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日頃から「思い込み」や「固定観念」をできるだけ持たないようにと自分に言い聞かせているが、この新書『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』一ノ瀬俊也著(講談社新書2014.1.20)は、なるほどと思わされ、また現代に生きる私たちにも警鐘を鳴らす内容となっていると思うので紹介したい。
「はじめに」で、「一昔前まで、日本陸軍といえば、空疎な精神論ばかりを振り回して日本を破滅に追い込んだ非合理的極まる組織とみなされていた」と始まる。私は、一昔前どころか、今の今までそう思っていた。
ところが、近年の研究で「『非合理性』の問題を考えるうえで興味深い著作が世に問われつつあり、なかでも片山杜秀『未完のファシズム「持たざる国」日本の運命』は注目すべき一冊」と次のように引用している。
「日本陸軍は第一次世界大戦で総力戦、物量戦とその重要性を詳しく学んだが、『持たざる国』の貧弱なる国力ではこれに追いつけず、そのため国力に見合った殲滅戦を目指した軍人・小畑敏四郎も『持てる国』造りを目指した石原筦爾も激しい軍事権力内闘争のすえに放逐されてしまった。結局、総力戦遂行を可能にする政治権力の一元的集中は、権力多元性ーつまり独裁を許さぬ体制を定めた明治憲法の壁にはばまれて実現せず、仕方がないので物質力に対する精神力の優位を呼号しているうちに本物の総力戦=対米戦に突入してしまい、あとはひたすら敵の戦意喪失を目指して『玉砕』を繰り返すしかなかった」のだと。
これもなるほどと思わされるが、この著者は日本陸軍=絶望的「玉砕」という単純図式に固守すればするほど、なぜ日米戦争があれほど長引き、それだけ多くの犠牲を出してしまったのかいう問いへの答えがみえづらくなってしまうことを懼れる」という。
そこでこの新書では、米軍の戦訓広報誌に掲載された日本軍の将兵、装備、士気、に関する解説記事を使って、日本陸軍の姿や能力を明らかにしようとしたものである。「へぇー」と驚かされる内容は読んでのお楽しみとして、「やはりそうであったか」と裏付けを頂いた内容もあった。
例えば、第二章2の「日本兵の生命観」では、「前線日本軍は義務を果たした味方兵士の遺体にはきわめて丁重で、万難を排して回収しようとしていた」が、「生きて苦しんでいる傷病者への待遇は劣悪で、撤退時には敵の捕虜にならないよう自決を強要している」。この事実は沖縄戦映画「ひめゆりの塔」でも描かれている。
医療体制も劣悪でガタルカナル攻防戦では、「実際の犠牲者は、日本軍総兵3万1400名中2万800名が『戦闘損耗』、その内訳『純戦死』5000~6000名、『戦病に斃れた』者1万5000名、前後」とされている。
「個人が全く尊重されず」、「患者は軍事作戦の妨げとしかみなされない」。私も思うに『軍人勅諭』に「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とあるように、兵の命は鳥の毛よりも軽い、つまりいったん役に立たなくなると、生命どころか動植物でもない、単なる物、いやそれ以下の数字扱いとされてしまうのが現実であった。
著者が「個人とその生命を安易に見捨てた過去の姿勢を現代の日本社会がどこまで脱却できているかは、常に自省されるべきだろう(101頁)」と書いているように、昨日の『東京新聞』トップ「福島第一で作業員死亡 救急要請50分後」との記事を読みながら、日本人の倫理観は根底のところで本当に大丈夫かと考えさせられている。
これも必ず立ち寄るところが「富森の大獅子」だ。摩文仁まで後数キロと追い込んできたアメリカ海兵隊の写真が残っている。どのような気持ちで追い込んでいるかを想像してもらうために同じポーズをとってもらったが、恥ずかしがって失敗。
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さて、今年の平和学習ツアーは質量とも大変充実した内容となり、特に初参加者の方は心身共にきつかったと思う。ただ、夜は沖縄料理や国際通りの散策で沖縄の夜を満喫した。
昨年第一日は、国際通りの本通りから少し離れたところにある食堂花笠2号店だったが、ここは閉まるのが早い。そこで今年は24時間あいている三笠食堂に入った。ほとんどのお客さんが地元の方。沖縄の家庭料理が美味。
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宿泊しているホテルは国際通り沿いにある「ホテル国際プラザ」。そこから歩いて10分ほど。東京は大雪だが全く想像もできないほどの陽気だ。明日からが本番ということで、第一日目の夜はコンビニでオリオンビール、泡盛を調達、ホテルで少し乾杯した。
二日目の夜は、もうこれは毎年恒例の国際通りのど真ん中にある第一牧志公設市場2階にある「ツバメ食堂」。台湾料理系沖縄料理でもうここは超美味。ベテランの遺骨収集参加者で知らない人はいない。年一回しか行かないが、ママさんが覚えていてくれて必ず一品、二品サービスしてくれる。是非皆様も一度。


