非戦平和学習会発題概要 4
6 金光大神の平和観と金光教人としての生き方
○「信心の根本」 殺す⇒生かす 「犬猫までも敵をこしらえるな」
「心で人を殺すのが重大な罪」
そこで金光大神様の信心であるが、その根本は、いうまでもなく万物の命を生かす根源の働きである天地金乃神様を信仰する私たちは万物を生かしていく存在であるということ。教祖様は、「犬猫まで敵をこしらえるな」、「心で人を殺すのが重大な罪」と教えられている。「目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神のおとがめがある」と仰るように、一般の倫理規範よりさらに厳しい態度を求められている。
○金光大神の信心に基づく「平和の論理」
「戦争の論理⇒人を守るために命をかける⇒殺されるから殺す」
「平和の論理⇒人を助けるために命をかける⇒殺さない、殺されない、殺させない」
その金光大神の信心に基づく「平和の論理」であるが、前にも触れたが、「人を守るために命をかける」は「自分たちを守るためにやむなく戦う」という自衛の論理であり、「殺されるから殺す」という戦争の論理となる。平和の論理と一見似ているところは「人を守るために命をかける」と、平和の論理である「人を助けるために命をかける」という部分である。
本日も鬼怒川の決壊で多くの人々が自衛隊や消防、警察、海上保安庁のヘリコプターで助けられました。自衛隊は東日本大震災でも大活躍でした。その命をかけた働きは賞賛に値するものだと思います。
ただ、ここで間違えていけないのは、「人を守るたるに命をかける」はそのために人を殺す、「殺されるから殺す」という戦争の論理へ繋がっているということ。自衛隊の本質はそこにある。ここが平和の論理と戦争の論理の決定的違いである。即ち、平和の論理の根本は「殺さない、殺されない、殺させない」である。
○「命を大切にする」視点⇒「生き方」、「生き道」としての視点
もう一つ注意すべきは、「命を大切にする」という視点である。まさにその通りではあるが、命だけの視点で捉えると、「自分が大切にする命のためにやむなく命を取る」、また命を捧げるといった「国家の為に死ぬことは崇高な使命」、「自己犠牲が最高善」という正義の戦争の論理を越えられない。そこで、金光教人としての生き方、生き道としての視点が必要となる。
○「人を助けて神にならせて頂く」道
=自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもない。
「人を助けて神にならせて頂く」このお道を歩む私たちは、「対立や排除の論理、人の犠牲の上に成り立っている平和を享受できるか」という問いを常に自身に課していく必要があるのではないか。
○命のおかげ・物のおかげ・事柄のおかげ⇒道のおかげへ
「本然のいのちが承服する」生き方
では、その生き方、生き道とはどういう道なのか。私は高橋正雄先生とそのご子息である高橋一郎先生に学んでいる。ある先生から正雄先生は、「『命のおかげ』は生かされて生きるおかげ、『物のおかげ』はお金や物の上で不自由のなきこと。『事柄のおかげ』とは、人間関係や病気災難から助かっていくおかげであり、お道の信心はその上で道のおかげをいただかなければならない」と教えられたと教わった。その道のおかげが、世界真の平和というご神願であると。(正確に欠けるのでご存じの方は教えてください)
それから高橋一郎先生は、「本然のいのちが承服する生き方」を教えられている。その生き方とは「一事一物も犠牲にせず、自分も他人も、個人も社会も、精神も物質も,人間も牛馬も、全世界のことより、箸の上げ下ろしに至るまで、すべての事、すべてのものが、各々その本分を尽して、立行くことのできるような世界と、それをめざしての生き方。自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生甲斐を感じて幸福であり得るような世界を、生命は心の底から願うており、そういう世界の建設を願うて生きる生き方にこそ、我々は人間としてのほんとうの喜びを感じ得るのではなかろうか。自分と自分を取巻く天地人生の一切万物が、共に其の本分を尽し、各々其の生を全うして思い残すことのないような世界を求めて止まないのである。そういう世界と、そういう世界をめざしての生き方に、我々は人間として、真の真なるもの、善の善なるもの、美の美なるもののあることを感ずる。其処においては、真はそのまま善であり、善はそのまま美である。そういう天地人生究極のねうち、生命の憧れ求めて止まぬ絶対の世界こそ、『神聖』の名に値する、唯一のものではなかろうか」。高橋一郎著『金光教の本質』金光教徒社 1949(昭和24)年刊 9、10頁
○平和に対する金光大神の信心の立場、立ち処
