしてもなお例えば原子爆弾投下や先のイラク戦争を正当化することはできない。加害の正当化は結局「自分たちは正しい。悪いのは奴らだ」という論理を乗り越えられない。加害の歴史を隠そうとするのは問題外である。これを乗り越えるためには加害、被害を乗り越えて歴史を共有していくしかない。それには例えばドイツとフランス、ドイツとポーランドの間で作り上げられた共通の歴史教科書を評価したい。日本においても韓国と中国との歴史の共有は絶対に不可能ではないと思う。 

 もう一つ先日平和集会で「戦争死者慰霊祭」を執行したが、その意義について、戦争死者は時間的にも空間的にも自分とは遠い存在である三人称の死である。その無関心の死へどう関与していくか。一人称の死は経験できいないが、ひょっとしたら自分がそうなったかもしれないという実存的不安の思いが一人称的死への思いとなり、他人事ではなく、我が事として受けとめていくということになる。そしてその当時、その時代の人の味わった苛酷な状況にわが身をひたして、自分だったらどうすると考える。そして死者が生者に静かに語りかけていることに耳を澄ませ、その声なき声を聞かせて頂く。その死者への思いが霊と感応、接続、共鳴し、不条理な死に至らしめた原因の追求など問題解決への行動へと奮い立たせられる。宗教学でいう「シズメ」の機能と「フルイ」の機能である。
 その意味で御霊様と共に神様に平和を願うという、御霊様との交流が私たち生者の生き方の方向を示してくれる「慰霊祭」が求められているのではないかと思う。
 ただ、一人称的の死の扱いは、生者が恣意的に死者を利用するということになりかねず、霊様との適切な距離をとりつつ、生者と死者が共鳴して新たな生者として現在の社会に位置づける必要があることは留意しなければならない。

3 【信仰に基づく平和の必要性】 法、倫理、道徳を真に規範たらしめる信仰。
 法という規範が守られるには、脅したり制裁だけでは機能しない。規範は脅し以上に個々人にモラルとして内面化されなければ機能しない。そこに信仰の必要性がある。
 倫理・道徳は、善悪、正邪を分けて「自らは正しい。相手が間違っている」と正義を振りかざし、自らを正当化する道具となる。これを乗り越えるのが金光大神の信心である。
(つづく)

非戦平和学習会発題概要 2

3 戦争(戦後)責任について
 よく、戦後世代に戦争責任がないといわれる。このたびの安倍談話でもどうも未来にまで負わせたくないような内容があったが、責任には次の二点がある。
A「罪・過ちに近い責任」→「否応なしの責任」法律的道義的責任、本人の自覚は関係ない」
B 「義務・任務に近い責任」→「自分で選び取る責任」戦後世代が負う責任
 私たち戦後世代には直接戦争責任はない。しかし、繰り返さない責任はある。自覚的主体的に負っていく責任であり、この繰り返さないため一点に集中して歴史や現状を勉強する必要がある。

4 戦争観の変遷 
 聖戦論⇒正戦論(戦争の規制)⇒非戦論(経済的統合・デモクラシー)⇒戦争違法化
⇒自衛・制裁戦争は義務⇒正義の戦争

 これも私が完全に思い込んでいた一つであるが、正戦論は戦争をしてもいいと正当化する論理ではなくて、戦争をなるべくしない、あるいはしても悲惨にならないために不正な戦争と正義の戦争に分けて戦争を規制しようとした論である。聖戦論という際限のない宗教戦争を受けて、古代末期に現れた戦争限定主義。これが永遠と現代に続いている。

 この正戦論でいう戦争の正しい理由は、「攻撃に対する防衛、攻撃者に対する処罰、攻撃者によって不正に奪われた財産の回復」であり、今でいう自衛と制裁の戦争である。しかし、その正しいか不正かを誰が判断するのか。結局強い方が正義となる。これは、「自分の戦争は正義であり、相手の戦争は不正である」、「自分たちは正しい。相手が間違っている、悪いのは奴らだ」という論理となり、自分たちを守るためにやむなく戦うという「自衛の論理」となり、殺し殺されるという「戦争の論理」へと繋がる。

