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学生寮同世代OB会

 先日、久し振りに私と同世代の東京学生寮OB、OGと渋谷で出会った。もうあれから30年。現在武蔵小金井駅はまだ工事中で、ほとんど新駅が出来上がろうとしている。寮がある北口の方は、まだ長崎屋や西友の建物が残っており面影はあるが、南口の方はすっかり変わってしまった。

 あの頃から一度も訪れてない方は、この変化に驚愕であろう。月日は確実に過ぎ去ってしまったが、寮生時代はついこの間のような気もする。覚えているところは本当に細かいところまでよく覚えているから不思議だ。

 そうそう私の少し下で、貫井南町の女子寮にいた芥川賞作家の小川洋子さんが、昨年の1月に出された『妄想気分』というエッセイ集に「武蔵小金井学生寮」と題した文章が載っている。何とそこに今回集まった女性二人が登場しているのだ。洋子さんも細かいところまでよく覚えているなぁと感心するが、一般の多くの方に読まれている本に、同じ空気のもとに一緒に過ごした人が登場しているのはとても嬉しい。

 昔を思い出し、当時の先輩や後輩を話のネタにしての楽しいひとときはあっという間に過ぎてしまう。それでもなお渋谷で結構有名という長浜ラーメンを食べに行った。美味。そして大学時代と同じ井の頭線に乗って帰る。終電間近、相変わらずの超混雑の電車に気後れして座れなかった。大学時代の方がちゃんとしっかり座っていたなと思い出しながら。

 この日は金曜日、吉祥寺からの中央線も混む。ここから終電までがまた信じられないような満員電車となる。ようやく武蔵小金井着。駅から昔を思い出しながらぼとぼと歩くのがまた楽しい。全てに感謝。

「手弁当の精神どこに」の記事に思う。

 最近はアイフォンで産経新聞が無料で読める。いつもは朝日や毎日新聞を読んでいるので、「なるほどこう来るか」と結構楽しい。

 今日の産経新聞一面には「小さな親切、大きなお世話」という欄に作家の曾野綾子氏のコラムが出ていた。曾野綾子氏はかつてある本で、「近所つきあいの挨拶など時間の無駄だからしなくていい」というような趣旨のことを書いていた。非常に個人主義的で「自立」を重視する方で、私には少しきつすぎるのではと思っていた。

 しかし、今日の「手弁当の精神どこに」という記事にはなるほど思うところもあった。東日本大震災による津波で多くの教員、生徒が亡くなられた大川小学校の話である。しゃれた作りの小学校にもかかわらず、なぜ裏山に避難路を作ることができなかったのか。

 普通は行政や学校に責任があるのだが、曾野氏は昔ならこういう場合、父兄が手弁当で勤労奉仕に出て避難路を作ったものだという。行政がやるのは当然だが、どうしてもできないところは自分たちでやる。

 現在のようにお互いに非難合戦で傷つけあうのはどうか。「とくに、自分のお金や労力を、自発的に持ち出して何かをする、という行為が損のような社会の空気を作ったのは誰だっただろう」と。  

 なるほど、政治や行政は責任をたらい回し、言い訳ばかり。住民一人ひとりも全てを行政任せで結局誰も責任をとらない全体として無責任体制ができあがってしまう。しわ寄せが、少数や弱者といわれる弱い立場のところのいき、その犠牲の上に成り立っているシステムを結局は容認してしまう。

 現在の「自己責任」という個々人の責任を重視しながら、結局誰も責任をとらないというあり方から、個人では責任をとりようもない事柄はあると押さえ、だからこそとれないところを互いに補い、助け合うという精神、もちろん自分でできる範囲は精一杯努力した上で、それでもできないところを「自分たち」で助け合いながら進める。そういう社会であってほしい。

こんこう平和セミナー2012 「原発を考える」開催。

 先日の21日、金光教東京センター3階ホールにおいて、「原発を考える」をテーマに「こんこう平和セミナー2012」が開催された。講師は、金光教岩代郡山教会長の橋長孝三郎師と水戸教会在籍輔教であり、(株)日立エンジニアリング・アンド・サービスで原子力関係に携わっている山本朝男氏の2人。参加者は39名であった。

