「食べてすぐ寝ると角が生えて牛になる」、「夜つめを切ったら、親の死に目に早く会う」等々、昔からの言い伝えがいろいろとある。そのほとんどが迷信として語り継がれず、今の子供たちはほとんど知らないであろう。
しかし、なぜ私たち世代までは、誰でもが知っているほど、言い伝わってきたのだろう。その言い伝えが正しいという根拠があれば納得も行くが、迷信と言われ、正しさも根拠もないことが伝わるのはなぜなんだろう。
こう思うのも、ある健康冊子に「宵越しのお茶は飲むな」はホント?ウソ?という記事があった。これは私からすればウソ、ホントのレベルの問題ではなく、「当たり前やんか」と思うが、そうはいかないらしい。それ以前にもうすでにこの言葉でさえ死語となりつつあるのだ。
となってくると、正しい、当たり前、根拠があるから伝わる、ないから伝わらない、ということも当たらない。なぜか迷信でも伝わっていることは多い。これは、その内容そのものよりも、それが正しいとか根拠があるとかということ自体を疑った方がよいかもしれない。
科学の発展で私たちがもう間違いなく自明としたことが、実は自明でないことが次々にでてきている中で、「どう生きろ」と伝えることができるのか。教え、伝え、育てることを改めてもっと真剣に考えなければならない。
もしかして罪はわが世代にあるかもしれない。首標のような「宵越しのお茶は飲むなはホント?ウソ?」という質問自体がでるのが情けない。考えることを放棄している。それでいて40~50歳代のわが世代の人間に、自分事を棚に上げて、相手のことをあげつらう輩が多いのだ。そしてその自覚がなく、自分が正しいと本気で思っているのが一番始末が悪い。ゆえに子供の世界がおかしくなるのは道理である。
(昨日は私が武蔵小杉教会ご大祭ご用と妻が中野区平和集会エレクトーン演奏のご用等々、いろんなことが重なり、当「思うがまま」をお休みしました。失礼いたしました。
決して中日首位陥落のショックが理由ではありません(^_^;)。トホホ!)
さて、一昨日の「一言で平和とは?」のつづき。
昨年あたりから平和についてのお話の依頼や原稿執筆依頼が増え、いろんなところに出せていただいている。そこで平和について、本教の信心に基づきつつ一般用語で何とか言い表そうと言葉を費やしてきた。
「いのちの立ち行き」「生きがいとやすらぎ」「そこに笑顔があること」「理想や目的ではなく、前提であり手段である」「平和は希有なるもの」「静的なものではなく、時々刻々と創り上げていくもの」「ある特定の人や集団のためはなく、すべての1人ひとりの平和である」「他者の痛みをわが痛みとすること」「非戦・非暴力」等々。
色々と言っているが、なかなかそれぞれ単独の言葉だけでは言い表していない。そこで最近数カ所でお話しさせていただいた内容を、改めて一言で何が言いたいのかを振り返る中でひらめいた。
結局、平和ならざるものを作り上げているのは、「分け隔てる」考えであり、行いである。すべてそこに原因がある。ではどうするか。まずは、分け隔てる考えをやめ、そして「分かち合うこと」である。つまり、平和とは「分け隔てなく、分かち合う」こと。単なる平和の状態説明だけでなく、この言葉には行動原理も含まれている。今後さらにこの言葉を基本に内容、魂を注入していきたい。
私が布教部のまだ「平和」関係の担当になる前のこと。ある教外の大学生3人が、突然金光教の平和について聞きたいと訪れた。平和関係は布教部が担当していたので、布教部の一角にある応接室で当時平和関係担当次長と職員が応対した。私の席はその応接室から一番近い位置にいたので一部始終を聞いていた。
質問は最初から、一言で言えば、「平和とは何か」、「金光教の目指す平和とは」といったなかなか急に答えるには難しい質問であった。さすがに一瞬たじろいだ様子であったが、順々に精一杯答えていた。ただ、「一言で言えば」の解答にはならなかったようだ。