1人ひとりを大切にするのが人権。人が人を大切にする関係性が平和である。本教は「天下太平諸国成就 氏子身上安全 幟染め立て、祈念いたし」の「総氏子」の「総」が決めてである。「天が下の人間は、みな神の氏子」、すべての1人ひとりの平和、日本だけの平和ではない世界中全ての人々の助かりを願ってくのが、私たち金光教人の生き道である。
「救命艇の倫理」という11人が海に投げ出されているが、救命艇は10人しか乗れない。その1人の犠牲は多のためにやむを得ないという論である。多数のために少数の犠牲はやむを得ないとする論理は、特に戦争や大災害時に露わになる。
安心、安全を求めている人の多くは、この犠牲者のことが視野に入っていない。例えば全体の安心、安全のために原発の再稼働や沖縄への基地の押しつけは、原発で土地、生活を奪われた人々や沖縄住民のことが見えていない。常に自分は多数の方にあると考えている。もちろん多数少数の問題ではなくて、往々にして多数派が「する側、殺す側」となり、少数が「される側、殺される側」にされる。問題は、多数が少数を見てみないふりをすること。金光教人の立ち所は、「される側、殺される」側に思いをよせ寄り添い、少なくとも見て見ないふりをしない、忘れてはならないということである。
先の「全国青年教師集会in関東」の講話で、このことについて言葉足らずで「金光教人は犠牲になる道を行くのか」と質問され、早島教会玉井光雄先生のお話を紹介して頂いた。それは、「10人乗りのボートで進んでいたときに1人が助けてほしいと近づいた。他のほとんどの宗教者は『自分が犠牲になってその人を助ける』と言ったが、玉井先生は『10人が11人となると助からないいうならば、11人がおかげをいただけるように天地金乃神様に願うのがお道の信心である』」と答えたと。
これは先ほど紹介した高橋一郎先生の「本然のいのちが承服する生き方」とも通ずる。もちろん本当にそのような場面に出くわした場合、正直どうできるかは分からない。こうした問いはそのこと自体を問うのではなくて、誰かの犠牲の上で成り立っている日常生活ではないかと問い、その日常の生き方、態度をどうしていけばいいかと考え、お道の信心で見たらどうかと信心の問題で物事を見ていくことに意味があると思う。
○目指すべき平和
それは何も難しいことではなくて、私たちが日々行っている「お礼」「お詫び」「お願い」の信心と同じである。ただ、私たち人間側からみるのではなくて、神様の目から見ればどうかを常に意識することがいる。
「お礼」
天地の働き、天地の恵みをいただいて生きているにもかかわらず、そのお礼どころか足り不足ばかり言っている。それで難儀になるのは当然ではないかと見ておられる。わが命は、神様に与えられて、生かされて生きている。まずは平和に暮らせているお礼が第一義に大切。この道理を知らないところに神様への無礼がある。
「お詫び」〈神嘆論 神悲論〉
天地金乃神様は、自身のお体の上で、自身のお子同士が、兄弟同士が、愚かにも殺し合いを続けている様に、嘆き悲しんでおられる。その最大の神様へのご無礼をお詫びを申し上げていく。
「お願い」〈御神願〉
神様の願いに生きる。平和の問題が日常の問題にならないことがある。テレビや新聞で毎日のように報道されているにもかかわらず、自分の問題になってない。それは問題が問題になってないからである。だからこそ信心しなければならない。
普通問題や難儀があって信心すると考えているが、問題がある場合は、信心があろうがなかろうがその問題解決に努力する。問題にならないからこそ信心をさせて頂く。それが神様の願いに生きることになる。
本教の役割は、もとよりある政治勢力におもねたり、利害調整範囲の政治にとらわれることなく、利害得失を越え、特定のイデオロギーに惑わされず、人間の生の根源、根底を改めて問い直し、そのゆがみを正し、その狂いを整え、真実の生き方に導くのが、神様より託された私たちの使命であり、本教の役割である。戦後教団は次の3つで再出発した。また、目指すべき平和である「世界真の平和」を私は次の3つにまとめている。
「戦後金光教団の再出発として」
1 二度と武器を持たない。
2 二度と戦争に協力しない。
3 一人ひとりの生活を通してご神願成就。
「世界真の平和」
1 遠くにある理想や目的ではなく、人間生活の前提であり、手段である。と同時に平和は希有なるものであり、深く感謝しつつ、時々刻々と創り上げていくものである。
2 ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての一人ひとりの平和である。
3 表層的に平和を唱えるのではなく、私たち人間の心の奥に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化しようとする無礼を詫び、改まり、他者の痛みをわが痛みと感じつつ願い、行動するところにある。
私たちは「殺されるから殺す」のではなくて、「殺されない」生き方、「殺させてはならない」社会、文明の構築、すなわち「あいよかけよで立ち行く」世界真の平和の構築が願われていると思う。
(本編終 つづく)