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第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2003年2月

 来た道を帰り、崖を上ると雲行きが怪しくなってきた。休憩後、徒歩で本部まで帰るとやはり雨が降ってきた。昨日同様、作業を終えると不思議なことに雨が降る。

 裏に遺骨収集団の本部があるおみやげやさんの表側の軒下にいると、雨に濡れて歩いてきた老夫婦も私の隣に雨宿りに来た。私がヘルメットをかぶっているのでおそらく工事の作業員だと最初は思っだろう。だが、目の前を老若男女、アメリカ人まで同じ黄色のヘルメットをかぶって前を通り過ぎていくので、いったい何者だと不思議そうに見ていた。で、どちらからともなく声を掛け合い、金光教という宗教が遺骨収集をはじめて今年で30回目になることなど、はじめて参加した私がまるで30回も参加してきたような顔をして、いろいろと説明してしまった。

 その方は、老若男女、アメリカの若者まで参加していることに非常に感心された。時の政治社会状況や教育の在り方などを非常に危惧されており、お互いに意見が合い、意気投合した。その方も多くの人が沖縄を訪れ、歴史の事実を知ってほしいと語っていた。

 さて、こんなに長く書くつもりもなかったが10回も重ねてしまった。最後に、この沖縄体験を通して、自らに課題となったことを書いて終わりたい。 

 日本は、戦争を体験した方々の、もう理屈を越えて「戦争は絶対にしてはならない」という言動が、ここまでの平和を支えてきたと私は思う。しかし、その体験者が少なくなり、私はもちろん現在の政治指導者のほとんどは戦争を知らない。そして今や大きく戦前に舵を切ろうとしているかに見える。

 前にも書いたが、戦争体験が風化するのは仕方ない。単なる「戦争は絶対嫌だ」とか「平和は大切だ」という感情のレベルでは次世代には伝わらない。しかし、だからこそできる限りの体験談を聞き取り、記録し、特に金光教信奉者がどう戦争と関わってきたのか、そして、なぜ金光教は戦争に協力してしまったのか、その中で1人ひとりはどうであったのかを問わなければならない。

 現実は1つでない。様々な現実を知ることによって、金光教や時代社会のありようを自らの信心の問題としてとらえ、主体的な平和の体現者足ることができるかどうかが課題である。歴史や体験に学び、少しでも確固たるものにしていきたいと願っている。 

 沖縄戦に関してまだまだ書きたいことがある。予告してしまったのもある。おいおいに書いていきたい。(完) 
 

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 9 2003年2月

 本部に電話がすむと、また黙々と作業が続いた。1時間ほどして林教会長先生が、背に沖縄県警と書いた紺のつなぎをきている鑑識の人とワイシャツ姿と制服の警察官3人を連れてやってきた。

 その周辺にだれもいなかったので、私がこっちこっちと案内すると、ワイシャツ姿の警察官からあなたが「第1発見者ですか」と聞かれ、その刑事ドラマみたいな専門用語に、別にびびらなくてもいいのに、思わず「違います」と力強く答えてしまった。第1発見者はもうずっと奥の方に行ったらしい。

 鑑識のじゃまになるので、また作業にもどった。4、5年前にこの辺りで行方不明者の捜索願いが出ていたらしいが、その後はどうなったかは聞いていない。

 私たちは、お弁当を食べる場所を探すためにさらに奥地へと進み、大きな艦砲射撃であいた穴の下側に少し広いスペースがあったのでそこでお弁当を頂いた。その時は日も射し、青空も見えた。雰囲気も一気に和んだ。

 午後からはさらに奥の艦砲射撃であいた穴の下を掘っていたが、もうここはないかなと言っていると、赤茶けた陶器のようなものが出てきた。それはベテランの方もご遺骨ではないだろうとそれはそれで別なところにおいていた。

 ところが、あの82歳のご婦人が「あっ」と声をあげると、そこには大きな大腿骨が出てきた。ちょうどそこから頭の方へ掘っていくときれいな歯のついた下顎の骨などが出てきた。その周りにさっきよけていた赤茶けた陶器と同じようなものが出てきて、それが頭蓋骨あることがわかった。その周辺から続々とご遺骨が発見された。

 気がつくと、すでに4時近くになったのでその周辺をきれいにし、残っていたお茶やお水をかけ、ご祈念させていただき、収集作業を終了した。(つづく)

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 8 2003年2月

 しばらく地面を掘っていると、ここまでくる間、先頭で道なき道に道をつけてくれていた方が戻ってきて、懐中電灯と携帯電話を持っている人を呼んだ。どうも、何か見つけたらしい。

 私は携帯電話を持っていたので数人と共についていった。さらに奥の、上を見ると数十メートルの断崖絶壁で、下は数メートルの高さの大岩の塊がそそり立っているところを進む。その間のところには、ちょうど洞穴になっているようなところが何カ所かある。その1つの洞窟に入った。

