一昨日、昨日と残念ながら映ってなかったみたい。一昨日放映のあった補陀洛(ふだらく)寺は、補陀洛渡海で有名な寺。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳だ。その極楽浄土を目指して、僧侶が生きたまま小舟に乗り込み、那智の浜を船出した。
平安時代から江戸時代まで25人の僧が渡ったそう。テレビでも言っていたが、16世紀後半、金光坊(こんこうぼう)という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こった。
後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、那智勝浦町の地図にも乗っている。もちろん、金光教の金光とは全く関係ないのではあるが、小さい頃から気になっていた。
私が大学生くらいだったと思うが、井上靖がこの事件を小説化した『補陀洛渡海記』という本を教えてもらい読んだことがある。なかなか面白い小説で皆様もぜひ読んでみてください。江戸時代には住職などの遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化したようだ。
那智の浜は現在は海水浴場となっている。小さい頃、お盆が過ぎて海に入ると御霊が足を引っ張るとよく言われていた。那智の浜の波打ち際に立ってみると何かスーッと吸い込まれそうになる感覚を覚える。また、日の出時分に行くとまさにその海の向こうに極楽浄土なる世界があるような景色。皆様もぜひ一度お越し下さい。
NHK衛星第2放送、朝8時と夜7時45分に放映されている「街道てくてく旅 熊野古道を行く」という番組、現在わがふるさと那智勝浦町通過中です。明日29日は、那智の補陀落寺で中継がありますが、晴れたらもしかしたら私の父が映るかもしれません。
実は私とちょっと関わりがあるのですが、ここで詳しく書けないのは残念です。新卒寮生の皆さまならわかりますよね。(*^_^*)
人間は「万物の霊長」と呼ばれ、地球上の生物の中で最も能力があり、高等動物であり、進化の最終段階であり、最も優れている存在とイメージしている。人間が勝手に言っているだけのことではあるが。
26日付『東京新聞』朝刊3面(「時代を読む」欄)に、哲学者内山節氏の「生物多様性を否定する人間」という久しぶりにおもしろい記事が出ていた。「人間はきわめて弱い動物として、地球上に誕生したのではないか」と。
「考えてみれば走力は動物の中でも下位の方だし、木に登る力も猿にははるかに及ばない。もちろん空も飛べないし、泳ぎながら魚を捕るほどの能力もあるわけでもない」という。なるほどと思う。ウイルスにもバクテリアにも弱いし、牛のような消化力もない」。
では、どうやって生き延びてきたかというと「それは多様な関係を作り出すことによってであった」という。そして「人間同士で助け合ったり、共同作業をして安定的な生存を手に入れる」ことができたとする。
ここに「人間の本質」があるとすると、現在は「人間の本質的な危機の時代」と指摘している。まさに生物多様性とは、天地のあらゆるものの関係性の修復であろう。「生物は決して孤立しては生きていない。それぞれが生存のために必要な関係を作りながら存在している」。まさに金光大神様の教える天地の道理そのものだと思う。
「人が人を助けるのが人間である。(中略)人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか」とすでに1世紀前に教えられている。万物の霊長とは、決して高等とか優れているということではない。生物多様性を保全する責任ある存在という意味ではないかと思う。人間の危機は地球全体の危機でもある。
先日、東京センター新所長での初所内懇談会があった。新所長は4年前までは、所員、次長と歴任されていたため、各部門の現状を確認した。その後の懇親会では早くも新所長らしく、突然所員全員から意見聴取。現代社会の動向や教団動向において課題としているところを出し合い、議論した。
主な意見として、教団課題としては、教師のおかげの自覚の足りなさや、そもそもおかげの体験がなく使命感がない等、教師の資質についての厳しい意見。教団布教と教会布教が対立概念としてとらえられてしまっていることについての危惧。社会の紐帯機能としての地域社会は完全に崩壊し、今や家族、家庭も危機に瀕している。教団においても教会の自立だけでは今後立ち行かず、教会の統合や教団と教会の間の中間的な役割を果たすシステムの必要性が出された。
