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悲しいほど海は碧く

 沖縄テレビ制作の「悲しいほど海は碧く-沖縄戦 最後の県知事島田叡-」というドキュメンタリー番組を見た。これも林雅信先生からビデオをわざわざ送ってもらって見るとことができた。御礼多謝。

 前にも触れたように、島田県知事は沖縄県民を最期まで守り抜き、具志頭で消息を絶った。番組は大げさな粉飾はなく事実を淡々と述べているが、それでも島田さんやご家族のことを思うと涙がとまらなかった。前任者の突然の配置換えによって、なかば強制的に沖縄へと決死の赴任であった。奥様、美喜子さんの反対を押し切ってのことである。

 当時の沖縄は、「沖縄新報」による「戦列離脱者を戒む、官公吏の徒な県外出張」との社説や「名誉の戦線離脱者」と実名を公表したりと、県外に出張したまま戻ってこない県当局者が相次いだそうだ。前県知事も出張したまま帰らないという形になり、沖縄県民から相当恨まれた。

 ところが島田さんは、米の調達に単身台湾へ出向いたり、沖縄県民のために心血を注いだ。日本軍の首里撤退に際しても、すでに南に非難している30万人の住民が戦禍に巻き込まれると強行に中止を要望した。結果は恐れたとおりになった。最後の最後も部下たちに「死んではいけない」と言い残している。

 「どうして?」というような軍人や政治指導者が多い中で、このような立派な方がいたことに救われる気持ちになる。ただ、番組のスタッフが美喜子さんのお宅のチャイムを鳴らしても全く反応がなく、戦後は社会との関係を絶ち、1人ひっそりと暮らしている姿に、ここにも戦争が終わっていない後遺症があると心が痛んだ。
 私の見た沖縄の海も、悲しいほど青かった。

山川の別れ道

 これも林雅信先生から教えてもらった話である。昨年の「思うがままに・沖縄体験記2」(2003.10.2)に後ほど触れるといいながら触れてなかった「山川のわかれ」と言い伝えられてる沖縄県民の生死を分けた道の話だ。那覇市から南に少し下ったところに、山川という今は立派な交差点になっているところにその出来事がおこった。

 沖縄戦当時、首里城攻防戦に失敗した日本軍が、徴用した民間人と共に南下中のことである。山川という場所にさしかかった時、軍隊と共に糸満市の摩文仁へと右の道を行った人々は多くの犠牲者を出し、ほとんど全滅。左に知念半島の方へ向かった人々は、全員が助かった。山川はまさに生死の分かれ道であった。

 軍隊に徴用された人々は、当然強制的に軍と共に行動しなければならなかったであろう。しかし、先に疎開していた人々は、やはり軍隊や大勢の人がいる方へ付いていく方が心強く、安心であったろう。だから多くの人々は右へと進路をとったと思う。しかし、結果的には軍隊がいる方が地獄をみた。

 軍隊は本当に私たちを守ってくれるのか。20世紀の歴史を見ると戦争で亡くなった2億の人々の中で自国の軍隊に殺された方が圧倒的に多いという見方もある。ナチスドイツやスターリン時代、2次大戦以降のフィリピンやインドネシアの軍隊は自国民しか殺していない。

 沖縄戦もまさにそうであった。波平部落などの壕にいた地元住民が日本兵によって追い出され、多数の死傷者を出した。あの「ひめゆり学徒隊」は、全く武器を持たされていないのに「ひめゆり部隊」と称され、県民を守らなければならない兵隊を逆に守って、そして219人もの女子学生が死んだのだ。これほどの教訓はない。

ゴミに埋まる摩文仁

 沖縄タイムズHPのトップページに、今日2月27日付沖縄タイムス朝刊「ごみで埋まる摩文仁の聖域/遺骨収集団『心が痛む』」との金光教那覇教会長林雅信先生の記事が出ていた。 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200402271300.html#no_4

 「霊地」「聖地」といわれる戦跡に散乱する大量のゴミに、31年間遺骨収集を続けてきた林先生が改善を訴えているという記事である。昨年の沖縄遺骨収集で私が2日目に入った摩文仁の丘から海側へ広がるジャングル斜面にも、ものすごい量のゴミがあったようだ。前日に入った地元沖縄の方を中心にした班の方々が1日かけてゴミを掃除し、数10メートル上まであげたそうである。

 が、あまりの大量のゴミに、最後はある一か所に集めるしかなかったようだ。後で1日目の作業の様子の写真が掲載された金光新聞1面を見たときは本当にびっくりした。しかし、その時に見たゴミは、私が小学生くらいの時に見た懐かしいビールのカンカンやコーラの瓶など結構古いものばかりだったので、昔はまだまだ環境問題に対する倫理観が薄かったのかなと勝手に判断していた。

