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自衛隊、だからこそ崇高。

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 「自衛隊は命がけで国を守り、災害が起きれば身を挺して国民の救助に当たってくれている。大変お世話になりながら今の日本は自衛隊の皆様をあまりにも軽んじている。立派な軍隊にしなければ士気も上がらない」とよく聞かれるようになった。

 私はなぜ軍隊なの?と聞きたい。命がけで国を守り、身を挺して国民を助けてくれている自衛隊の皆様には国民の多くが感謝しており、決して軽んじているようには思えない。

 元自衛官の小池晴彦氏は言う。「孫子いわく、百戦百勝は善の善となるものにあらざるなり。戦わずして敵の兵を屈するのは善の善なるものなり」。

 また「『劍は磨くべし、されど用うべからず』、これが古今兵法の鉄則であり、日本武士道の本義に合致する。剣聖、上泉信綱(室町時代の末期の剣客・兵学家)が、到達した世界は『無刀』、劍を捨てた形でありました。武の本質は和である。これが日本の東洋の武の鉄則であります」。

 東洋の鉄則だけではない。ガンマンの正義は「相手に抜かせてから撃つ」。決してこちらから先に撃たない。ブッシュ前大統領の「先制攻撃」論は、相手に抜かせるどころか寝込みを襲うようなものでガンマンの正義にも悖るとんでもない考えなのである。

 内田樹氏は「天下無敵」とは全ての敵に勝つことではなく、その真意は敵を作らないということ。これも戦わずして勝つということなのである。

 まさに自衛隊は古今の思想を体現した組織ではないか。こちらからは絶対に仕掛けないという、よほど勇気のいることであり、自衛隊員の皆様にはそこにこそ真の誇りがあるのではと思う。決して先に抜かず、多大な緊張感の中でその崇高な使命を日々果たしてくれているのだ。

 だからこそ、自衛隊を軍隊にするべきではなくて、世界各国の軍隊を自衛隊化するべきだと思うのである。古今東西の思想からも、人類が苦労して到達した国際連合憲章の考えからもそのことが言えると思う。

「立憲デモクラシーの会」を発足、25日にシンポジウム。

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 集団的自衛権を巡って安倍総理大臣が憲法解釈を変更することに意欲を示すなど、今の政治状況は憲法が権力を縛る「立憲主義」の考えとかけ離れているとして、憲法学や哲学などさまざまな分野の学者たち50人が呼びかけ人となって、憲法と政治の在り方を考える「立憲デモクラシーの会」を発足させました。

 本教の交際者でもある島薗進上智大教授(宗教学)や伊勢崎賢治東京外大教授(政治学)が参加されており、私の好きな内田樹神戸女学院大名誉教授(哲学)、大沢真幸元京都大教授(社会学)など錚々たるメンバーです。

 その創設記念シンポジウム「『私が決める政治』の危うさ-立憲デモクラシーのために」が25日午後6時から、東京・市ケ谷の法政大学58年館3階834教室で開かれます。予約・不要。無料。

 お近くの方、是非ご参加下さい。

開寮記念祭・新入寮生歓迎会

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 4月12日土曜日午後3時から、金光教東京学生寮集会室において、2014年度の開寮記念祭が福田光一運営委員長代行ご祭主、金子運営委員祭員により滞りなく仕えられ、その後、山下運営委員(本部教庁財務部長)から大要次の通りご挨拶があった。

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 「御用で刑務所に行くことがあるが、21歳までの入所者の約7割が両親か片親がいない。つまりは家庭に問題があり、最近では保護者を呼んで親から教育をしているようだ。

 同郷の先生の奥様は女4人姉妹。その姉妹たちがそれぞれお父さんに『誰が一番好き』と聞いたら『あなたが一番』と全員に一番と答えたそうだ。『オンリーワン』ではなくて『全てが世界一』だと。

 元京セラ社長の稲盛和夫氏は『女性は神に近い』と仰っている。お道の信心ではなじみの教えだが、お母さんは自分のことを一番大事に思っていてくれ、祈ってくれている。お母さんは神様と同じような存在、だから女は神様に近いと。

 皆さん方もこうして今いることは決して当たり前のことではなくて、お母さん、お父さんや様々な方の祈りがあってのこと。どうぞそこに思いをいたしてここからの学生生活、寮生活を元気で送って頂きたい」。