 内容の詳細は諸事情でここではアップできないので、要約のみ報告したい。

 橋長先生は、福島原発から直線距離で60㎞にある教会で御用されている。目に見えず、臭いもなく、得たいのしれない放射能汚染の不安の中で生活している信徒の皆様の現状を報告。「起きてくることは全て神様のなさることで、『これだけのことが起きたのにまだ原発を使うのか』と神様が警告してくだっていると受け止めているとともに、『目が覚めてこそ今日がある』との感謝を忘れないことから、いかなる困難も乗り越えることができると、明日の不安を考える前に今できることに取り組んでいる」と述べられた。

 続いて、山本氏は「就職当初から原発のあり方に疑問を感じながらも、仕事の中の平和実践として放射性廃棄物の問題解決に取り組んでいたが、最近の原子力推進という国策のなかで、法人認可のための安全解析を支援する仕事をしていた。その矢先にこの度の事故が起き、残念至極、責任も感じた。今回の事故は、国際的な原発再評価が始まろうとするまさにその時に冷水を浴びせかけた何か象徴的であり、文明の大きな転換期になると思う。これは世界人類のもっと大きな破局の前の神様からの警告であり、人類をよりよき方向性に導いて下さるためのお気づきを下さったと信じ、脱原発、反核に関わるなかで、選択のための正しい判断材料を提供し、また原発に携わった一人としての責任から、福島の皆さまの暮らしと自然の復興のお手伝いをさせて頂き、金光教の信心と祈りをベースに出来る限りのことを実践していきたい」と述べられた。

 引き続いての質疑応答では、「津波か地震か」といった事故の原因や低線量被曝など放射能汚染の被害の影響等、命に関わる被曝の実態や安全基準の問題、「夏の電力は?」等のエネルギーの問題、経済や環境とのかかわり等についての質問が次々に出された。

 今後の取り組みについては、安全基準一つとっても統一の見解がないなかで、実際に苦しみ、困っている人に具体的に手を差し伸べる行動の呼びかけや福島の自然が浄化される具体的なイメージを描き、福島の避難民を思い浮かべての祈りをパワーアップして、全信奉者が心一つに毎日御祈念すること等の意見が出された。

天と地とはわが住みか

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「世界平和を祈るつどい」の反省と「こんこう平和セミナー」のご案内

 先日、毎年12月のご本部報徳祭時に開催している「世界平和を祈るつどい」の反省会を東京センターで開催した。このつどいは、金光教平和活動センターと金光教非戦・平和ネットの共催で開いている。

 全国の平和グループの協賛を得ているが、企画会議等は東京の非戦・平和ネット及び有志が中心。今回も10人ほどが集まったが、昨年のつどいで福島原発問題を取り上げなかったことが反省の中心になった。

 私自身も、10月に寮のご本部参拝時、広島南教会の神田照家先生のお話を承り、広島の原爆被害も福島の原発被害も全く別ものの問題ではなく、深くつながっているということを実感したし、沖縄の普天間問題もそう。

 つまりは福島原発事故も、戦前、戦後とつづく日本の国家システムである犠牲の上に成り立っているという問題として、まさに平和、人権、差別の問題として取り組むべき問題であるからだ。 

 昨年は、非戦・平和ネットの運動を積極的に展開されていた膳師豊氏を亡くし、もし膳師さんがおられたら、おそらく原発を取り上げていたと思うし、「辻井君、すぐアピール文を書いて」と仰ったであろう。

 今回はついつい甘えてしまった。「願いの言葉」を発表された関口さんに、「とりあえずは少し触れたらと」と下駄を預けてしまい、その後、協賛団体から共通理解を得る時間がないとの代表世話人の言に納得してしまった。

 そこでではないが、昨年の平和集会時にも約束していたとおり、ここでは案内が全く遅くなって申しわけないが、明日21日14時から金光教東京センターにおいて、「こんこう平和セミナー」を下記アドレス・ちらしの通り開催。ぜひ、ご参加下さい。

http://www.konkokyo.or.jp/center/tokyo/genpatsu1.pdf (クリックして下さい) 