 ところが、何と今日の記事にあるように、さびた古い缶や瓶に交じり、最近捨てられたような弁当箱や真新しい空き缶や献花の鉢なども目立つという。摩文仁の丘を訪れた方にとって、きれいに整備されたその向こうはもうただの山や海なのであろうか。そこに未だにご遺骨が眠っているとはつゆとも思ってないだろう。それどころか、まさにこの場所で激戦があったことも知らないのであろうか。知っていればゴミを捨てられるわけがないと思うが・・・。悲しい現実である。

なぜ、沖縄にこだわるのか

 なぜ過去の沖縄戦にこだわるのか。いま現在も戦争が行われ、不条理にも多くの人が亡くなられているのに。いや、だからこそこだわるのだ。戦争は1回起こしてしまうと60年そこらでは終わらない。ゆえにいま起こしている戦争は、後50年、100年終わらないのである。

 戦争で亡くなられた方はもとより、家族をなくされた方、家を焼かれた方、肉体的、精神的に後遺症が残り、未だに苦しんでる方。戦争は1代、2代でそう簡単に終わらない。お隣の中国では、日本軍の毒ガス爆弾でなくなった方もいる。イラクでは何と劣化ウラン弾が使用された。この影響はいつまで続くであろうか。いったい何のための戦争なのか。

 最近、大義、大義という言葉が頻繁に聞こえる。しかし、大義っていったい何なのか。大義があれば戦争をしてもいいのか。特に国会でこの言葉をいっている方たちは、この言葉をしっかりと定義しているのであろうか。言葉が踊り、現実を直視せずにずるずると世界の現状にながされるあり方は、「いつかきた道」ではないか。

 沖縄戦の体験を過去の悪夢としてほうむりさることはできない。今日他の資料を調べるために訪れた図書館で「争点・沖縄戦の記憶」という本が目にとまった。さっと見ると平和祈念資料館を巡る史実の改ざんというテーマで書かれている。これだけ多くの犠牲者が出ている沖縄においても、またぞろ国家の論理がはびこってくるようだ。今は他に読まなければならない本がいっぱいあってすぐに読めないが、また報告したいと思う。

 それはそうと「ひめゆりの塔」のとなりにある「ひめゆり平和祈念資料館」は、今年の4月に新しく生まれ変わるそうだ。語り部の方がだんだんにいなくなり、映像を駆使したり色々と工夫されるそうだ。皆様も一度は沖縄に足を運んでみたら。いいところですよ。

第31回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2004年2月

8 きれいになる沖縄

 私たちは、こうして2日間の遺骨収集で大切な経験をさせて頂いた。それから前にも述べたが、私たちは事前勉強のため、本番前日の朝1に沖縄に入り、ひめゆりの塔、平和資料館などをまわった。そして平和の礎の後、豊見城(とみぐすく)の海軍司令部壕跡に行くか南風原(はえばる)陸軍病院跡に行くか迷っていた。

 実はインターネット情報では、南風原陸軍病院壕跡は、普通の観光客は近寄らないので見つけるのは難しいとあった。地図を調べても何やらわけかがわからない。まあ、とりあえず行ってみて、見つからない場合は、南風原文化センターをまわってから帰ろうということにした。レンタカーにはカーナビがついている。何と陸軍病院跡との表示が画面地図上に現れた。そこには1本の細い道がついていた。

 私たちは本線をはずれて、カーナビ頼りに戻れなかったらどうしようというような狭い道を進んだ。すると左手に「20壕入り口」とか「24壕跡入り口」という白い看板が見えた。車を止めてよく見ると、上の写真にあるように工事中の看板の横に消えかかった文字で「南風原陸軍病院跡」との朽ちた看板があった。そこから壕を目指して入っていったが、明日からの行動を暗示していたかのように山の中を迷ってしまった。一旦引き返し、大がかりな造成工事をしている方に、まさかこっちではないと思いながら行ってみると、そこに24壕跡が現れた(写真右)。

 入り口は金網で塞がれて中には入れない。そして私たちが入ってきた逆側からはもうすぐその目の前にきれいな歩道がつけられている。その向こうは野球場や公園になっており、すっきりと整備されていた。おそらくこのあたり一体もそうしてきれいになっていくのであろう。それはそれでいいことではあるけれども、まさかそのことによって過去の負の歴史を隠そうとしたり、水に流そうといった意図はないであろう。もし少しでもあれば、またぞろ同じ過ちを繰り返すのは必定だ。

 汚い部分、負の部分をできるだけ隠そうとする現代文明によって、人間の生き力、創造力、想像力が衰退、退化してきているとの指摘もある。きれいに整備されることによって、ますます想像力をきかすことが困難になるであろう。だからこそ今後も私たちは、汚い、恐ろしい、おぞましい負の部分から目を背けることなく、そこを直視しながら戦争の現実を次世代に伝える責任を痛感した沖縄体験であった。(完)