 その後、近代に入って二つの非戦論が現れる。一つは経済的統合で相互依存が進めば、戦争は割に合わないからしなくなる。正しい、間違っているの善悪で見るのではなく、合理的な考えだ。二つは「王様は自分が死なないから戦争をするのだ。市民が責任を負う政府ができたら戦争しない」。民主化すれば戦争にならないと。

 ところが今度は、自分たちの国は自分たちで守る。相手が仕掛けてきたのだから自衛のために戦う。またぞろ、「自分たちは正しい、悪いのは奴らだ」との論理で戦争になる。しかし、第一次世界大戦で、武器、兵器の発達によってとんでもない数の犠牲者を出したことにより、さらに非戦論が強化され、「全ての戦争は不正であるから万国は戦争を放棄すべき」と初めて戦争が違法化される。この武力不行使原則が、国際連盟規約→パリ不戦条約→国連憲章→憲法9条と繋がっているのだ。

 しかし、ならず者国家やテロに対してどう対処するのだということで集団安全保障(第42条)という制裁の武力行使と集団的自衛権(第51条)という自衛の武力行使が例外的に認められた。戦争を武力行使と言い変わっただけで、「自分たちは正しい、悪いのは奴らだ」との戦争へと繋がる論理が永遠と続いてきている。

5 世界の現状認識と未来への方法論の提示
①現実は1つでない。
1 世界は軍事的均衡によって保たれ、緊張・対立してるのが現実。
2 戦争違法化への歩みという現実。

 残念ながら人類は戦争の論理を乗り越えられてはいないのも現実であるが、二度にわたる大戦の経験を経て、国際社会がむき出しの暴力の世界にならないよう数々の法学者、政治家、外交官が悩み苦しみ、努力に努力を重ねて「武力によらない平和」を求めてきたのも現実である。この武力不行使原則は、数々の悲劇的戦争から人類が地道に築いてきた非常に貴重な財産であることは、世界の多くの人々の支持を得ている。

②現状認識
「戦争をできる態勢をまつか」=「武力による平和」 日米安保条約・安保法制
「軍事力に頼らず平和的手段によって安定を図るか」=「武力によらない平和か」9条

 この現在の状況をどう認識するか。二点提示したい。一つは 世界は「武力による平和」から「武力によらない平和」を目指し、日本の憲法9条は国連憲章よりさらに「武力によらない平和」を目指しているにもかかわらず、現日本政府の政策は、憲法9条の縛りを緩和して集団的自衛権や集団安全保障による武力行使を可能にしようとしている。ある意味日本国憲法を国連憲章へと逆行させようとしている。 

 二つは国際社会の問題。国連憲章という国際法である法律があるにもかかわらず、現実は強い者が正義であり、突出した軍事力を誇るアメリカが正義。その正義は「自由と民主主義」であるが、問題は民主主義ではなくてその押しつけ。アメリカの軍事介入は第二次大戦後200回以上もあるのである。

③自衛隊は軍隊か?
【戦力と自衛力は違う】【専守防衛】【軍法会議の有無】【憲法は法律・規範】

 ここで9条問題の核心である自衛隊について少し触れておきたい。最近良心的保守といわれている一部の意見に、「集団的自衛権は違憲と認めよう。そうであるならば自衛隊も違憲であるから、憲法を改正して行使できるようにすべきだ」と。

 これは現実に憲法を合わすことになるが、少し考えればおかしい。憲法は規範である。現実に憲法を合わすというのなら、世の中には殺人事件はなくならないし、差別もあるから殺人罪も平等原則も取っ払うのかとなる。現実を憲法に合わしていくのが本当であろう。行く行くは自衛隊を非武装の災害救助隊にすべきと考える。そのような社会構築が向かうべき方向である。自衛隊を軍隊にするのではなくて、世界の軍隊を自衛隊化すべきなのだ。(つづく)

