大卒の3人に1人が入社した会社を3年以内に辞めてしまう。結婚適齢期の約4割が結婚していない。結婚してもそのうち3人に1人が離婚するというご時世である。相当深刻な数字だ。このままでは国が滅ぶ。最も大事な教育の現場は、体罰問題、教師の退職問題など目も当てられない状況を呈している。
日本は敗戦によって、自由と民主主義を手に入れた。もちろん大切なことである。しかし、そのことによって太古の昔から受け継がれてきた文化、価値観を根こそぎ否定してしまった。そのひずみがいまに現れているのではないか。
また、手に入れた価値観も相当にはき違えている。例えば自由という価値にしても「何でも自分で思い通りになることが自由」と考えている若者がいかに多いことか。言うまでもないことだが、自由を得ようとすれば当然様々な困難や思い通りにならなことを引き受けて、責任をとらなければならない。その上に立っての自由である。
現政権は教育改革に力を入れようとしている。ただそれが愛国主義など単に歴史を逆行する復古主義では何の解決にもならない。それは偏狭なナショナリズムで、つい最近の戦前国家への回帰に過ぎない。日本悠久の歴史の中で受け継がれ、積み重ねられてきた伝統、価値観を踏まえての、未来を指向し、地球、世界を視野に入れた新たな価値観を作り上げていかなければならないと思う。
アルジェリア人質事件、多くの方が犠牲になってしまった。何とも痛恨の極みで、心からお悔やみ申し上げたい。外国で働く方、そのご家族の方を思うと本当に心配なこととお察し申し上げる。
日本の常識が世界の常識でないことはよくわかる。しかし私は日本の常識、つまりは人命第一主義が間違っているとは思わない。一人の命は地球よりも重いのである。
しかし、テロリストを野放しにすると、それこそ10万、20万の命が危ないという。今回は未曾有の事件にもかかわらず、数十人の犠牲ですんだのだ。仕方がないと。
これもつまりは人命の尊重であり、そのいのちの数の問題である。これは太古の昔から、サンデルの政治哲学ではないが、功利主義、リベラリズム、コミュニタリアニズムと徹底的に議論されてきて、結論は出ていない。
ただ、本当に「仕方がない」ですまされるのか。この視点は結局犠牲になった人の立場には立ってない。人間の一人ひとりの命を尊重しなければならないということは世界共通である。情報収集能力も危機管理も、もちろん大切ではあると思うが、世界はもっと真剣にテロリストの撲滅をあらゆる角度から検討しなければならないと思う。
かつて「臭い匂いは元からたたなきゃダメ」というCMがあったが、結局消臭スプレーをかけただけでは、永遠と臭いは無くならず、ずっとかけ続けなければならない。この台詞のように本当に元からたたなければ解決しない。
消臭スプレーはつまりは軍事力で抑え込むあり方である。この戦いは永遠と続くだろう。そうではなくて、争いやテロの原因そのものを元からたたなければ真の解決にはつながらない。例えば先進国による武器輸出を抑えるだけでも相当違ってくると思う。それこそ日本が率先して取り組むべき課題であろうと思う。
当ブログが立ち上がった時に「一瞬立ち上がりがいつもと違うなぁ」とすでにお気づきの方もおられると思いますが、ブログソフトウェアをMT4からWordpressに変更し、サイトを引っ越ししました。いや正確には引っ越しをして頂きました。
というのは、Ipadでブログを更新しようとした時のことです。Safariでネットに入って、パソコンと同じブログ管理画面で操作します。何度目かブログ書き込みの字数が多いときに、Ipadの画面ではスクロールバーが表示せず、書き込むことはできることはできるのですが、訂正があった場合はカーソルがいかないので何とも苦労しておりました。
どうにもこうにもイライラしますので、いつもお世話なっているパソコン師匠のO先生に相談すると、先生はすでにスマホからブログを更新しているとのことで、ブロクのソフトウェアの問題とのことでした。
MT4のバージョンが古く、またMT4ではスマホでは更新できず、Wordpressではできるとのことで引っ越した方がいいと言われます。ただ、私のブログの場合は先生のおかげでいろいろと変更してきています。なかなかすっとは行かないようで、説明を聞かせて頂いてもとてもとても私にはできそうもありません。それこそ、データーを消してしまったら大変です。
あきらめるしかないと思っていたら、O先生からメールが届き、何ともう引っ越しができているとのことでした。いつもいつも本当にありがたいことです。
そのようなわけで、Ipadからも更新できるようになりました。また、iPhoneなどスマホをお持ちの方は、スマホからも閲覧できますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
16日に起きたアルジェリア南東部での人質事件から4日経た現在も、事件の全容どころか邦人に犠牲者が出たのかどうかもわかっていない。人質に取られている邦人の家族や関係者の方々はいても立ったもいられないであろう。何とか全員無事であることを祈るばかりである。