 私の聞き間違いか、ご遺骨が多く出たので呼ばれたと思っていたら、薄暗い中にまずズボンと靴がきれいに残っているのが見えた。近づいてよく見ると、服を着たまま白骨化した2本の足が見えた。隣の人が懐中電灯を向けると、私の目の前にちょうどその方の胸のあたりに首から落ちた頭蓋骨があり、その目と私の目があった。またまた思わず「ぎゃー」である。上の衣服も白色のワイシャツもきれいにそのまま残っている。ご遺骨ではなくて白骨化死体だ。そこに座ったまま亡くなられたらしい。

 私は外に出て本部に電話するよう言い、みんなにも言って回ったが、みなさんさすがにベテラン、落ち着いている。動揺しているのは私ぐらいで、しまったことに岩の上でよろけてしまい、ちょうど落ちてあった古タイヤの中にすっぽりと尻餅をついてしまった。近くにきていた公ちゃんや真美ちゃんは大笑いだが、笑い事ではない。

 もし、その古タイヤがなかったら、反対側5メートルほど下に落ちて大けがをしていたであろう。ここでもおかげを頂いた。(つづく)

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 7 2003年2月

 さらに先に進む。上を見上げると断崖絶壁の真下にいることがわかるが、ジャングルの中だ。波の音はするが、なかなか海は見えない。方々に未だに黒々とした穴がある。艦砲射撃の後だそうだ。実に生々しい。そして大きな岩がせり出して洞窟になっているところでとどまり、みんなで掘る作業を始めた。

 その中に、前の日から引き続いてこの危ない場所まで参加された82歳の女性の方がいた。昨晩、公ちゃんからすごいお年寄りがいると聞いていたのですぐにわかった。その方は、ひたすら地面をさすりながら何かつぶやいている。近寄ると「ごめんなさい。ごめんなさい」と涙を流している。「今までこんなところでね・・・」とただひたすら掘っている。私も止めようとする涙を押さえることができず、何度も目をふいた。

 話を聞くと、この方のお兄さんが海軍の軍人で、この沖縄で戦死されたそうだ。その供養の思いでもう数十年も前から参加されている。金光教の信奉者ではないそうだが、本教の趣旨に賛同し、毎年欠かさず参加されている。こうした方にも支えられての沖縄遺骨収集30年であったことをはじめて知った。そういえば昨日一緒だったアメリカ人の若いふたりは、親子2代にわたっての参加だそうだ。

 信仰者として、金光教教師として私は今まで何をしてきたのだと慚愧に堪えず、お詫びのしようもないと思いながら、ただただ掘らして頂いた。(つづく)

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6  2003年2月

 15日の夜も那覇教会にお世話になった。それから書き忘れたが2日間とも公ちゃんお母さんの手作りお弁当を頂いた。眼下に沖縄の雄大な海を見ながらのお昼時間だけは心が和んだ。

 さて、2日目は公ちゃん、真美ちゃんと同じ班だ。今度は摩文仁の丘から海側へ断崖絶壁をくだる。最初から縄はしごを下り、ジャングルの山道をかき分けながら進む。その途中の崖の下で昨日は観光客が落としていったゴミを1日がかりで回収したそうだ。若干残っていたジュースの瓶やビール缶を見るとだいたい30年前くらいのものだ。それが相当の量だったらしく、後で金光新聞の一面写真をみてびっくりした。

 この日はさらに奥地へと1時間ほど進む。先頭の方が伐採しながら道なき道を進む。途中私は先頭とも後方からも離れて、少しの間単独で進んでいた。すると白いビニールの袋が木にぶら下がっている。あれと思って中を見ると「ぎゃー」と飛び退いてしまった。ご遺骨である頭蓋骨が入っていた。1番先頭の方が見つけた。それは断崖絶壁の途中に松の木がぽつぽつとあるが、そこに上から飛び込んだ方が引っかかり60年あまりも野ざらしになっていたものらしい。

 実録映画で見た、飛び込んでいった婦女子の姿が思い浮かび、鳥肌が立ち、またしても震えがとまらなくなってしまった。

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 5 2003年2月

黒アゲハチョウのことは金光新聞に書いたのでここでは省略する。

 そしていよいよ私も壕の中に入るときがきた。後ろ向きの感じでロープをしっかり持って降りようとしたが、思っていた以上に狭い。岩盤があちこち体に当たって痛い。ほうほう体で降りていくと、「あちゃ」、アメリカ人3人が作業しながら英語でべらべらしゃっべっている。

 「しまった」、英語全然だめと思ってしばらく見ていると、流ちょうな日本語で「降りてこい、こっち、こっち」と言ってくれ、私は「今回初めての参加なのでどうぞよろしく」と挨拶すると、いろいろと丁寧に作業手順を教えてくれた。ほっとした。

 壕の中の平地は大人3人が入れる広さだが、その奥に着弾での爆破のせいか、大きな石ころの山ができて奥へと高くなっている。その下側にご遺骨などが埋もれているらしく、石ころを布袋に入れて集め、そしてクワのような道具で掘り返して探す。私の時は探すのではなくて、もう次から次へと出てきた感じだ。