病原菌と共生

 もう10数年前のことになるが、病原菌は人間より勤勉で賢いという内容の本を読んだことがある。確か、人類は細菌やウィルスとの戦いに勝利した、あるいは勝利できるという考えは間違いで、病原菌と共生しなければならないといった内容だったと記憶している。

 当時は確かに共生という言葉が流行っていたが、病原菌との共生とは正直驚いた。人類は、抗生物質を発見し、対病原菌の武器として大いに活用、病原菌を駆逐、絶滅させる勢いであった。しかし、抗生物質の効かない耐性菌が現れ、まさにイタチごっこ様を呈している。この駆逐、絶滅させるという考えがそもそも間違いであるという。確かに花粉症などは、身のまわりを除菌しすぎて、抵抗力を失った結果と聞けば納得できる。

 このことを思い出したのは、最近の朝日新聞だったか、産経新聞だったか(アイフォンで無料で産経新聞が読める)、トイレでふたを閉めて流すのと、開けたままで流すのでは、もしノロウィルスなどの病原菌がいた場合、空気中に残る量が全然違うとの記事。
 
 実験によると開けたままでは座椅子のところから約20㌢近くも跳ね上がり、その後もしばらく空気中に漂っているそうだ。閉めた場合は、空気中には漂わないとのこと。

 この「流す」、「流れる」ということで、はっと先程の病原菌のことを思い出したのだが、病原菌をまずは体の中に入れないよう、マスクをしたり、トイレのふたをしたり、また体内に入っても、それを長くとどめ置かないようそのまま早く体外へ流してしまう。

 それによって病原菌を駆逐するのではなくて、発病にいたらないようにする発想だ。まさに病原菌との共生。菌は菌として、病原にしないということだろう。10数年前の書籍と数日前の新聞も、どちらもうる覚えでの文章で誠に申し訳ないが、詳しい方はまた教えてください。

当ブログ10年目に!!

 当ブログもふと気がついてみれば、書き始めてから10年目に入った。その頃、まずは東京学生寮のホームページをホームページビルダーで自力で作成した。その勢いに乗って、また居酒屋で売り言葉に買い言葉的に始めたものが早10年。

 その間、ブログ形式も世の中の進歩とともに3回リニュアールした。そのためにいまだに過去の内容をまだ転記できないでいる。一応パソコンには保存してあるが、それをコピー、貼り付けで一つひとつアップしなければならない。いつかしようしようと思いながらもう数年も過ぎてしまった。 

 ブログを始めたきっかけは、ちょうどその頃、東京センターで平和協議会を開催しており、その打ち上げで女性のメンバーから、「結局色々と宣っているけれども、机上の空論でしかない」と厳しい批判を受け、そこでまずは①2週間後に迫っている沖縄遺骨収集に参加する、②一般の平和行動やイベント等に積極的に参加する、③新聞に投稿する、④ブログを毎日書く、と勢い余って4つも約束してしまった。

 思い返せば、当初は本当に毎日書いていた。さすがにだんだんに毎日は無理となってきたが、振り返れば「塵も積もれば山となる」で、結構の量を書き込んでいることに自分でも驚く。内容は進歩していないが、まだまだこれから勉強していきたい。

 ただ、お忙しい中を皆さんに読んで頂くので、ただの書きっぱなしではいけないと肝には銘じている。そこで、一応3つのコンセプトをもって取り組んでいる。それは「ほ、へ、そ」の3文字。

 「納得」、「驚き」、「共感」だ。「ほー、なるほど」と納得して頂き、「へー、びっくり」と驚き、「そうそう、その通り」と共感して頂く。このうちの1つがあれば成功。と言っても言うは易しでなかなかそうはいかないが、できるだけ意識していきたい。

 今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

東京学生寮1月月例祭 2

 「さて、『神様のみ心のままに、神様の願いに生き、すべてを神様にすべてに神様を現』す時に、その神様のみ心とはどういう心か?神様の願いとは何か?先程の『声なき声』のように神様には声も形もない。

 その神様を頂くには、もちろん御取次やみ教えを頂くことが大切である。その上で、神様を頂くコツは、『神様のものさし』を持てばいいと思う。人間のものさしには、目盛りがついていて全世界の人々が共通に納得ができる尺度がある。

