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めはりずし・さんまずし

先日の朝日新聞「食談議」というコーナーに「『故郷で美味しいものは一にめはり、二にさんま』。和歌山県新宮市出身の詩人・作家の佐藤春夫さんはこう語っていたという」との記事が出ていた。
そう、南紀名物のめはりずしとサンマずしだ。めはりずしは高菜を巻いたおにぎり。しょうゆだれで味付けがしてある。なぜ、「めはり」か。それは昔、紀州熊野の農家の方たちは、山々の畑仕事行くそのお昼の弁当に、大変大きく握って作っためはりずしを持っていったそうだ。
それを食べる時「目を見張るほど大きく口を開ける」ことがこの名の由来とされている。JRの電車の中、おみやげ屋さん、ホテルのお食事などなど、色んなところで食することができる。私の小学校の時の友人は、紀伊勝浦駅のほど近いところでずばり「めはり寿司 二代目」という店をやっている。
それから、サンマずし。これは北日本や関東にはない。それには理由がある。サンマは寒流にのって北から南下、房総半島沖をさらに紀州沖へと泳いでくる。関東辺りが一番脂がのったサンマ。それが紀州まで来ると脂がおちたサンマとなる。つまりダイエット済みのスマートなサンマゆえに押し寿司にぴったりの材料となるそうだ。
サンマずしは、今でも各家庭で作られているようで、一家庭一味とそれぞれ風味が違う。正月にご信者さんの手作りサンマずしがお供えになり、毎年楽しみである。結構沢山頂きありがたいことであるが、最近は子供たちがあっという間に食べてしまう。ぜひ、皆様も南紀に訪れ、お試しあれ。

再び、なぜ沖縄へ! 2

“”,”「思うがままに」2009年2月11日”,” 私は、だからこそ実際に戦闘があった沖縄の土地に膝をつき、その場に寄り添い、単なる感情に酔うものでなく、また空疎な言葉や熟語に惑わされることなく、その場所から自分自身で真剣に物事を問い、考えていく必要があることを強く思うのである。

 そうとしてまずは、国家のため、親兄弟のためと信じて戦った人々、心ならずも戦争に巻き込まれ、それでもなお父さん、お母さん、弟や妹を助ける一心で戦った人々、ただそこに住んでいただけで戦闘に巻き込まれ殺された人々、そうした尊い命の犠牲の上に今の平和があることを知ることが大切であると思う。

 そして昨日、「本当の戦争を知ってほしい」と言った意味は、そこに筆舌尽くしがたい悲惨な現実があったことを体感してほしいことと、抽象的な言葉による不毛な論議によって戦争の本質を見ようとしない愚かさからである。

 たとえば、先の戦争は日本の「自衛」、アジアの「解放」戦争と言い、すべてを正当化しようとする者。逆に「侵略」戦争であったと言い、「反戦」「平和」「自由」「民主主義」という美辞麗句のもとにすべてを断罪し、本質を見ようとしない者。戦争や平和の問題は、このような善悪単純な二元論では済まされないのだ。

 沖縄で実際に戦われた場所に身を置き、この戦争は一体何だったのか、なぜ沖縄で25万人、全体で310万人もの日本人が死んでいったのか、なぜ20世紀という時代に世界で2億人もの人々が戦争の犠牲でなくなっていったのか。私たちはそれを問うことによって教訓引き出し、次世代につないでいく使命があると思う。それを知るための一歩して沖縄を訪れてほしいと願う。   

 戦後64年、ご遺骨収集もだんだんに難しくなってきた。しかし、宝探しではない。出なくともその下に埋もれていることは確かなのだ。たとえ発見できなくても、砲弾に打ち砕かれ、あるいは火炎放射器の劫火に焼かれ、あるいは刀折れ矢つきて自ら命を絶った人々に思いをいたし、その地の上にじっと寄り添い、そして後は自分でしっかりと考えていただきたい。そこから必ずや明るい未来が開けるであろうと信じる。
  
 以上のようなことから、毎年できるだけ若い人に参加を呼びかけている次第であります。どうぞ、皆様にもご都合お繰り合わせをいただき、ご参加頂きますようお願い申し上げます。(おわり)