 とりあえず体験記はここで終わり、後数回予告していた沖縄戦について思うところを書いていきます。 

第31回 沖縄遺骨収集奉仕参加 7 2004年2月

7 アメリカ人親子らの活躍

 どうしようもないので、とりあえず帰るかという雰囲気の中で、アメリカのR氏が、やわら自分のバックから取り出したるロープ、何と自分専用のマイロープだった。そして、それを自身の体に巻き付けながら、あのオリローの先についているような10センチ大のフック金具も取り出し、胸のところにくるようにセットする。そこに私がもってきたロープをつなぎ、命綱に下りようということだ。

 聞くと元アメリカ陸軍だそうで、持ってるものが違う。そのR氏、今一緒に来ている若いアメリカ人のM氏が息子さんとのこと。このMさん、小さい頃からもう数十年もこの金光教沖縄遺骨収集に参加しているとのこと。たいしたものである。そして準備万端、命綱を他の4人が持ち、下へ下へと徐々に下りていった。私は何をしてるかって?懐中電灯で足下を照らす役。

 そこへ民家の奥様が帰ってこられた。結構ひょうきんな方で「何が出てくるだろうか。もしかして宝物とかあるかな」という。そして黄色のヘルメットの文字を見て、「きんこうきょう?宗教?」と聞いてくる。「こんこうきょうです」と答えて、色々説明した。奥さん曰く、市や自衛隊にお願いして、市議会議員の方も一度見に来たが、その後音沙汰がないとのこと。もう30年やってますと答えると、非常に感心しておられた。

 下で奮闘しているM氏。さっき穴を見つけたときに大石を上に上げれずに下に落としたため、その石が下に引っかかって穴を半分塞ぎ、そこから奥にいけないとのこと。一旦上にあがり、そしてもう一回入った。しかし、すでに集合時間も迫り、今年はとりあえずここまでで来年くることにした。M氏は、来年正式にはじまる前に入って準備をしてくれるとのこと。頼もしいが限りである。 

第31回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6 2004年2月

6 民家の畑の大自然壕? 

 さて、私は2班班長と本部付のK氏と3人でひめゆりの塔付近の民家の壕に調査に行くこととなった。自然壕から公園に出ると後ろにアメリカの方が3人ついてきて、結局6人で行くことになった。これが幸いした。

 摩文仁からひめゆりの塔を少し通り過ぎたところを海側に左折、沖縄の田園風景を進む。やや登ったところに大きなお墓があり、その手前に車を止めた。民家のご主人が出てきて、鶏小屋のある畑に案内された。そして変哲もない地面のところを指さしてここを掘れという。「え、こんなところに」と思いながら、スコップで掘る。

 すると大石、小石が多く積み上げられているようだ。50センチ大の大石や小石を一生懸命掘り出してよけていくと、直径1メートル大の穴が姿を現した。どうも真っ逆さまに穴が続いているようだ。ロープも何もないので私は摩文仁の本部までとって返し、ロープなどをもってきた。

 そしてロープの先に缶を縛り、真下に降ろしていく。が、数十メートルあろうロープが全くつかない。もしかして30メートル以上深いかもしれないとのこと。ご主人によるとそこからずっと横に50メートルから100メートルほどの穴があり、戦時中何人もの方がここに逃げていたという話もあるという。しかし、私たちにはどうしようもなかった。(づづく)

第31回 沖縄遺骨収集奉仕参加 5 2004年2月

5 声なき声を聞く 
 
 摩文仁の丘のきれいに整備されたところから、南に数十メートル入ったところの大きな自然壕に着いた。すでにここでは大阪からの参加者を主体とした3班が作業中で、多くのご遺骨を収集されていた。

 2班の特に私たち東京からの初参加者5人には、早速に壕の中に入ってもらった。私は壕の上で中からバケツをロープで引き上げる作業をしていたが、東京組が下に降りて行ってから全然あがってこない。要領がわかってないのかと心配した。しかし、交代で出てきた方に聞くと、壕の中は何段にも層があって、さらに奥にも深く続いているそうで、みんな奥へ奥へと入っていったようだった。

 ここでこの5人は、初めて自分自身の手でご遺骨を掘り当てた。ある人は「非常に厳粛な気持ちにさせれられた」と語った。また、ある人は「途中懐中電灯の明かりが電池不足で弱くなり、人が近くにいるとわかっていても心細い気持ちになった。59年前に明かりも全くなく逃げ込んだ人々は何を思いながら亡くなっていったのだろう」と語った。参加者全員、「声なき声」を確かに聞かせていただいたのである。

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