卒寮生で石油プラントの技術者として、中東に出張を繰り返している子がいる。確かオーマンだったかイエメンの日本人誘拐事件の時だったか、そこから数十キロ離れたサウジアラビアにいたと聞いたことがある。湾岸戦争やイラク戦争の時も影響があったそうで、まさにいのちがけでの仕事である。
このたびの事件も様々な要素が絡み合っているようで、ただ、アルジェリア政府はあの米国をして「憂慮する」と言わしめたほどの速攻強攻策に出た。人命尊重を第一とする私たち日本人からすれば、理解できない対応だ。他の国々も一応は人命尊重の対応といってるが、日本とはかなり温度差がある。
こうした人質事件、テロリストと交渉し甘い顔を見せれば第2、第3の事件が起きる可能性が高くなり、突入を強行すれば犠牲者が出る。どう対応すればいいか、いつも同じ議論が繰り返される。そして相も変わらず、テロとの戦いを強調し、テロには屈しないとの大合唱だ。
もちろんこの問題は、テロの温床となる貧困や経済の問題だけではない歴史的、民族的、宗教的な問題も複雑に絡み合っているだろう。だからこそ、軍事力で押さえ込むだけではテロを撲滅できないこともまた歴史が証明している。
日本でもこうした事件が起きるたびに同じような議論が繰り返される。問題は人命尊重といいながら邦人救出などの体制ができてないところにある。つまりは自衛隊の問題である。かつてはPKOに始まり、近くはイラク戦争への自衛隊海外派遣問題である。
さっきフジテレビの番組にコメンテーターとして来ていた元官僚の経済評論家は、「普通の軍隊にすればいい」と発言していた。いよいよ憲法第9条の問題である。こうした事件が起きると、自衛隊を軍隊にした方がいいと勢いづく。しかし、少し乱暴ではないか。要は人命尊重のための邦人救出の問題である。自衛隊を軍隊にするというのは時代の逆行で、また、軍隊にすれば全て解決するという問題でもない。
向かう方向性は戦争やテロなき平和であり、武力によらない平和である。だからこそ人命尊重第1のあり方である。憲法9条は変えなくてもいい。いや、だからこそ9条が必要だと思う。大戦後この方ずっと戦争や紛争をしている普通の国にわざわざならなくてもいい。希有なる平和国家を誇るべきであると思う。
武力なき世界平和の方向性を見据えつつ、現代の問題に対応すべき体制、組織を構築し、即応できるようにすればいいと思う。何が何でも自衛隊の海外派遣はダメとは言わない。邦人救出は自衛の問題であるから自衛隊の中にその専門部隊を作っていいと思う。
さらには、警察、消防、海上保安庁、自衛隊等々を現在の問題に併せて総合的に改変し、人を殺す組織ではなく、人を助けるサンダーバード的部隊にしていけばいいと思う。
ここのところ、私の携帯番号やメールアドレスの変更から多大なご迷惑をおかけしていること、お詫び申し上げます。日頃からしょっちゅうやりとりをしている方には、周知が比較的早くできたと思いますが、連絡が行き届いてない方からお叱りを受けております。まだ連絡漏れの方も多数おられると思われます。
言い訳を述べます。まずもって「スマホ」なるものが登場し、寮の学生たちのほとんどは「アイフォン」なるものを持ち始めました。「SMS」がどうのとか、「MMS」がどうのか、「ライン」はどうのとか、と通信手段がどんどん進歩します。
そのうち息子が持ち、寮生たちからもかなりプレッシャーがかけられてきます。寮生間のコミュニケーションはアイフォンの方が断然によくなると言うのです。寮生たちに乗り遅れてはとアイフォンを持ち、ここで携帯番号とメールアドレスが変わりました。
次に女房がアイパットなるものの購入のため、個人の固定電話をやめることを提案してきました。寮事務室に公的な固定電話と私個人の辻井家の電話が寮監室にあり、この個人の固定電話をやめ、ウィルコムの携帯電話を持てば、どこの会社の電話へかけても10分無料。さらに3台もつけてくれると言うのです。
毎月の固定使用料金は、それはそれはウィルコムの方が3台もらっても断然安く、通話料もほとんど無料。ということで、私と妻と勝浦の私の父と3台持つことにして、個人ではこのウィルコム携帯電話を持つことにしました。これで携帯番号がもう一つ増えます。
次にウィルコムの携帯を持つということは、アイフォンのつまり電話機能がいらなくなるということです。アイパット使用でよくなるし、ワイ・ファイの電波を使えば、月々の使用料も安くなるということでアイフォンの電話機能を中止しました。そこで今度はアイフォンの電話番号とメールアドレスが使えなくなり、これまで使っていたパソコン使用のメールに統一することとなったわけです。
何を言っているのやら、わかる人にはわかると思いますが、わからない人は全くわからないと思います。私もこうなる前は全く理解しておらず、妻がかなりはまって勉強してくれたおかげと寮生たちが周りにいたからこそできたのであり、その点では感謝しております。