再び、なぜ沖縄へ! 1

 私は、沖縄遺骨収集目的の第一義は、いまだにご遺骨が山野に埋もれ、風雨にさらされ、あるいは岩石に押しつぶされている痛ましい事実を知り、そのご無礼にお詫び申し上げ、少しでも多くのご遺骨を収集、納めさせていだき、慰霊の誠を尽くすことにあると思う。

 そして、ひとりでも多くの若者に参加していただきたいのは、「本当の戦争を知ってほしい」、その一点である。これがいかに難しいか。しかし、だからこそ、難しいからこそ、取り組まなければならないと思うのである。

 今から20数年前、まだソビエト連邦が存在していた頃のことである。当時「日本と戦争をしていたのはソ連だ」と思いこんでいた女子高校生が少なからずいたことにショックを受けたことがあった。ところが今や日本が戦争をしたことさえ知らないという若者が増えているのだ。

 以前当HPふれた 『平和は「退屈」ですか―元ひめゆり学徒と若者たちの500日)』との本で知ったことだが、元ひめゆり学徒隊の方の言でさえ、それを聞いた女子高校生が「言葉が心に届かない」と言ったほど、戦争体験を伝えることは至難の業である。  

 しかし、難しいから無理と諦めるか。至難の業であるからこそ伝えようと努力するか。その努力の仕方に工夫がいると思う。「戦争体験を語り継ぐ」では、戦争を体験してない私のようなものは端から撤退しなければならない。いくら戦争を悲惨だと言葉を尽くしても体験者の言葉でさえ伝わらないときに、さてどうするかが問われるのである。(つづく)

第36回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2009年1月

 実は、沖縄陸軍病院 南風原壕群20号には、南風原文化センター(残念ながら今回は改装中で休み)とともに2004年の沖縄遺骨収集時に東京から参加した数名で訪れたことがある。迷いに迷よってようやくたどり着くと、「沖縄陸軍病院跡」と朽ちた看板が無造作に置かれており、ショックを受けたことがあった。

 それは今日ある整備のための工事中だったためと思われ、少しほっとしたが、この場所も大変な悲劇の場所である。陸軍病院といっても、日本陸軍が最初に沖縄守備軍司令部を置いた首里を放棄して南下、この地域一帯の自然壕に急遽司令部や病院を置いたのだ。

 このたび整備され綺麗になり、ガイドさんの説明付きで誰でも見学できるようになったのはいいが、その分ここで何があったのかという事実について想像しにくくなっているかも知れない。しかし懐中電灯を消したときは、さすがに当時の辛苦がどれほどのものであったかが思われた。

 当時、軍医は数名。看護士として動員されたのが「ひめゆり学徒隊」の女学生たちである。もちろん看護士の資格などはない。このひめゆり学徒隊については映画も数本作られており、ぜひとも見てから見学に行っていただきたい。

 10年ほど前に子どもたちにも見せたことがある。兄妹ともいまだに忘れられないシーンが、この病院壕に負傷して運び込まれた軍人が、学徒隊女性の制止を振り切って、自分の小便を飲んでしまうところだ。無惨である。

 さて、カーナビのおかげやだいぶ地理に明るくなってきたこともあって、移動の時間がスムーズ。だいたい予定していたころとはすべて回れたが、まだ時間があるのでレンタカー屋さんに近い海軍壕司令部(旧海軍司令部壕) に向かった。

 この壕は先程の陸軍病院壕や住民が仕方なく逃げ入った自然壕と違って、工兵隊等プロが入って作られたのであろう、壁も塗られしっかりとした作りになっている。沖縄のほかの壕群に比べれば相当に広い。しかし、この壕に何千人もの海軍将兵が傷つき、死んで行ったことを想像すると言葉もない。

 その後、暖かくなった外の展望台になっているところで少し休憩していると、東北弁ばりばりの65歳から70歳くらいの集団がやってきた。大きな声で騒がしい。そして「ここは何?」、「え、わからん」、「海軍の壕みたいよ」、「見なくていいよ、次行こ」である。いったい何のためにこの高台まできたのか。