 ところが、皮肉なことにはっきりとわかることによって、逆に難儀を呼び起こしているのも人間である。例えば科学技術の進歩によって、快適さや便利さを追求するあまり、差別構造を生み出したり、原発事故のようにコントロール不能な事態に陥ってしまっている。

 神様のものさしには、目盛りがない。だからなかなか理解しにくいものではあるが、その神様のものさしによって理解できた尺度をもち、立つべき処に立つと、人間として大切なものを知ることができ、豊かなまさに『本然のいのちが承服する』生き方ができると思うのだ。

 それには、思いこみ、先入観、固定観念、常識といったものをまずは疑ってみる。つまりは数的目盛りを一端白紙にしてしまうのだ。そこから改めて考えてみる。その最適な方法として4つのポイント提示したい。

 1つは、物事をあらゆる角度からみる。よく言われている単眼ではなくて複眼でみる。自分の目線ではなくて、神様の目でみればどうなるか。鳥瞰的な目で見ること。

 2つには、『逆も真なり』という言葉があるように、何事も逆からも考えてみる。意味内容が違うものをひとつに考えたり、逆ベクトルや矛盾していると思われていることを見直してみる。例えば、仏教ではよく『自利即利他』といった即という言葉でつないでみたり、『行学一如』のように一如でつないでみたりしている。ソクラテスの『無知の知』という言い方もそう。 

 3つめには、手段と目的をひっくり返す。例えば、皆さん学校やアルバイトに行くために、その手段として歩いたり自転車に乗ったり電車に乗ったりしていると思う。この手段を目的と考える。つまり、散歩、ジョギング、サイクリングが目的であって、そのために学校があると。ひっくり返すとそれでは目的が手段になってしまうと誤解されるが、もちろん目的も大事であって、手段も大事になり、つまりは全てを目的化する。人生何をしていても無駄事がないと考えてみるのだ。教祖様の『無的の信心』、全てが目的化するということは目的という意味もなくなる。私はここに意味があると考えている。

 4つめは、マイナスの概念、自分の都合の悪いことなども実は自分のためになっているということ。これはよくプラス思考ということでいわれてきたが、単なる思考ではなくて、そのこと自体に意味を見いだしていく。先の2や3に関わるが老子の『無用の用』といわれることもそう。

 この4点に関わるが、近代人の多くは、『死んだら無になる』と考えている。今はどうか、特に私の世代は科学技術全盛時代で近代合理主義にどっぷりと染まっている。その特徴的なものに『個人主義』があるが、私たちの命を個人の私だけのものと考えると『死んだら終わり』という考え方になる。

 しかし、私たちの命は果たして私のものだけか。皆さんにも両親があるように親からの命を頂いての今があり、その親にも親があり、そうした自分だけではない、命のつながりの中での自分の命があると考えてみる。そう考えると死んでもなおその働きはあるのであり、死んだら消滅するという考えにはならないと思う。

 それは『死後の世界があるかどうか』というような問いではない。そんなことはいくら問うても答えが出ない。そうではなくて、自分の命は自分のものだけではなくて、連続している命であると考えてみることによって、全段で述べた犠牲になられた御霊様の『声なき声』を聞くことができるし、金光教の信仰からいえば、御霊様が助からなければ私たちの助かりもないという関係が理解できる。そして『本然のいのちが承服』する、いのちそのものを生きることができるのではと思うのだ。

 このように色々とひっくり返して考えてみる。そして間違えたらいけないのは、神様のものさしであるから、目盛りはない。ゆえにひっくり返して考えたこともまたそれを固定させたり、人を責める道具に決してしてはならないのだ」。

 以上のようなことを、私が大学生の頃に経験した「測量のバイト中に、いのししに間違えられて猟銃で撃たれ、事なきは得た話など具体的な体験談を織り交ぜながら話させていだいた。 

 その後、食事会。食事当番である日本人2人は得意のたこ焼き。中国からの留学生S君は、鍋の中華料理と豆腐の料理を作ってくださった。また、ご本部参拝や気仙沼へのボランティア等で日頃からお世話になっている板東氏が、高級ビールや地元名産のロールケーキを差し入れてくださり、私は次の日朝早いことから早めに退散したが、その後、例のごとく大いに盛り上がったようだ。深く感謝。(おわり)

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