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第33回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2006年2月

 2006年沖縄遺骨収集、今回は10回にもならないと思っていたが、10回まできてしまった。小笠原先生から写真を頂いたので当欄「2006 沖縄遺骨収集 4」以降、その文章の関連写真を掲載させて頂いた。(写真をクリックすると拡大)

 アメリカ人として長年参加されている超ベテランのロンさんがおっしゃっていた。「皆さん遠くから来ているので、早く探し当てたいとはやる気持ちはわかるが、この作業は、地道にじっくりと腰をすえて取り組まなければならない。また、来年も会おう」。

 と、英語でお話しになった。わかったような顔をして聞いていたが、もちろん私は何を言っているかさっぱりわからず、後で通訳してもらったようなことだ。私もロンさんがおっしゃるとおりだと思う。神様への祈りを強く持ちながら、今後も取り組ませて頂きたい。(おわり)

第33回 沖縄遺骨収集奉仕参加 9 2006年2月

 もう一つ、疑問に思っていて今まで聞けなかったことについて、こちらから質問したわけではなく、その質問を予想していたかのように林先生が語ってくれた。びっくりしながら、いやこれはわざわざ神様が用意してくれたのではと恐縮した。

 それは収集されたご遺骨の数え方である。出発前の2月16日付当欄で私は「記録からいくとまだまだ何万単位でのご遺骨が残っているようだ」と書いた。しかし、これが間違っていた。いや本当は当たっているのだ。

 林先生はみんなが収集したご遺骨を、行政が管轄する納骨堂に納められる。その時の出来事。林先生が納骨堂にはいると、その数日前に東京からの奉仕団がきていたようで、その団体が収集したと思われる骨片が入ったビニール袋が6つ祭壇に置かれていた。ところがノートに記帳されている数は、6柱となっている。どう見ても1柱もなかったそうだ。

 かつては完全一体で初めて1柱と数えていたが、その後は頭蓋骨やのどの骨など人間が1つしか持っていない骨が見つかった場合も1柱と数えるようになったそうだ。それからもだんだんに曖昧になってきて、大腿骨など大きなものが二つ以上出てきた場合も「私たちはこれだけ集めた」という心理が働くのか、1柱として申告、受理されてきているそうだ。もちろん本教は完全一体で初めて1柱と報告している。

 こうなってくると、どうしても同じ人の骨でも何柱と多く数えてしまうのは当たり前。行政としては早く取り残しがないように報告したいがために、その方が都合がいいのである。結果、林先生によると県や厚生省は残5000人程度と正式に発表しているらしい。しかし、骨片だけで1柱と数えている現状をみると、5000は明らかに少ないと思う。私の直感だが、その数倍はまだまだ残されたままではないかと考えている。(つづく)

第33回 沖縄遺骨収集奉仕参加 8 2006年2月

 最後に予定されている慰霊祭のために、やや早めに作業が終了し外に出てみると、大雨。私とあの公ちゃんが組むと、大雨、大雪、大雷が定番であったが、今回はきていない。やはり私が雨男か。寒風の中、厳粛に慰霊祭が仕えられた。

 翌日、那覇教会のちょうど御祈念の時間にお参りさせて頂いた。その後林教会長からいろいろとお話しを承った。本年那覇教会は布教40年に当たる。先生のご苦労とその中に込められた強い願い、それが沖縄の地だけではなく、沖縄が助からなければ世界が助からないという熱い思いの40年である。

 私たちは、昨年の2005年の年を簡単に戦後60年と呼ぶ。いや、戦後60年と意識してくれているだけでもいい。ほとんどは無関心。当然、若い世代が知らないのは無理もない。しかし、いつも言わせて頂いているように「戦後」ではないのだ。

 沖縄はそのまさにその現実を背負っている。関係もないのに勝手に戦争を始められ、辛酸をなめ、そして今でも経済発展と基地問題の狭間でいろんな意味合いにおいて沖縄の人々が分断され、負を背負わされている。人ごとではない。東京上空は、アメリカ軍隊の空域である。自衛隊機も当然民間機もそれを避けるように飛んでいることを何人の人が知っているか。林先生のお話を承りながら、強く呻吟した次第である。(つづく)

第33回 沖縄遺骨収集奉仕参加 7 2006年2月

 第2日、あいにくの雨。今日は、アメリカ人のロンさんが見つけた壕を捜索することとなった。昨日よりはやや本部のある摩文仁に近い民家のすぐそばにある。駐車場からやや登ったところ、道から数メートル離れているところに入り口がある。

 中はかなり大きく、そこからいろんな方向に小さな穴があり、奥へと続いている。まずは一番奥へと進んでいくと、やはり物資置き場にしたであろう整理された区画がある。一番奥のどん付きで作業を始めたが、すぐに骨片や注射器、薬品、軍足などが出てきた。後でわかったことだが、ここは当時病院になっていたそうだ。

 掘り始めるとすぐに小笠原先生が、骨盤と思われる大きな骨を探しあげた。その後もいろいろの骨片が現れる。しかし、一度休憩したときにベテランのロンさんに鑑定して頂いたところ、大きな骨は残念ながら「horse」であった。ロンさんは骨片を1つ1つ丁寧に見て、「human! animal!」とおっしゃいながら分けていく。

 骨盤と思われたものを見た瞬間、大きな声で「horse!」。小笠原先生相当がっかりした様子だった。しかし、人間の歯や、あご骨、指の骨などなど先生は多くの人骨を拾い上げられた。午後から沖縄班が合流し、この壕はすでに一度すんでいるとのことであった。しかし、まだまだ取り残しがあったので、その後も時間切れまで作業が続いた。(つづく)

第33回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6 2006年2月

 さて、午後からは地元の住民の方の情報を得て、具志頭から西にさらに数キロ進んだ場所に移動した。車一台ぎりぎり通れる泥道をいく。レンタカーがぐちゃぐちゃ。大丈夫かなという感じである。車を降りてしばらく歩くと長年の波によってできた大小洞穴がある。

 地元の方がおっしゃるには、ここで24人の方が亡くなり、そのままになっていることは確かだそうだ。ただ戦後60年、波風よって土砂やいろんなものが洞窟の中まで入り、堆積している。こことわかれば集中的に掘るのであるがとても特定できない。

 大小洞窟の穴を通り抜けて山へとわけ入っていったが、途中、沖縄テレビの方が取材に来てくれていた。結構アップで長い間カメラを回すので意識してしまった。私の雄姿がニュースで流れたかどうか。(*^_^*)  しかし、今日一日皆さん手分けして相当頑張ったが、残念ながらご遺骨は発見できなかった。

 帰り際に名古屋の教外者の方に、道を隔てた山側に軍の施設になったであろう大きな壕があるということで案内してもらった。あの豊見城にある海軍司令部壕よりはだいぶ規模は小さいが、物資置き場やおそらくは上官の部屋であろう整理された空間が何カ所かあった。最初米軍の上陸を予想していた地点の司令部らしい。戦国自衛隊ではないが、洞窟を出るともしかして昭和20年にタイムスリップしているのではとの不安に襲われた。(つづく)