私は、現代世界において国際正義の樹立が課題と発言した。一時期互いの存在を認めて共存するという相対主義が唱えられたが、いわゆる文化相対主義では紛争や人権侵害の抑止にならない。相対主義を超えた文化横断的な正義や地球的な共存倫理への努力が必要ではないか。国際平和を誠実に希求する日本人や世界・人類の助かりを願う金光教人は特にその努力が必要だと話した。
時間が足りず、具体的な話にはならなかったが、次回の所内懇につなげていきたいとのことであった。帰る道すがら所長が「実は尖閣諸島での中国との問題も話し合いたかった」と仰っていたが残念であった。
私は、このたびの日本政府の対応に弱腰外交を批判する声ばかりであるが、対中強硬派を勢いづかせたのは完全に失敗であったと思う。しかし、そのまま突っ張れば中国海軍が出てきて、日本も自衛隊を出すという最悪のシナリオとなっただろう。
中国人企業家の宋文州がTwitter で、「日中が対立しても双方が損をするだけ」と書いていたそうだ。「中国外交の勝利」と言っているが、中国も国際的イメージは下がったとの指摘がある。「正義は力」は永遠の対立しかない。
ある古い書類の捜し物で段ボール箱をひっくり返していたら、1990(平成2)6月号『中近き』66号(金光教中近畿教務所発行)という冊子が出てきた。なぜ大事にとっていたのかはすぐに思い出した。
「巻頭のことば」のタイトルが「白菜に花を咲かせた男」。その男が実は私。執筆者は「のび太」となっているが私の同輩。大阪出身で金光教学院は少し後になるが、ご本部布教部時代には男子独身寮で隣同士の部屋だった。彼は教学研究所で御用をしていた。
その男子独身寮で、秋のご本部大祭のお下がりをいただき、みんなで鍋をしようとしたときからこの話は始まった。ご大祭のお供え物のお下がりは、本部職員等に配付される。その時のお下がりに大きな白菜が入っていたのでみんなを部屋に呼んだのだ。
ところが、ある方が同じ白菜を持ってやってきた。結局、私のは1個丸ごと残ってしまい、狭い洗面所の足下に置きっぱなしになってしまった。誠にご無礼な話ではあるが、いつかいただこう、いただこうと思いながらそのままになってしまった。
そして色は茶色くなり、だんだんに腐ってくる。しかし、ご本部大祭のお下がりであるから捨てるわけにはいかない。まだ中は大丈夫と思いながら、またまたそのままにしてしまった。ある時ふと気がつくと大きな白菜がソフトホール大くらいの大きさになった。
ひと冬を越し、次にふと気がついたときは何とゴルフボール大になっている。そしてだんだんに暖かくなり、ふと見ると、何と何とそこから芽が出ているではないか。そしてその芽は少しずつ少しずつ伸び、何と春のご大祭を迎える頃には菜の花と同じような1㍍以上の長さに成長し、とうとう花を咲かせたのである。
全く日の当たらない、裸電球1個の薄暗い中で、養分はおそらく私が顔を洗った水のしずくのみ。黄色と紫色が混ざったそれはそれは妖艶な色の花であった。私は何ともかわいそうに思い、無礼をわびながら寮の畑に植えた。が、急に強い日差しの元へ出したためだろうそこから白菜はよみがえらなかった。
「のび太」氏はこのエピソードを紹介しながら、白菜を教団にたとえて、教団の危機意識として文章を展開しているが、私は、自身のご無礼と恥を棚にあげて、根源のいのちの存在、いのちの働きについて、このエピソードを今でもよく話している。
例えば、スーパーに陳列されている野菜や果物は、すでに収穫されたもので私たちはすでに死んだものと見ている。お肉やお魚はもちろんのことすでに死んでいるものと考えている。しかし、野菜たちはまさにまだ生きているし、肉や魚もそれ自体としては死んでいるが、腐る過程ではそこに細菌といういのちが生きている。
物は当然いわゆる命として生きてはないが、例えば木は木として何千年も生きていると言われているし、加工品も元々生きている地球そのものの体の一部から成り立っている物である。物も根源のいのち働きからのものであり、お役に立つ働きとしてのいのちがあるのではないかと思うのだ。
だからこそ、すべてのものを大切にしなければならないのであり、「すべてを大切にする」ということは、さらに「自分に役に立たないものであっても粗末にしてはいけない」という倫理規範に結びつく行動ではないかと思うのである。金光学園の合い言葉「自分を大切に、人を大切に、ものを大切に」を改めてしみじみと思い返している。
