「さて、『神様のみ心のままに、神様の願いに生き、すべてを神様にすべてに神様を現』す時に、その神様のみ心とはどういう心か?神様の願いとは何か?先程の『声なき声』のように神様には声も形もない。
その神様を頂くには、もちろん御取次やみ教えを頂くことが大切である。その上で、神様を頂くコツは、『神様のものさし』を持てばいいと思う。人間のものさしには、目盛りがついていて全世界の人々が共通に納得ができる尺度がある。
ところが、皮肉なことにはっきりとわかることによって、逆に難儀を呼び起こしているのも人間である。例えば科学技術の進歩によって、快適さや便利さを追求するあまり、差別構造を生み出したり、原発事故のようにコントロール不能な事態に陥ってしまっている。
神様のものさしには、目盛りがない。だからなかなか理解しにくいものではあるが、その神様のものさしによって理解できた尺度をもち、立つべき処に立つと、人間として大切なものを知ることができ、豊かなまさに『本然のいのちが承服する』生き方ができると思うのだ。
それには、思いこみ、先入観、固定観念、常識といったものをまずは疑ってみる。つまりは数的目盛りを一端白紙にしてしまうのだ。そこから改めて考えてみる。その最適な方法として4つのポイント提示したい。
1つは、物事をあらゆる角度からみる。よく言われている単眼ではなくて複眼でみる。自分の目線ではなくて、神様の目でみればどうなるか。鳥瞰的な目で見ること。
2つには、『逆も真なり』という言葉があるように、何事も逆からも考えてみる。意味内容が違うものをひとつに考えたり、逆ベクトルや矛盾していると思われていることを見直してみる。例えば、仏教ではよく『自利即利他』といった即という言葉でつないでみたり、『行学一如』のように一如でつないでみたりしている。ソクラテスの『無知の知』という言い方もそう。
3つめには、手段と目的をひっくり返す。例えば、皆さん学校やアルバイトに行くために、その手段として歩いたり自転車に乗ったり電車に乗ったりしていると思う。この手段を目的と考える。つまり、散歩、ジョギング、サイクリングが目的であって、そのために学校があると。ひっくり返すとそれでは目的が手段になってしまうと誤解されるが、もちろん目的も大事であって、手段も大事になり、つまりは全てを目的化する。人生何をしていても無駄事がないと考えてみるのだ。教祖様の『無的の信心』、全てが目的化するということは目的という意味もなくなる。私はここに意味があると考えている。
4つめは、マイナスの概念、自分の都合の悪いことなども実は自分のためになっているということ。これはよくプラス思考ということでいわれてきたが、単なる思考ではなくて、そのこと自体に意味を見いだしていく。先の2や3に関わるが老子の『無用の用』といわれることもそう。
この4点に関わるが、近代人の多くは、『死んだら無になる』と考えている。今はどうか、特に私の世代は科学技術全盛時代で近代合理主義にどっぷりと染まっている。その特徴的なものに『個人主義』があるが、私たちの命を個人の私だけのものと考えると『死んだら終わり』という考え方になる。
しかし、私たちの命は果たして私のものだけか。皆さんにも両親があるように親からの命を頂いての今があり、その親にも親があり、そうした自分だけではない、命のつながりの中での自分の命があると考えてみる。そう考えると死んでもなおその働きはあるのであり、死んだら消滅するという考えにはならないと思う。
それは『死後の世界があるかどうか』というような問いではない。そんなことはいくら問うても答えが出ない。そうではなくて、自分の命は自分のものだけではなくて、連続している命であると考えてみることによって、全段で述べた犠牲になられた御霊様の『声なき声』を聞くことができるし、金光教の信仰からいえば、御霊様が助からなければ私たちの助かりもないという関係が理解できる。そして『本然のいのちが承服』する、いのちそのものを生きることができるのではと思うのだ。
このように色々とひっくり返して考えてみる。そして間違えたらいけないのは、神様のものさしであるから、目盛りはない。ゆえにひっくり返して考えたこともまたそれを固定させたり、人を責める道具に決してしてはならないのだ」。
以上のようなことを、私が大学生の頃に経験した「測量のバイト中に、いのししに間違えられて猟銃で撃たれ、事なきは得た話など具体的な体験談を織り交ぜながら話させていだいた。
その後、食事会。食事当番である日本人2人は得意のたこ焼き。中国からの留学生S君は、鍋の中華料理と豆腐の料理を作ってくださった。また、ご本部参拝や気仙沼へのボランティア等で日頃からお世話になっている板東氏が、高級ビールや地元名産のロールケーキを差し入れてくださり、私は次の日朝早いことから早めに退散したが、その後、例のごとく大いに盛り上がったようだ。深く感謝。(おわり)