 その時、一番奥側にいたアメリカ人の「わー」という声がしたらと思ったら、直径30センチ大の石の塊が落ちてきて、それが私のすぐとなりにいた一番若いアメリカ人のところに落ちた。その方は忍者のごとくしゃがんだ格好からすっとジャンプしてよけ、事なきを得た。あれがもし私のところだったと思うと血の気が引いた。

 また、その一番若い子が手榴弾を掘り起こし、それをどうしようかと迷ったあげく岩盤のやっとおけるところに置くので、こっちはあれがもし落ちてきたらと思うと不安で不安で、これはあげた方がよいとまたほうほうの体で上に登り持って出た。

 それから不思議なことに壕の中いると20分程度の時間しかたっていないと感じていても、それがなんと実際は1時間くらい経っていて、これは他の人も異口同音に言っていた。

 ようやく1日目を書き終わった。こんなに長くなるつもりはなかったのだが。2日目もいろいろ物語がある。まだ当分終わりそうにないが、どうぞおつきあいのほどを。(つづく)

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 4 2003年2月

 別班に行っていた方が何人か帰り、「そろそろどんどんあげなくては」と言って壕の穴から下に向けて声をかけた。下からは何の反応もなく、1人が壕の中に入って行った。

 それから私にとっては長い時間が過ぎた。もしかしてガスでやられ、入っていった人が全員倒れてしまうのではと内心おろおろしていたのは私1人だった。やがて下からあげるぞとの声がかかり、ナップサック大の布袋に砂や石ころ満載になって上がってきた。

 壕の中でご遺骨とはっきりとわかるのはビニール袋に入って分けられている。私が初めて見たご遺骨だ。ほとんどかけらになってしまっているが、中には顎の骨がしっかりと残っている。歯も茶けてしまってはいるが、数本がきれいに残っている。それらは白い白布の上に集められた。それから砂や石ころの中にもご遺骨が混ざっているとのこと。そのまま捨てるのはご無礼になるので白布の上にざっとおろしてその中からご遺骨を選別する。私はほとんどわからずいちいち他の方に聞いて確認した。

 そのうちに軍刀、手榴弾、鏡、石鹸箱、赤十字の鞄のちぎれた一部、手帳などがどんどん上がってくる。私はあの映画の「ひめゆりの塔」で見たままそのままが現実の目の前に現れ、これは映画でなく現実のことなんだと改めてというか初めて実感し、震えがとまらなくなっていた。

 ちょうどその時ときだ。金光新聞にも書いたあの黒アゲハチョウが飛んできた。(つづく)

第30回 沖縄遺骨収集奉仕参加 3 2003年2月

 沖縄の気候は2月というのに最高気温は22度、最低気温が19度。暑がり、寒がりの私には本当にありがたい。ただ、知ってる人は知ってると思うが、私と公ちゃんコンビはふたりで動くとなぜかもう大雨、大雪、大嵐、大雷と最悪のお天気のご都合を何回も頂いている。この日も雨がぽつりぽつり降り始めた。ああやっぱりかと思ったが、何か不思議な力がうごめいているのか、この2日間、遺骨収集に入る前と後は雨が降るのに、収集作業中は見事にお天気のおかげを頂いた。

 おみやげやさんの敷地内にテントが張られ本部が置かれる。5班にわかれていよいよ現場へ出発、私は公ちゃんや真美ちゃんとは違う班で、公園側の丘の上にある自然壕に向かった。ふた通りの行き方があるらしいが、私は海側の断崖の上を降りたり、上がったりする歩くコースを選んだ。

 途中、○○航空隊少年飛行兵の慰霊塔や○○師団○○部隊の慰霊碑などが数多く立っており、重苦しい雰囲気だ。最初は地理感覚がなくて気がつかなかったが沖縄守備隊の最高責任者であった牛島満中将が自決した自然壕も通った。このことはまた後日ふれたい。

 小1時間ほど歩いて現場の自然壕についた。きれいに整備された福島県慰霊碑の裏に入り、すぐのところに自然壕がある。7、8メートルも下に潜る。それも途中は人間が1人通るのがやっとの通路だ。そこに入って作業をする。先発隊は昨日から作業を始めており、金光新聞から取材にきていた女性も中に入ったそうだ。TI先生が「辻井くん、女の子も入ったんだから入る」と言われたが遠慮した。空気も薄く、汚れるので2、30分で交代するということで、まずは上でご遺骨や遺品、石ころ、土などを引き上げる役になった。

 1班は7、8人だったと思うが、壕の中には4人しか入れない。外で引き上げる役をしていたら、上にいた数人がどこか他の班に手伝いに行ってしまい、外では1人になってしまった。壕の中に入った人の声は当然聞こえず、もしかしてガスが発生して気を失っているのではと、ものすごい不安におそわれた。 (つづく)

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