ゴーヤーチャンプル、麩チャンプル、グルクンの揚げ物、海ぶどうなど沖縄定番料理はもちろん、中華風カニ炒め、イカスミそーめん、豆腐よう、そしてヤギの刺身、豚の耳である「ミミガー」ともう一度食べたら忘れられない料理の連続。










豆腐ようやヤギ刺しなど苦手といっていた人も、「まあ、ここのを一回食べてみて」と無理矢理食べさせたら、「これいけるかも」とそのおいしさに感動していた。イカスミお姉さんもはまったようである。

第三日の夜も恒例となっている林先生ご子息のお店「ヘルシーダイニング キュアハート」での懇親会。韓国からの留学生Tさんも感想を述べた。その後国際通りへ繰り出し、お土産店を散策。あっという間に時間が過ぎていく。


だいぶ遅くなって、3年前に息子が来たときに行ったステーキ屋さんに行きたいとのことで行ったがすでにラストオーダー後。そのほか数件回ったがすでに閉店。そこでホテルのすぐ横にある焼き肉店に滑り込みセーフ。もう夜も遅く豪快にとはいかなかったが、ここでのそーめんチャンプルや島豆腐も美味しかった。そしてホテルに帰って仕上げの泡盛で乾杯。沖縄最後の夜を楽しんだ。
その焼き肉店の壁の絵画にハルト君のご先祖様が描かれていたのには驚いた。不思議な出会いである。(^^;)

最終日の那覇空港は東京からの飛行機が飛ばなかったせいかガラガラ。最後のオリオンビールを飲み干し沖縄とお別れ。帰寮するとかまくらができていたのにはビックリであった。


その大雪のために第二日から参加予定だったA君が参加できず残念であった。ただ、まだ大学1年生、「来年こそは参加したい」と言ってくれている。またすでに学生会の人や青年教師の方で行きたいと仰ってくれている人がおり、ありがたいことである。
名鉄観光下請け業者「辻井沖縄ツーリスト」が添乗員付きで全行程手配、案内させて頂きますので、参加されたい方はご連絡下さい。(*^_^*)(おわり)
そして最後に豊見城(とみぐすく)にある旧海軍司令部壕を見学。ここも自然壕と違って綺麗に整備されていることに驚く。当時は450mあったといわれている。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていた。


この海軍司令部壕といえば、大田実沖縄根拠地隊司令官が海軍次官に送った最後の電文が有名である。当時沖縄県民のことをほとんど顧みなかった政府、大本営のあり方の中で、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した。大田氏は沖縄県知事であった島田叡氏とは「肝胆相照らす」仲であったという。この電文で県民の苦労の姿を県知事に代わって伝えている。
そして、第32軍司令官牛島満中将が最後に「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命令したあり方とよく比較される。鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊(ひめゆり学徒隊等)らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったからである。
県民を慮った大田中将と「悠久の大義に生きろ」つまり「死ね」と命令し、勝手に自決した牛島中将では、当然牛島中将の言動に厳しい見方をしている人が多い。私も一時そう思っていた。県民のことを少しでも考えていればこれほど犠牲者がでなかったであろうと。
しかし、あの映画『硫黄島からの手紙』で栗林忠通中将が島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行ったということを知ってハッと気がついたことがある。この時期硫黄島や沖縄に赴任するということはもう百パーセント死ぬということである。島田県知事の前の知事が本土出張を理由に逃げたという話のように軍隊でも実際には上手くすり抜けて生き残った輩もいたという。
そのような中で「必死」の現場へと赴任する人は、いわゆる徳者ではなかったか。実際牛島中将は陸軍教育畑を歴任した教育者であったし、自身は、政府・軍統帥部の無謀さと戦争の将来に強い懸念を示していたり、日中戦争を早く終結させ、北方の脅威であるソ連の脅威に対し万全の備えを講ずるべきというのが持論で、陸軍内では平和主義者だったと言われている。
逆にフィリピン戦線において、陸軍初の特別攻撃隊を出撃させたT中将は「決して諸子だけを行かせはせぬ。このTも最後の1機で突っ込む決心である」と訓示していたにもかかわらず、「戦力再建のための後退」といって少ない戦闘機を護衛に付け、何と芸者を乗せて台湾に逃げ、ちゃっかり戦後まで生き延びているのだ。史上最悪の作戦を遂行して大失敗したM中将も生き残っている。
もちろん牛島中将を擁護しているのではない。私たちとしてこれをどう教訓とできるか。つまり現在でも勇ましく威勢のいいことばかり言っている政治家は、いざという時にその責任を本当に果たすのであろうかと疑うのである。甚だ怪しく、信用できない。私たちはそこのところをよくよく見極め、リーダーを選ばなければ、またぞろ最悪の結末へと導かれてしまうのだ。
沖縄遺骨収集からあらぬ方向へといってしまったが、海軍壕を訪れるたびにそのことを強く思うのである。(つづく)
次にこれも昨年同様、沖縄本島南部の南城市糸数にあるアブラチガマといわれる自然洞穴を見学した。全長は270メートル。はじめは日本軍がガマの中に通路や小屋、ポンプ井戸をつくるなど陣地壕として整備した。