 続いて新入寮生歓迎会。まず全員の自己紹介の後、私から次のようにお願いした。

 「この寮に入ったからには『神様のものさし』を是非持って卒寮して頂きたい。人間のものさしは目盛りがある。神様のものさしには目盛りがない。もちろん人間のものさしも必要でこれがないと社会が成り立たない。しかし、この世界は人間のものさしではかれる目に見えた世界だけて成り立っているのではない。目に見えない世界というもう一つの世界でも成り立っている。これを見るのに神様のものさしが必要。

 そこで少しヒント。中国の老子の言葉に『上善水の如し』とある。この水のように生きる生き方が3つある。まず『水は方円の器に随う』というように水は丸に入れば丸くなり、四角に入れば四角となる。つまり柔軟性があり、融通無碍。二つ目は、水は底へ底へと流れ、いつも底辺に溜まる。つまりは謙虚であり、絶対に上から目線に立たない。そして『水は岩をも砕く』といわれるように非常に力強さを併せ持つ。

 こうした生き方を意識しながら、これから追々お話していくが、私の提唱する『お陰さま』、『お互い様』、「お先のどうぞ』の3つの『お』を実践していけば、真に自立した自由な生き方、すなわち『自立的自由人』というすばらしい人生が開けてくる。それには是非とも『神様のものさし』を持って頂きたい」。

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 引き続いて、恒例の「誰の答えでしょう?当てゲーム」で楽しんだ。石津寮長が大学最初のガイダンスでどうしても遅れるとのことで高橋副寮長司会進行で始まった。

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 班対抗戦で「好きな漢字一文字」、「部屋にある宝物」、「好きな番組」、「生まれ変わったら」、「今年の目標」という質問に全員が答える。その答えを誰の答えかを当てあいっこする。ぼけてもいいが嘘はダメというルール。意外な答えにみんな大爆笑。

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 今年は何とA班が、このゲームを始めて20年来、はじめてパーフェクトで当てるという快挙があった。それも後で聞くと、新入寮生でしかも留学生のTさんがほとんど当てたという。何と人の心理を読み解くような研究をしているらしい。恐るべしである。

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 そしてこれまた恒例の罰ゲーム。とんでもない量のわさび入り寿司を食べる。7人中2が犠牲となるが、藤原先生の名演技に誰も私に同情してくれない。私のが演技に見えたそう。人は見かけによりません。なぜか毎年私のいるC班と小柴先生のいるD班が最下位争いを演じ今年は負けてしまった。わさびを仕込んだ張本人が当たるとは・・・・。

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 最後に遅れてきた寮長が自己紹介して、今年度の東京学生寮のスタートが切られた。

平和問題に対する信仰的立ち処 2

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 さて、一般では「1人ひとりを大切にしてく」ことが人権であり、「人が人を大切にする関係性」が平和である。これにお道の信心における「総氏子身上安全 世界真の平和」の「総」を加えなければならない。

 すなわち「天が下の人間は、みな神の氏子」であり、先の「世界真の平和とは」の2点目で述べている「ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての1人ひとりの平和」という「すべての1人ひとりを大切にする」あり方が本教の信仰原理であろう。

 そうとして平和は極めて政治的な問題である。その政治の本質は国家原理にあり、政治は国家原理で動く。その国家から人を殺せと命令されたとき、私たちはどう対抗するか。まずは普遍的原理、つまり国家原理の上位にある原理をもってきて対抗しようとする。

 しかし、国家原理はその普遍原理を帯同してくるから始末が悪い。日本のかつての戦争でいうと大東亜戦争では「アジア民族の解放戦争」や「大東亜共栄圏」という普遍原理をもってくる。アメリカのイラク戦争では「自由と民主主義のための戦い」というわけである。

 私たちはこれに対してどう立ち向かうかについて、故小田実氏が言う「する側」と「される側」という考えが参考になる。つまり、戦争犠牲者や災害被災者など、もう後がないという状況に追い込まれるのが「される側」で、その本質は“殺される”と定義できる。それに対し「する側」は“殺す側”になる。