 最後の最後にきてがっかりではあるが、これも日本の風景、まあ、「平和で何より」と思い直し、空港へと向かった。この一件で逆に、沖縄で何があったのか、今現在どうなっているか、微力ながらますます伝えるきっかけを作って行かなければと強く思ったようなことである。(終わり)

第36回 沖縄遺骨収集奉仕参加 9 2009年1月

 その後、やはり前々から気になっていた「富盛の大獅子」(写真1)をぜひ一度見たいと思い、途中寄ることにした。(これも中澤修平氏のホームページに詳しいのでご参照を)写真2は、その中澤氏のホームページにも掲載されている「米軍が前線を偵察している」写真。ここから摩文仁の海岸線まではもう目と鼻の先、2キロメールくらいである。(写真3)

 その距離の短さに驚くとともに、高地であるこの場所から青く輝く海や薄緑の大地を遠望すると、今更詮無いことではあるが、「何とかならなかった」ものかと断腸の思いで立ちすくむしかなかった。この時点からさらに多くの犠牲者が出たからである。

 さて、昼も大きくまわり楠木先生に「お腹空いてる」と聞くと、「そうでもない」と。私も実はあまり食欲がなく、途中「軽く麺類でも」と車を走らせた。伊覇という地名のところにさしかかると「伊覇そば」との看板が見えたので思わず入った。店は地元の人で一杯。せっかくだからと一番高いご当地名が付いている「伊覇そば」を頼んだ。(写真3)
 
 それでも何と500円。「沖縄そば」や「ソーキそば」は380円。驚きの安さ。しかし、まずはスープと飲んでみるとこれが何と本当に美味。メインは豚と違って鶏肉だが、これがまた何ともいえないやわらかくて美味しい。これで元気を得て、南風原(ハエバル)にある沖縄陸軍病院壕群20号跡に向かった。

第36回 沖縄遺骨収集奉仕参加 8 2009年1月

 展望台から降りて京都の塔の方に向かうと、上記(写真1)にあるようなトーチカがあった。米軍の砲弾にやられたのか、前面のコンクリートがはぎ取られている。中に入って小さな穴からのぞくと、なるほどここから銃を構えていたのかと実感できる。(写真2・3)

 現在は木々がうっそうとしており、眼下の視界はふさがれている。しかし、当時は米軍の艦砲射撃や火炎放射器で高台は焼き尽くされていたので、このトーチカから米軍をある程度は見えていたと思う。ここにいて死んでいった方のことを思うと、負けと分かっていながらよくぞ踏みとどまり、その若き命を捧げたことと敬意を表したい気持ちで一杯になった。 
 
 その後、嘉数高地から沖縄守備軍司令部がある首里城までの激戦地を廻りたかったが、同行の楠木先生は10歳の時以来の沖縄とのことであるから、やはり基本の沖縄県平和祈念資料館は押さえておくべきだと思い、一気に南下することにした。

 そしてゆっくりと平和祈念資料館を見学し、併せてそこに併設されていた図書館に立ち寄った。平和に関する本や戦時中の部隊日誌等の資料を多く集めていることに感心した。とくに子供向けの本が充実しており、これが容易に手に取ることのできる図書館は全国どこを探してもないだろうとうらやましく思った。この図書館が近くにあったらいくらでも平和集会ができるなと。(つづく)

第36回 沖縄遺骨収集奉仕参加 7 2009年1月

 さて、遺骨収集終了後の月曜日は夕刻5時の飛行機までいつもの平和観光。ここのところの定番コースをひとまずおき、中澤修平氏のホームページ『南部戦跡に膝をつきて』「2008年2月15日(金) 【 嘉数高地などを慰霊巡拝、午後は司令部壕調査 】」を参考に、まずは沖縄戦最初の激戦地嘉数高地へと向かった。写真等非常にくわしいのでご一読を。

 私たちも、那覇市から1時間もかからずに到着。高地だから山だろうとのイメージで向かったが、どうもそうではない。カーナビの住所検索を頼りに車を走らせると「嘉数高台公園」の標識が見えた。