その後、沖縄陸軍病院の分室が開設され、ひめゆり学徒隊16名を含む病院スタッフが入り、連日運ばれてくる傷病兵の治療・看護をしたそうだ。多いときには地元住民を含め千人以上避難していたそうだ。
昨年のガイドさんの話も衝撃を受けたが、今年のガイドさんのお話も強烈であった。入り口からやや入ったところに井戸があるのだが、そこからさらに奥の高いところに寝ていた人が約20メートル下のこの井戸に吹き飛ばされ、幸い水があったので生き延びたというお話は想像を絶する凄まじさである。是非現場で実感して頂きたい。



そして広いといっても電気も何もない洞窟。いや、周りが見えないからこそまだぎりぎり精神が壊れなかったかという証言もあるそうだ。この世の地獄。途中何度か懐中電灯を消し、当時の状況を想像して黙祷するが涙が止まらなかった。



地上に出てきて、ガイドさんにその感想をお話ししたら、当時の体験者の方にお話を聞いて日々勉強しているとのこと。また、「最近の世の中の動きを考えると若者たちにこうして本当の戦争を伝えることは大切で、貴重な機会を得て幸いです」とお礼を申し上げると、そのガイドさんのおじいさんに当たる方がまだご存命で、その方が「現在の状況や雰囲気が、当時の戦争前の状況とよく似ている」と語っているそうだ。
時間がなくて具体的にどういうことか聞けなかったことを悔やんでいるが、まさか戦争が起こるとは思っていない若手たちはかなり衝撃を受けたようだ。
続いて、昨年は寄ることができなかった島尻郡南風原(はえばる)町にある沖縄陸軍病院壕跡にいく。数年前に整備された20号壕と呼ばれる壕を見学、その後南風原文化センター内にある展示室を見学した。先のアブラチガマの自然壕と違って人工の壕群。1号から何号まであったのか、総延長2キロもあったそうで、これをツルハシ一本の人海戦術で掘ったという。




その後近くにある平和の鐘をつかせてもらい、その両脇には憲法9条碑と予備軍医として陸軍病院に従軍した長田紀春氏の詠まれた歌碑がある。確か映画『ひめゆりの塔』で沖縄陸軍病院か、南部に撤退したのち、後藤久美子氏が取り残された南風原の陸軍病院壕で手術をしているシーンに写っていたように思う。




20号壕の見学料をお支払いすると入場券がわりに栞がもらえる。そこに長田氏の歌が書かれている。
「切り落とせし兵の脚をば埋めにゆく 女子学生ら唇噛(くらか)み駆ける」
「腹わたの出(い)でし深傷(ふかきず)手もて押さえ、歩み来し兵倒れ動かず」
これが、本当の戦争である。(つづく)
さて、沖縄4日目となる最終日は、第1日と同様、恒例となった平和学習のための戦跡巡り。今年もまた沖縄入りの前に勉強会を開いてきた。
今回はいつも見ている上山征二郎監督映画『ひめゆりの塔』とTBSで昨年放送された「終戦 特別企画 報道ドラマ『生きろ ~戦場に残した伝言~』」という当時沖縄県知事であった島田叡氏の活躍と苦悩を描いた二本を鑑賞した。両方とも2時間強の大作、二日に分けて見てきた。
そこで遺骨収集二日目の慰霊祭の前に、本部テントから少し歩いたところに島田叡氏の慰霊碑があるとのことで参拝させて頂いた。島田叡氏については、私の過去の沖縄遺骨収集体験記に何度か書いてきているのでまた見て頂きたい。


さて第4日、今年は韓国からの留学生Tさんが参加している。前日の懇親会の時に林先生から是非摩文仁の平和祈念公園内にある韓国人慰霊碑にお参りするように勧められ、まずは韓国人慰霊碑に参拝した。朝鮮の方々もこの沖縄で多く犠牲になっている。