非戦平和学習会発題概要 1

 先日開催されました「非戦平和学習会」での発題概要を5回に分けてご報告申し上げます。まずはレジメと最後は資料と参考、お勧め文献を掲載します。今後ともご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。
 
非戦平和学習会発題レジメ     2015.9.10 辻井篤生 
1 はじめに
 宗教の社会性、公共性

2 羅針盤(金光大神の信心)を持つ
① 関心を持つ (無関心と思い込みが一番の問題)
② 今の論理で過去を切らない。
③ 立ち処を確認する。

キング牧師の言葉 「この変革の時代において、もっとも悲劇的であったのは、悪人たちの辛辣な言葉や暴力でなく、善人たちの恐ろしいまでの沈黙と無関心であった」

「無関心でいられても、無関係ではいられない」 

3 戦争(戦後)責任について
A「罪・過ちに近い責任」→「否応なしの責任」法律的道義的責任、本人の自覚関係ない。
B「義務・任務に近い責任」→「自らが選び取る責任」戦後世代が負う責任
 「私たち戦後世代には直接戦争責任はない。しかし、繰り返さない責任はある」

4 戦争観の変遷 
 聖戦論⇒正戦論(戦争の規制)⇒非戦論(経済的統合・デモクラシー)⇒戦争違法化
⇒自衛・制裁戦争は義務⇒正義の戦争

5 世界の現状認識と未来への方法論の提示
①現実は1つでない。
②現状認識
「戦争をできる態勢をまつか」=「武力による平和」 日米安保条約 安保法制
「軍事力に頼らず平和的手段によって安定を図るか」=「武力によらない平和か」9条
③自衛隊は軍隊か?【戦力と自衛力は違う】【専守防衛】【軍法会議の有無】【憲法は規範】
④改憲論に対して、具体的方法を提示する。
1 【原理的・合理的判断】
2 【平和的手段】
3 【信仰に基づく平和の必要性】

6 金光大神の平和観と金光教人としての生き方

○「信心の根本」 殺す⇒生かす 「犬猫までも敵をこしらえるな」
     「心で人を殺すのが重大な罪」

○金光大神の信心に基づく「平和の論理」
◇「戦争の論理⇒人を守るために命をかける⇒殺させるから殺す」
◇「平和の論理⇒人を助けるために命をかける⇒殺さない、殺されない、殺させない」

○「命を大切にする」視点⇒「生き方、生き道」としての視点

○「人を助けて神にならせて頂く」道
=自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもない。 

○命のおかげ・物のおかげ・事柄のおかげ⇒道のおかげへ
「本然のいのちが承服する」生き方

○平和に対する金光大神の信心の立場、立ち処

○目指すべき平和

□「戦後金光教団の再出発として」
1 二度と武器を持たない。
2 二度と戦争に協力しない。
3 一人ひとりの生活を通してご神願成就。

□「世界真の平和」
1 遠くにある理想や目的ではなく、人間生活の前提であり、手段である。と同時に平和は希有なるものであり、深く感謝しつつ、時々刻々と創り上げていくものである。

2 ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての一人ひとりの平和である。

3 表層的に平和を唱えるのではなく、私たち人間の心の奥に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化しようとする無礼を詫び、改まり、他者の痛みをわが痛みと感じつつ願い、行動するところにある。

非戦平和学習会発題概要

1 はじめに
■宗教の社会性、公共性

 信心の問題はあくまで個の問題、心の内面の問題であるから、政治や社会の問題にはかかわらないとする傾向がある。もちろん個の自覚の問題であることは間違いないが、その個というのは単なる個体ではなくて、歴史的・社会的に繋がっている個である。まさに人ではなくて人間であり、私という自己も金光教団も政治的・社会的構造の中に組み込まれての社会的存在である。その個の自覚に立つならば、原発や安保法制の問題は現代における人間の問題であり、それに対して使命的にかかわっていくというのが金光大神の信心に生きる者の道である。