今年は国連国際生物多様性年であり、来月名古屋でその会議が開かれる。いのちは、他のいのちによって成り立つ。この食物連鎖による生態系の中ですべての生があった。しかし人類のみ、その需要をはるかに超えて乱開発し、生態系を乱した。
「環境」を、ヒト中心において考えてきた過ちからである。改めて、「つながるいのち」、「いのちの恵み」の大切さを知るために、生物多様性の観点から、単に人類生存のための持続可能な利用だけではない問い直しが迫られている。
そのヒトである私たち人間社会はどうか。特にわが国では経済や社会構造の変化から、1年間で3万人以上の方が誰にも気がつかれず孤独死しているのが現実である。ここにも「いのちのつながり」はない。
また、尖閣諸島周辺での中国漁船衝突事件により、その背景にある国と国との境界線の問題でまだゾロ日中関係が悪化し、文化交流まで大影響を受けている。ここでも互いの主張のみで、「いのちのつながり」はない。
確かにどの問題もその解決は容易ではない。しかし、ますますグローバル化が進む国際社会と地球生態系全体の中で、そのすべての領域において、「分断」、「対立」、「訌争」ではなく、「連帯」、「協同」、「共生」原理による社会構築が必要であり、それがあるべき地球社会ではないかと思う。
なぜ、「共生」か。それは共生のないところには、「共滅」しか待ってないのだから。
昨日は、神宮球場中日対ヤクルト戦を観戦した。東京教会のおかげで普通では買えないバックネット裏の席。金光学園の同級生で、なぜかお互い名古屋に関係ないのに中日ファンの、なんと同じ小金井市に住んでいるI氏親子と久しぶりに一緒だった。
必勝を期した山本昌先発、勝ったと思ったが審判に負けてしまった。新聞では「微妙な判定」、中日スポーツは「疑惑の判定」と書いているが、どう見ても世紀の大誤審である。長い長いペナントレース、たった1球の判定でその雌雄が決まることがよくある。そうなってほしくはないが、昨日のはまさにその1球であった。
私たちの位置は、ちょうど一塁ベースからからホームベースへの線上を伸ばしていったところ。藤井の身体は完全に白線の外にあり、打球も確実に白線の外であった。いったい何が起こったのか。一塁審判がフェアと内側に手を振ったときには目を疑った。
当然、ブランコも、小田もファールと抗議する。落合監督も抗議にいったが、あっという間の退場劇。どうも違和感を覚えたのは監督一人で、選手もコーチも誰もその周りにいなかった。抗議の仕方がもっとあったのでは。
今日のテレビニュースを見ても完全にファール。審判も人間、誤審をする。それはそれで仕方がないが、野球のビデオ判定は今どうなっているのか。残り試合、負け数からみて阪神が事実上のトップ。名古屋ドームでの阪神戦が本当の天王山となる。世紀の大誤審がただの誤審で終わりますように。
今日の『東京新聞』に、「高校求人倍率0.67倍 来年卒業予定 氷河期並みに悪化」とある。大学卒の求人も厳しい。この東京学生寮に私が就任して初めての卒寮生の時、超氷河期と呼ばれていた。息子が幼稚園の頃だ。その頃、息子が大学生になる頃はよくなっているだろうと漠然と考えていたことを思い出す。
ところが、全くよくなってないのだ。現寮生たちも就職活動が大変。100や200の会社を回るのは当たり前という。いいところに一発就職したり、教職について学校が決まったりする報告を受けると嬉しいが、なかなか厳しい子が多い。この頃は、大学を卒業した後に専門学校に行ったり、大学院に進む子が増えてきた。
超氷河期と言われた頃から20年足らず、一体全体何をやってきたのか。これはもう個人の資質や努力の問題を超えている。まさに社会問題であり、政治の責任だ。どうも日本人は、失敗を失敗と認めず、問題を問題とせず先送りする。そこから教訓など導き出せるはずがない。
菅新政権が発足した。小沢、反小沢などと言っている場合ではない。政権をたらい回した無為無策の自民党政権に戻していいのか。まだゾロ政界再編と言っているが、日本新党から新生党、新進党、民主党までどれだけの政党が生まれ、消えていったか。そこにどのような主義主張があったのか。
与野党超えて無為無策、失政を失政と認め、直視し、そこから教訓を導き出して、問題解決へと向かってほしい。このまま、また足の引っ張り合いを続ければ、日本そのものがつぶれてしまうであろう。管総理は「1に雇用、2に雇用」と連呼した。是非とも成果を挙げて頂きたい。