次にひめゆりの塔と祈念資料館を見学。ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された部隊で、教師・生徒240名が動員され、内136名が戦死した。

次に昨年同様白梅学徒隊の慰霊碑に参拝。白梅学徒隊とは、沖縄戦、従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖縄県立第二高等女学校の4年生たちによって編成された部隊で、46名中、22名が戦死した。

この慰霊碑に参拝後、今年はまだ出会ってなかった黒アゲハ蝶が忽然と現れ、私たちの前を飛んでいき、赤い花の上を舞っていた。初参加の1年生H君がちょっとちょっかいをかけたら、御霊様が宿っていると思っている先輩の女性が「何してんの」と叱り飛ばした。ひめゆりの塔のようにはなかなか人が訪れない場所。御霊様が喜んで出てきてくれたのではと思う。(つづく)


二日目の午前中、1班の私たち金光教グループは、沖縄県の他の宗教者の皆様と共に、昨年と同様ゴミ収集活動に参加した。その中でS先生は、最前線のゴミが溜まっている壕まで降りていき収集。安全靴など万全の装備をしていないと入れてもらえない。聞きしに勝る量だったそうで、相当疲れ果てた様子であった。



約半分になった1班の他の方たちは、昨日に引き続き同じ場所を捜索。だんだんに見つかったようである。そして昼食前に、1班の捜索予定場所の一番奥に入ったところで多くの骨が見つかったとのこと。
地元沖縄5班の方々の応援を得て、完全一体のご遺骨が収骨された。私たちも昼食後応援に駆けつけたが、ほとんど収骨されていた。御霊様がお喜びになるので触ってやって下さいとのことで、順番に触らせて頂いた。






その後、昨日と同じ場所に合流。すると米軍の艦砲であろう不発弾が見つかったとのこと。その異様な雰囲気にのまれてしまった。早速に警察官が来て、この後自衛隊が処理するそうだ。


さて、最初に見つかった壕は一人しか入れないところから、土嚢に土をかき集めてもらい、地上に出してふるいにかけて収骨した。午前中から午後にかけて、写真のように白布の上にだんだんに並べられていった。








午後4時からは本部テントで、林先生ご祭主のもとに慰霊祭が仕えられ、今年も無事終了した。留学生のTさんも玉串を奉奠した。(つづく)


朝8時過ぎ、集合場所の糸満市摩文仁の沖縄平和祈念公園内の本部テントに到着。早くも那覇教会のご信徒たちにより準備が始まっている。ご準備、後片付けと毎年ご苦労を頂いている。感謝の言葉しかない。
そして、だんだんに全国から懐かしい顔が集まってくる。一年ぶりの再会に喜びのあいさつを交わす。午前9時、各班別に集合、整列。今年も100名あまりが参加している。林先生ご挨拶の後、元気のいい嶺井さんのご指導で準備運動。今年も始まるぞとの実感が沸く。
続いて各班付きの機動隊員と班長で捜索地帯の確認と打ち合わせ。私、1班の班長を拝命して早5年。今年の1班は総勢18名、わがグループと常連のD先生ご夫婦、そして千葉や名古屋からの一般から多くの参加を得た。不肖班長から注意点を申し述べ、写真撮影ののち、1班の捜索場所に歩いて移動した。

今年は健児の塔からさらに先に進んで、摩文仁の丘の断崖向こうの裏側から元の位置に回り込むように捜索する。30分ほど歩いて捜索出発地点に到着。平地を探して荷物を置き、若い男性はそこから海方向に下って捜索。女性は平地近くにある壕を捜索することにして始めた。



それから15分も経たないうちに名古屋からの一般参加者Oさんが、写真のやや大きな骨を発見。あまりの早い発見に、もしかして馬の骨かもしれないので全機動隊長のベテラン中澤さんにご確認頂いてから判断したいと伝えたが、内心は馬の骨だろうと思っていた。


中澤さんに来て頂いて早速に見てもらうと、何と写真のように中澤さんが常に持っている骨の標本図と全く同じ形の肩胛骨であった。ある方向から見た感じで判断してしまい、汗顔の至り。名ばかり班長さを早くも露呈してしまった。


程なく大腿骨が突き刺さった状態で発見。また、近くの壕で捜索したこれも千葉から初めて参加の女性陣が背骨など次々と収集された。寮生たちも銃弾や馬の蹄鉄や軍靴などを次々に掘り出し、何度も捜索された場所だと思われたところから次々とご遺骨や遺品が発見され、驚くばかりであった。(つづく)