 (ちなみにレンタカーのカーナビは、なぜか地図検索以外のたとえば「住所」や「電話番号」のところのランプが消えて検索ができなくなる。説明書を読んでもわからず、電源を切ったり、車を止めたり、さらにはエンジンを切ったりしてもだめ。4日目という相当たってから楠木先生がレンタカー会社に電話をすると、何と「車を止めて一度サイドブレーキを引く」と復活するとのこと。これなら早く聞いておけばよかったと。慣れない二人人であった)

 普通の公園のようなところに70歳くらいの地元のおじさんがいて、あいさつを交わす。公園内に入るとすぐに何百段もある階段を登る。登り切ると展望台がある。階段を上がっていくと先程のおじさんがいて、もう一人あがってきた観光客らしき女性の方に色々と説明している。

 私たちも説明を聞かせてもらう。眼下に普天間基地が見える。2004 年8月13日に沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落・炎上したその大学を指さして位置を教えて下さった。本当に真横。今まで事故がなかったことが不思議なくらい。しかし、いまだに基地はある。

 またおじさんは、そこから見える大海原を見渡しながら「もやっているでしょう。昔はこうではなかった。見事に青々として綺麗だった。このままで行くと地球環境は本当に危ない」と力説下さった。このおじさんは何か運動している方と思いきや、タクシーの運転手さんで毎日朝一必ず運動のためにきているとのことであった。

 確かに東京の空まではいかなくても、ずいぶんと景色がどんよりと見えた。冬の空気が綺麗な今日の東京、まさに空の青色がおかしい。地上に近い空のぐるりは雲一つない、にもかかわらずグレーの曇り空と同じ色だ。沖縄でさえそうなってくると本当に危ないのではと実感した。(つづく)

第36回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6 2009年1月

 南冥の塔に参拝して本部に帰るとどうも様子がおかしい。聞くと何とあのベテランの3班班長のN先生が崖から落ちて動けないとのこと。最初は大丈夫かと本当に心配したが、だんだんに入ってくる情報ではとにかく元気にはしているとのこと。

 結果的には鎖骨を折るという名誉の負傷であった。その現場は摩文仁の西の端の断崖の下。それは第二日に作業に入った場所である摩文仁の中央付近(平和の礎と各県の慰霊碑郡)の断崖下の海岸線から見るとちょうど落ちられた場所が遠目に見える。(写真右の一番右下に見えるコンクリート付近)

 上から作業をしながら海岸線に降りる直前、2メールくらいの高さから下の少し岸壁になっているコンクリート部分に降りようとしていた。班員全員がローブをつたって降りたあと、班長であるN先生がローブを回収して降りようとしたときにバランスを崩したそうだ。

 第2日元気に出てこられた先生は、何ともいえないすまなさそうな顔をして「みんなに大迷惑をかけて申し訳ない」としょげておられた。私は「いえいえ班員を無事下に降ろし、守ったのであるから名誉の負傷です」と言うと、「油断が出た。申し訳ない」と心のそこからの重ねてのお詫び。私は内心「さすがお道の先生は違う」と思いながら、一緒に記念写真を撮っていただいた。何はともあれ元気で何よりであった。

 さて、2日目の作業はその海岸線から断崖の真下当たりまで上にのぼりながらの捜索であったが残念ながら見つけることができず、午後は海岸線ぎりぎりのところに生い茂っている草を刈っての捜索に徹した。第2日1班では、肩と思われる骨片と小さいお骨が見つかった。

 その後、4時から本部テントで那覇教会長林雅信先生ご祭主のもと、沖縄戦戦没者慰霊祭が厳かに仕えられ、第36回の沖縄遺骨収集が無事終了した。今年も80人強(そのうち一般からの参加者20人強)の参加者があり、また来年会おうとお別れした。

 今年は日程の都合上何人かの方が出席することができず、私は別れ際、「来年は大挙してきますから」と多くの方に言ってしまった手前、2010年2月20日21日に行われる第37回沖縄遺骨収集参加の呼びかけをはじめている。すでに初めての方一人が参加したい旨表明、一度参加した息子や寮学生たちもだいぶ乗り気になってきている。

 どうぞ、これをお読みの皆さんで参加ご希望の方がおられましたら、 金光教東京センター(辻井)までご一報下さい。(つづく)

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