

昨日書いた軍服のボタン。



第二日も昨日と同じ範囲の捜索。先発隊の皆様が、進路全てに目印としてロープを張ってくれているので間違わずに安心して進める。





途中の分岐点で全機動のNさんが進路について詳しく説明をしてくれる。私たちはここからさらに西側ライン海側に回り込む。進路ロープの最後の分岐点あたりに弁当を置き、1班の拠点とした。1班Cグループは、昨日の完全御一体が出た場所のすぐ近くに見つかったご遺骨を引き続き収集し、またその周辺を捜索してもらった。






ABグループは、拠点からさらに海側に進む。私のAグループは途中自然の洞窟を集中的に捜索、取りこぼしの骨片を数点収集した。お昼は拠点付近に集まりお弁当を広げる。どうも背中がむずむずする。
実は昨日お弁当を食べていたその下からご遺骨を発見、Cグループが引き続き今日も収集して頂いている。
何か感じるものがあり、午後からわがAグループは、そのお弁当を食べた真後ろの崖下を伐採捜索。B班の方には、そこから反対海側に少し降りたところの大岩を指定し、集中的にその付近を捜索してもらった。あまり動き回らない作戦だ。






1時間がんばったが全く出てくる気配もない。娘とHちゃんはしりとりをはじめる始末。娘に「掘ったところに寝てみて、逃げ回っていた方たちの気持ちになってみろ」と気合いを入れる。時計を見ると3時をまわった。第二日は4時から慰霊祭が仕えられる関係で早く終わらなければならない。
もう一踏ん張りと掘り始めたら、木片が出てきた。娘たちがご遺骨かもと言うが、木だろうと。すると娘がもう一つ大きな大腿骨らしきものを掘り出した。その時点でもまだ確信が持てない。一応置いておこうと言っていたちょうどその時、何と第1回目から参加しているIさんが偶然にも現れた。
聞いてみるとすかさず「ご遺骨だ」と。きゃーという感じである。慌ててみんなで一生懸命掘り始める。3班の方たちも応援に来た。昨年も肩胛骨を馬の骨と間違えそうになった。二年連続、面目ない。私の頼りなさにIさんを差し向けて頂いたに違いない。
驚くことにBグループに指示していたところから、まさに同時刻頃にご遺骨が見つかり、続々と出てきているとのこと。毎年のことであるが、最終日のそろそろ終わらなければと時間が迫ったときに見つかるのだ。今年は特に御霊様が呼んでいるとしかいいようのないくらい。ABC3グループに分けた、その3カ所全てでご遺骨を発見。それも相当数の御骨を収集させて頂いた。

大戦後70年となる第42回金光教沖縄遺骨収集にわがグループは、東京学生寮から6人、青年教師、ACT会員、また女子高校生の参加も得て、総勢12人が参加した。内初参加者が5人、久々の参加が2人いたところから、まず最初に那覇教会に参拝、その後の戦跡めぐりなど昨年と全く同じ行程となった。
ただ、本年の日程が中国の旧正月と重なり、また円安の影響もあってか、中国、台湾からの観光客が押し寄せているとのことで宿が取れず、1月月末までホテルが決まらず、かなりやきもきした一月となった。


遺骨収集第一日、今年は大戦後70年という節の年もあってか、130人近くの参加者が集った。そのうち40人近くが一般から参加とのこと。ありがたいことである。そのようなことでいつもは10人前後のわが一班も何と今年は20人の班構成となった。
班長である私一人ではどうにも把握できがたい。一昨年だったか、午後から終了時間いっぱい迷子になった方もいた。そこで、ここのところ毎回参加してくれているB氏を副班長に任命。一般からの参加で起動班のベテランKさんの3人をトップに班内をABCの3グループに分けさせて頂いた。









わが一班は、先に事前調査で入って頂いたN さんたちが発見したご遺骨の収集に向かった。本部から密林の中を歩いて約40分で現場に到着。端から仰天させられた。平らな岩の上に大腿骨や骨片がむき出しになっていたのだ。おそらくここに倒れたまま亡くなったのであろう。
足から反対方向の頭の付近には頭骨は見当たらない。しかし、岩下にあるとの確信し、大石、小石を取り除き下の土を掘って頂くと、作業を始めて30分くらいで頭骨が発見され、その周囲から続々と各箇所のご遺骨が収集されていった。