 そうとすると、私たちは少なくとも「する側」には立てないであろう。しかし、それでは「される側」としてただ殺されていいのかいう問題が出てくる。ここで私たちの信仰原理が必要となる。つまりは私たちの信仰原理をもって「殺されない」世界、社会、文化を構築していく。「殺すな、殺さない」という倫理だけではない「殺されない」とい論理に基づく世界の実現だ。

 私たちはあくまでも「する側」に立たない。「される側」にその信仰的立ち処をおく。もちろん、いくら宣言したところで構造的に、物理的にどうしても「する側」に立たされてしまう運命にある。しかしだからこその宗教であり信仰である。 

 一番の過ちは、現代的思想にどっぷりと浸かってしまいどこかで負い目を感じながらも「する側」に安住している態度である。その思想は、利益や便益さ(ベネフィット)を享受するには一定のリスクはやむをえないとする「リスク・ベネフィット論」という近代文明思想だ。

 つまり、ベネフィットを得たいならリスクを受け入れるのは当然で、リスクが嫌ならベネフィットをあきらめなさいという、まさに近代思想である二者択一、二項対立的思考方法に毒されてしまっていることだ。

 そこでは社会という多数の便益のために個人が犠牲になるのはやむをえないとなる。それどころか見て見ないふりをして結果少数の犠牲は当然とする、まさに「する側」に安住してしまっている態度に問題がある。信心をしながらも一種のあきらめや開き直りがあるように思えてならない。

 金光大神様の信心をするからにはベネフィットを享受でき、しかもリスクをも減らすという二兎を追って二兎を得ること、あなたよし、此方よし、世間よしの「三方よし」を目指すべきだ。

平和の問題に戻ると、平和のために軍事力は絶対に必要と決めつけるのではなく、平和も享受でき、しかも軍事力も減らしていくというあり方を目指すべきだと思う。

 すべての1人ひとりの助かりを実現していくために、あくまでも「する側」には立たず、どこまでも「される側」を意識して行動すること、ここに信仰的立ち処があり、金光大神の思想と行動と真の理想があると思う。(おわり)

平和問題対する信仰的立ち処 1

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 私は「世界平和」ではなく、「世界真の平和」といわれるこの「真」の意味を次の3点にあると教内外の冊子などに書いてきた。

「世界真の平和とは、
1 遠くにある理想や目的ではなく、人間生活の前提であり、手段である。と同時に平和は希有なるものであり、深く感謝しつつ、時々刻々と創り上げていくものである。

2 ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての1人ひとりの平和である。

3 表層的に平和を唱えるのではなく、私たち人間の心の奥に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化しようとする無礼を詫び、改まり、他者の痛みをわが痛みと感じつつ願い、行動するところにある。」

 ただ、平和問題は極めて政治的な問題であり、対立する立場が数あるなかで「信仰的立場をどこにおくか」についてよく議論になる。

 曰く「宗教者は平和は祈るだけしかできない」、「一方的な立場からの政治的発言はできない」、逆に「祈りから行動へ」とか「積極的に発言」との声も大きい。どれも正しいと思う。

 そこでそのことを踏まえたうえで、どう金光大神の信心から平和問題にアプローチしていくか。それには信仰的立ち処をしっかりと持っておくことが大前提である。まずは私自身が考えている立ち処について述べてみたい。

 まず、全世界のほとんどの宗教が平和を祈り、愛を唱えながら人類はなお愚かにも戦争をやめられないのかという疑問である。戦争とはどうも純然たる悪意のみでなく、愛や希望や正義という理想によって起きているようだ。

 もちろん戦争は、悲惨であり、その本質は焼き、焼かれ、奪い、奪われ、殺し、殺される悲劇そのものである。が、その悲劇を繰り返す原因が正義であり理想であるとするならば、自分たちが正しいとする態度を謙虚に見つめ直し、先に述べている世界真の平和の3点目の「自分自身の心の中に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化としようとする無礼をわび、改まり」がまずは大切である。

 また1点目にも述べているように、平和を理想化するのではなくて、素朴な普段の生活の中にこそ平和を見いだしていくことがいろう。

 一般にも言えることだが、平和主義者は往々にして自分たちは正しく、崇高であるという高邁な態度をとりがちである。そのこと自体が実は戦争へと繋がる根源的原因であるという自覚がないことは問題だと思う。(つづく)