というわけで、かなりややこしい変更になってしまい、最後のこうなりましただけをご連絡申し上げたらよかったのですが、何せ時間差があり、ややこしいことになってしまいました。事情ご賢察の上、ご容赦下さい。世の中の進歩は早すぎます。(*^_^*)
雪国の方々は、何を大騒ぎしているのかと思っていることだろう。あっちもこっちも大変である。
それほど首都圏は雪に弱い。ほとんどの電車は遅延をきたし、道路は立ち往生する車が続出、大渋滞。
私も昨日の雪かき、今日の東京センター行き帰りは大変だった。小金井も御茶ノ水も救急車のサイレンが鳴りっぱなし。
何年かに一度は必ず降るのだから、1年、2年では対策はできないだろうが、それこそ20年、30年かけてだんだんに強くしていくことが必要だったのではないか。
今からでも遅くない。将来を見据えて複数年度で使える予算を用意して、だんだんに整備していく発想はできないものだろうか。
昨日は義父の五十日祭、納骨祭が神戸の金光教山手教会で仕えられ、参拝した。妻は1日早く大阪入りし、娘と2人新幹線で神戸に入った。娘と私は性格や食べ物の好みが似ているが、時間に心配性なのも似ている。
7時50分東京発の指定席をとっているのに、7時には東京駅に着く。「早いに越したことはない」と2人で言い合いながら待つ。そして定刻通り出発。ここのところバスか車だったので、改めて新幹線の速さに驚く。
本日これから寮月例祭なのでトンボ帰り。神戸の町は阪神大震災以来なので残念であった。ただ、帰りに嬉しいことがあった。東京駅から中央線に乗ってある駅に着いたときのこと。私の右側2つ向こうの女性が席から立った瞬間手袋を落とされ、気がつかずに出口へと向かった。
これまでの私はいつもとっさの動きができず反省ばかりであった。ところが今回は、右の方より早く瞬間的に動くことができた。ただ、追えば間に合うと思って声は出さなかった。というより出なかった。
ところが意外と女性は出て行くのが速い。追いつかないと思ったであろう男性が「落としましたよ」と声をかけ、その後すぐに女性の方も「落としましたよ」と声を出してくれ、ホームに降りていて女性がようやく気づいて振り向いてくれた。
そして手渡そうとした時にドアーが閉まりかけ、間一髪、間に合った。この間数十秒であるが、もし声をかけてくれなかったら渡せなかっただろう。3人の連係プレーが功を奏した。席に戻ったら、真正面に座っていた娘が「よくやった」というような笑顔を向けてくれたのが非常に嬉しかった。
当欄2010年7月11日付「善意の連携プレー」で傘を落とした私が連係プレーで助かった経験を書いた。(https://konkokyo.main.jp/gsblog/2010/07/post-187.html)
今度は私がとっさの行動がとれることができ、また廻りの方の機転もあり、ありがたいことであった。日頃の反省が1つ生かせた出来事であった。
本日の月例祭・食事会の当番は、中国と韓国の女性3人。さっき買い出しに行ってきたが、楽しみである。それにしても中国はやはり広い。打ち合わせのとき、中国からの留学生2人は、同じ鍋料理でも入れ方や具材、やり方がほとんど違っていた。私達がイメージししている中国はほんの1部のところというのがよく理解できた。
考えてみれば、日本でも地方によって全然違うものもあり、思い込みや偏見は極力なくしていかなければと改めて思わされた。
また、起きてはならない悲しい事件が起きてしまった。昨年12月下旬、大阪市立桜宮高校2年の男子生徒が自宅で自殺、生徒は男子バスケットボール部の主将で、同部顧問の男性教諭から自殺前日、体罰を受けていたとのこと。
市教委による「体罰の事実は認めるが、自殺との因果関係についてはわからない」との決まり文句には本当に憤りを覚える。なぜ、はなから責任逃れのコメントを出すのだ。少しでも疑わしきがあれば、徹底的に対応するのがその役割ではないのか。
「『凡そ学校に於いては、生徒に体罰(殴るあるいは縛するの類)を加うべからず』。1879(明治12)年に制定された教育令第46条だ。学校体罰の法禁の最先進国といわれるフランスより8年も早く、日本は体罰を法令で禁止していた」。(1月9日付『毎日新聞』余録より)
それから134年、いまだに「愛があれば」という体罰を肯定するニュアンスの発言があることにも怒りを覚える。誠に情けないことだ。本当に愛があれば、体罰などしなくても十分に指導できるのだ。自殺した高校生の方は、報道通り責任感の強い子だったと思う。それゆえ主将としてその責任を果たすことのできない自分を責め、苦しみ悩んだ上での自殺だったのだろう。
私の知人に、自身の子どもへの体罰で、その子が成人してもなお心を病み、社会生活ができていないことについて真剣に反省している人が一人ならずいる。親でさえ責任がとれないものを先生がとれるわけがないのだ。「取り返しのつかないことになる」ということを重々わかってもらいたい。体罰はいかなることがあろうともしてはいけないと思う。