遺骨収集担当の公園管理者の方も見えられ、崖上からの飛び降りや海から打ち上げられた可能性を調べる。数年前に私が第二発見者として遭遇した自死者遺体のように、その可能性もなきにしもあらずからである。
その場所から上を見上げると4、5メートルある巨岩がそそり立っている。しかし、どうがんばっても登ることはできない。下の海岸線からもかなり上の方に位置し、流れ着くとことも考えられない。
約1時間ほど経た頃か、緑のボタンが発見された。ベテランのNさんによると陸軍の軍服のボタンは緑色だとのこと。これでこのご遺骨は軍人さんで間違いないとのことであった。ということは、この摩文仁の海岸線の断崖下は他の団体も含めてもう何度も何度も入っているところであり、それにもかかわらず発見されたということは、まだ誰も歩いていなかった場所ということである。もし通ったら絶対に見逃さないであろう。
何ともこの場所で亡くなられてから70年もの間、雨風に晒されていたということになる。何ともどう表現していいやら、何の言葉も見つからない。ただただ、御霊様の立ち行きを祈るばかりであった。(つづく)

2月7日午後7時から寮集会室において、2月の月例祭が、寮運営委員で武蔵小杉教会の須賀院明徳先生をご祭主に仕えられ、引き続いて概要以下の教話を拝聴し、その後食事会が開かれた。
「1910(明治43)年創立の当寮を私も卒寮し、大変お世話になった。当時は中山亀太郎先生が寮監で、二人相部屋で20室40人が起居を共にしていた。現寮監も卒寮生である。
先ほど祭典で奉唱させて頂いた1910年に制定された『綱領』の中にある、〈故に苟も事に処するに、全霊全魂を打出して語り、又行ひ〉とあるように、当時はお道についてや、いかに生きるべきかを夜を徹して語り合った。
その友垣は今でもご本部などで会うと空間と時間をあっという間に埋めてくれる。人生にとって非常に貴重な財産となった。皆様も全霊全魂を打出して語り合って頂き、お道の発展に寄与して頂きたい」

引き続いて食事会。今回はA君、T君、H君の男3人。本当のところあまり期待していなかったが、何と食事会はじまって以来初の和食。鯖の味噌煮、けんちん汁、きんぴらゴボウ、あと辻井主事が麩チャンプルを披露した。




けんちん汁は本格的に出汁から取って作ったそう。薄味ながらも出汁がよくきき、嫌みな濃さがない見事な美味にビックリ。作ったのはT君だそうだが、日本人男でここまで料理上手に初めて出会った。まだ一年生なので先が楽しみだ。

K君、来月の東京学生大会に披露予定の自作の曲を熱唱。

何とも痛ましい憎しみの連鎖が続き、暗澹たる気分の毎日である。どう対処すべきなのか。明日の過激派、テロリストたちは世界中にいる。いくら軍事力を持ってたたいても治まらない。まるでモグラたたきのように。
過激派の構成員たちは、金銭的困窮の中で働き場もなく、安易に原理主義に走り、兵士となる。この貧困→原理主義→過激派兵士の負の連鎖を断つためには生活支援や教育支援を根気よく続けていくしかない。
人間はいくらでも残酷になる。その悪魔性を表出する触媒は、臆病や憎悪の感情や間違った全能感だ。それは日常生活の恐怖と欠乏から来ていることは間違いない。まさに憲法前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ」とあるこの恐怖と欠乏からの解放しかない。
日本は大戦の反省にたって「非軍事主義」をとった。これが国際社会での評価を得、中東諸国に親日国が多かった。この非軍事主義、反暴力主義を国是とし、安易な支援ではなく、過激派が利することのない真の人道支援が日本の果たすべき役割ではないか。
非軍事といいながらアメリカの軍事力に頼り、専守防衛と言いながら海外に自衛隊を出すという、非武装国家の振りをしている欺瞞的平和主義ではなく、また、「積極的平和主義」という名の軍事的貢献ではなく、非軍事・反暴力の「徹底的平和主義」をとり、一途に貢献している日本がやられたら世界が困るいう国になるべきではないかと思う。