それから自分ではどう答えるかということがずっと頭から離れなくなった。もちろん本教が目指す世界は、「神と人とがあいよかけよで立ち行く世界」である。未信奉者にはそれを「神様のおかげを受けて、人と人とが助け合って生きる世界」と翻訳する。しかし、翻訳するとどうも当たり前すぎて、おもむきというかインパクトがなくなってしまう。(つづく)
球史に残る大記録。プロ18年目の立浪が二塁打450本のプロ野球日本新記録を達成した。前日、元阪急の福本豊氏を記録に並び、1日にして抜きさった。
あの星野仙一氏が確か初めての監督の時、ドラフトでくじを引き当てた。私はその時、立浪は中日の星になると確信した。そして開幕戦初ヒットが二塁打。まさか日本一にまでなるとは思わなかったが。
もう数年前になるが、初めて名古屋ドーム阪神戦でサイクルヒットを放った。その時にお世話になった熱田教会で、優勝の試合を生で見るよりはサイクルヒットを生で見る方が確立が低い、と話したことを昨日のように思い出す。
その後まもなく、立浪のおかげで神宮での優勝の胴上げも生で見ることができた。その立浪曰く、「子供たちに言いたい。体の大きくないボクでも一番になれるんやで」。野球少年たちは大いに励みになるであろう。感動をありがとう。日本新おめでとう。
5月18日付『東京新聞』発言欄に首標の投稿記事が載った。今年のはじめ頃に「憲法と戦後」という特集の投稿募集があり、2月はじめの頃に出していた分が「憲法と戦後シリーズ6」でようやく採用された。
この記事、実は『あいよかけよ』誌巻頭言に載せて頂いた「世界の真の平和」という記事を憲法に引き寄せて外向けように書いたもの。お読み頂ければ幸いである。
<A href=”https://konkokyo.main.jp/tsujii/tokyoshimbun.htmhttps://konkokyo.main.jp/tsujii/tokyoshimbun.htm”target=_blank>https://konkokyo.main.jp/tsujii/tokyoshimbun.htm</a>
下の娘が2泊3日の移動教室から帰ってきた。小金井の小学校では修学旅行とはいわないらしい。行き先が何と千葉県の勝浦。わが紀伊勝浦「勝浦小学校」の修学旅行の行き先は大阪と名古屋であった。ちょうどあの大阪万国博覧会の年。見るものすべてが驚きだったが、月の石を並んでまで見ようと思わなかった。所詮はたかが石だと思ったか、田舎もん特有の気後れしたかは自分でも定かでない。
それよりも何よりも新幹線に乗るのがものすごく楽しみであった。夢の超特急、歌まであった。ところがこれが乗ってみて拍子抜けした。景色が見えるのである。当たり前といえば当たり前だが、マンガのエイトマンのごとく、車窓の景色なんか速すぎて見えないと信じていたのだ。これなら紀勢本線とそう変わらんと思った。大違いではあるが。
ふりかえると本当にわくわくしながら、いろんな体験をしたんだなあと今更ながら思う。今になって分かるのだが、あの頃は社会全体が「夢の超特急」の表現にふさわしく、明るく希望に満ちた時代であった。今日帰ってきた娘を見ながら、もしかしたら私たち年代の世代が一番言い時代を過ごしたことになるのではと不安になった。
親の時代は戦争で非常に苦労した。子の世代はいかに。JR事故に見られるように科学技術がいくら進歩しようとも人間が壊れてはどうしようもない。またぞろいろんな形での社会難儀へと向かわないか。未来世代の人々に非常に責任を感じる今日このごろである。
首標の件、いよいよ具体化してきました。関東教区におきましては、下記の通り、募集させていただきます。東京からご霊地までのルートに当たる教区や地域の方々にも呼びかけています。まずは、各教区の管内通牒にご協力のお願い通知を同封していただくようお願い申し上げています。
なにせ1000キロ弱の行程があります。絶大なるご協力をお願いいたします。
開催の願い等は、専用ホームページをご覧下さい。