2 羅針盤(金光大神の信心)を持つ 真の平和へという方向性を指し示すもの
① 関心を持つ (無関心と思い込みが一番の問題)
② 今の論理で過去を切らない。
③ 立ち処を確認する。

①キング牧師の言葉に「この変革の時代において、もっとも悲劇的であったのは、悪人たちの辛辣な言葉や暴力でなく、善人たちの恐ろしいまでの沈黙と無関心であった」とある。私たちは「無関心でいられても、無関係ではいられない」存在であることを自覚する必要がある。 

 また、思い込み 先入観をできるだけとる努力が必要である。
 例えば、「戦争」と「平和」といっても思い込みがあるのではないか。戦争は悪であり、悲惨であり、絶対にしてはならないものであるが、戦争は純然たる悪意のみで生じるものではない。むしろ、同胞愛や家族愛、希望や正義感といった善意から生まれることもまた本質。平和もよい面ばかりでしなくて悪い、負の面もある。平和は安寧・安心、豊かさを保障するが、しかし、豊かになると大切なものを忘れてしまう。また、「まあまあ、この辺で」と衝突を避け、仲良し倶楽部」になってしまい、臭い物は蓋をして見て見ぬふりをし、現実にある差別構造を容認してしまうということにもなりかねない。

 さらに言葉でも、例えば「目には目を 歯には歯を」は何でもやっていいという印象があるが、同害復讐までで 倍返しにならないようにする一つの規範である。安倍総理のいう「積極的平和主義」も平和主義は、平和を平和的に構築する、つまり非暴力で作ることを目指しているのが平和主義と非平和主義を分ける条件であり、とても平和主義と呼べる言葉ではない。

 もう一つ、社会性と無関心にかかわって、よく「個人や本教みたいな小さな教団が何を言ったって世の中変わらん」という人がいる。しかし、あなたが何をしようがしまいが、世の中は変わる、それも望んでいない方向へと。結果の無関心は必ずより悪い社会へと変化する。1人ひとりが無力でも声をあげる、発言することは非常に大事なことである。 

② 今の論理で過去を切らない。
 今の論理で過去を切るというのではなく、その当時、その時代の人の味わった苛酷な状況にわが身をひたして、自分だったらどうすると考えることが大切。単に「戦争はいやだ」という感情的レベルや「かわいそうにねぇ」と感傷的なレベルにとどまってはいけないし、できあいの反戦・平和、戦争反対というスローガンやうわべの言葉だけではダメ。

③ 立ち処を確認する。 
◇向かうべき方向性を指し示すには、まずは立っている場所を知らなければならない。
方向性=羅針盤 向かうべき方向性を知るためには立ち所の確認。地図がいる。現代社会の現実と金光大神の信心からよく見ていくということが必要。 

 世界中の「世論」が、戦争に向かって熱狂し、正気を失って走り出した時、踏みとどまって、世界が凶器に陥っており、自分こそが正気であると言えるために、私たちは自分自身の立ち所、位置を正確に知る羅針盤を持たなくてはいけない。その羅針盤が「金光大神の信心」である。

 方向性については、戦後50年に教団が発行した『戦争と平和』戦後50年を迎えて78頁
「本教は、正しい戦争というものはありえないとの認識に立って、紛争を解決する手段としては、いかなる武力も、暴力行為も否定する立場を明確にしていかなければならない」
と明確に示しているところである。

(つづく)

非戦平和学習会のご案内

  先日4日は、銀座教会などで開催された「全国青年教師集会in関東」で、不肖私、「金光教が願う平和」についての参加型講話の講師をさせていただきました。鋭い質問やご意見に明日を担う青年教師に頼もしさを感じました。
  
 この10日には、18時30分から「非戦平和学習会」が東京センターで開かれます。またまた不肖私が「平和を取り巻く社会状況と金光教人としての生き方」と題して発題します。是非ご参加ください。

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