<A href=””http://peacewalk.konkokyo.main.jp/http://peacewalk.konkokyo.main.jp/””target=_blank>http://peacewalk.konkokyo.main.jp/</a>
下記は、関東教区管内各教会長・教師、各種団体代表宛の文書です。(5月末日管内通牒同封予定)
記
第二次世界大戦後60年「金光教ピースウォーク2005」参加者募集のお知らせ
初夏の候、皆様には日々お道展開の上にご尽瘁くださり誠に有難いことに存じます。
さて先月末の管内通牒にてお願い申し上げました「第二次世界大戦後60年『金光教ピースウォーク2005』」につきまして、下記の通り関東教区内のコースと日程が決まりましたのでお知らせいたします。
つきましては参加ご協力いただける方をご推薦いただければ幸いに存じ、よろしくお願い申し上げる次第でございます。参加ご希望の方は、お名前、連絡先、希望コースを東京事務局までお知らせいただきますれば幸いです。
│実施日 │区間 │距離 │スタート時刻│コース番号│
│9月1日(木) │東京センター→白金教会│10キロ│9時30分 │第1コース│
│9月2日(金) │白金教会→馬込教会 │8キロ │9時30分 │ 2 │
│9月2日(金) │馬込教会→鶴見教会 │10キロ│15時00分 │ 3 │
│9月4日(日) │鶴見教会→神奈川教会 │7キロ │9時30分 │ 4 │
│9月5日(月) │神奈川教会→藤沢教会 │20キロ│9時00分 │ 5 │
│9月6日(火) │藤沢教会→平塚教会 │15キロ│9時30分 │ 6 │
│9月11日(日)│平塚教会→小田原教会 │20キロ│9時00分 │ 7
│9月13日(火)│小田原教会→箱根関所 │13キロ│9時00分 │ 8 │
│9月15日(木)│箱根関所→三島教会 │13キロ│9時00分 │ 9 │
※・参加経費は自弁でお願いします。
・各コースとも、スタート時刻までに出発教会にご集合ください。
・カメラもしくはカメラ付携帯電話をお持ちでしたらご持参下さい。
・所定の傷害保険につきましては、事務局において加入手続きを行います。
・ご参加の節は、各位の自己責任において行動してください。
2005年5月17日
金光教ピースウォーク2005
世話人代表 和 泉 正 一(金光教白金教会)
事務局代表 辻 井 篤 生(金光教勝浦教会)
金光教ピースウォーク2005東京事務局
辻 井 篤 生
田 林 美千代(金光教神明教会)
岡 本 寿 美(金光教水戸教会)
〒113-0033 東京都文京区本郷2-17-11(金光教東京センター内)
Eメール peacewalk@freeml.com
衆議院予算委員会集中審議が始まった。昔からなぜか国会の議論が好きで、よくテレビでちらちら見ていた。最近は、テレビの音声が聞こえるラジオで時々聴いている。今日はセンターへ出務する電車の中で一部ではあるが民主党仙谷氏と管氏の質問を聞いていた。
それにしても小泉首相になって、何度同じパターンを繰り返しているのだろう。それ以前の村山内閣やその後の自民党内閣の時の方がまだ実りある国会であった気がする。少なくとも答弁する政府側は精一杯答えていた。
今日の委員会質疑、またまた最近のパターンと同じであった。首相は、完全に開き直っている。あなたと私は認識が違うのだと。当たり前である。だから与党と野党である。ゆえに議論する。突っぱねると議論は成り立たないのだ。何のための国会かということになる。9時のNHKニュースにもならなかった。
ところが、これがまかり通る。質問する方もそろそろ考え直した方がよい。結局責めあぐねるのは、その根本のところの思想が明確でないからではないか。もしそれがあれば、例えば靖国神社問題を質問するならば、いくらでももっと追求できたと思う。思想の尖鋭(せんえい)化も問題はあるが、政治家の思想の貧困はもっと問題である。結果人々を不幸にする。