東京学生寮最期の月例祭執行

 金光教報や金光新聞で既報の通り、本年の3月で閉寮いたします。来月のお祭りは、閉寮奉告祭として仕えられますので、月例祭としては今回が最期となりました。祭主・教話は運営委員、大宮教会の松本佳子先生で、以下の教話がありました。その後のお茶会では久々の日付越えで盛り上がりました。

教話
 ただいまは、2月の月例祭をともどもにお仕えさせていただき、ありがたいことでございました。
大宮教会で御用させてただいています松本佳子と申します。よろしくお願いいたします。
 昨年から少しずつ色々な催しが復活して、最近ではコロナ以前のような賑わいが戻ってきましたね。
 しかし、今年の元日に起きた能登半島地震では多くの方々がお亡くなりになり、被災地では一年で一番寒い時期に家には戻れず、水も食料もトイレも足りないという過酷な状況に置かれている方が多くいらっしゃいます。
 また中学生の集団避難ということで、親御さんも避難を余儀なくされたご本人たちも大変不安な日々を送られていることと思います。
 世界に目を向ければ、ロシアによるウクライナ侵攻も、イスラエルのガザ地区での戦闘も、まだまだ終わりが見えない状況です。
 こういう中にあって、私たちに一体何ができるのか、大変もどかしい思いがするわけですが、年頭の金光教ラジオ放送で、教主金光様がこういうことをおっしゃられました。

 『天地の中で生かされ生きている者として、「共に生きる」「共に助かる」という考え方を大切に、特に、戦争、飢餓や貧困、病気などに苦しむ人々に思いをはせ、国の内外の人と人とが、お互いに神の子として、国籍、人種、言語、宗教などの違いを超えて、共に生き、共に助かって、世界に真の平和と繁栄がもたらされることを願わずにはいられません』

 「共に生き、共に助かる」ということは平和の根本ですね。
 助け合う気持ちというのは、誰しもが持っている心だと思いますが、逆にちょっとしたことでいざこざが起きてしまうこともあります。

 今から4年前、コロナの直前のころのことですが、あるとき、私の夫と夫の母と私の3人で出かけました。お昼になっておソバ屋さんに行きました。
車で行ったんですが、そこは人気のあるおソバ屋さんで、あいにく駐車場は満車で停められませんでした。
私たちの前にも車が一台停まっていて、駐車場が空くのを待っている様子でした。
「どうしようか、他にも駐車場があるなかな」と話していたら、私たちの後ろにもう一台車が来ました。
「もう一台来たよ」なんて話していたら、一番後から来た車の助手席の人がサッと車から降りて、走ってお店の中に入って行きました。
そしたら、私たちの前にいた車の中の人も急いで後を追いかけるようにして、お店に入って行きました。
その後、少し離れたところにもうひとつ駐車場があることがわかり、夫はそちらに車を回し、夫の母と私はお店の前で車を降りて中に入りました。
そしたら、案の定、1番最後に来た車の人が1番前に並んでいて、2番目には最初に来ていた車の人、私たちは1番最後になってしまいました。
 私はそのとき、「ずるいことをする人がいるなぁ」と不快に思っていたのですが、車を停めて入ってきた夫と夫の母を見ると、全然我関せず、別になんとも思っていない様子なんですね。
それで、「あぁ、そうか。別に急いでいるわけでもないし、お昼が食べられればいいんだから順番なんてどうでもいいか。信心する人はさすが泰然自若としているなぁ。」と思いました。
 私たちは、日常の生活の中で、何かしら選択をしながら生活をしています。
簡単なところで言えば、今日はお買い物に行くのに自転車で行こうか、車で行こうか、それとも歩いて行こうか。また、ちょっと時間が空いたときに、お掃除をしようか、それともゆっくり寝ていようか。とかね。
それは、それぞれの生活のペースで選んでやっていけばいいわけですけど、選択するときの自分の心の持ち方によって、現れてくる行動もかわってきますね。
金光教の教祖様は「人にはできるだけのことをしてあげ、人に物をあげたくてしかたがないという心を持ち、自分だけよいことをしたいという心を持つな」
と教えてくださっています。
これは、大西秀さんという当時13歳くらいの女の子におっしゃったみ教えです。
今で言えば中学生くらいの女の子です。とてもわかりやすいお言葉で教えてくださっていますね。
 「自分だけよいことをしたいという心を持たない」というのは、信心の基本の基であり、「共に生き、共に助かる」ということです。
先ほどのおソバ屋さんでのできごとを、つい先日、夫に覚えているか聞きました。
そしたら夫も覚えていました。どうして覚えているかと言うと、お店の人が注文を取りに来たときに最初に駆けだした人が「こっちが先!こっちが先!」と大声で叫んでいたからだそうです。
そのことは私は気づかなかったんですけど、その話を聞いて、やはりその人は「我れ先に」駆けだしていたんだな、ということがわかりました。
 幸い、その時はお客さんの回転も早かったので、そんなに待たずに席に案内されて、トラブルにならずにすみましたけど、こういうことは身の回りでよくありますね。
車のあおり運転やSNSでの誹謗中傷、モラハラとかパワハラとか、最近ではハラハラということもあるそうですね。それぞれ大きな問題になっています。
四代金光様は「他は厳しく眺め 自分は大目に見る かなしからずや こころの甘さ」と詠んでおられます。日常生活の中で、自分の心の使い方「周りの人のことを思う」ということを考える習慣があれば、そういうことにはならないんじゃないかなと思います。
金光教では、「神心」という言い方をします。
教祖様の時代のことですが、ある方が冬の寒い日に教祖様のところに参拝されました。その途中で、とても気の毒なおじいさんに会いました。その方はおじいさんの様子を見て「あまりのことに着ていた物を脱いであげた」というんです。きっとそのおじいさんは、寒空の下で薄い着物で凍えていたんでしょうね。それで思わずご自分が着ていた着物を脱いで、おじいさんに差し上げたということです。
それから教祖様のところに参拝されました。そしたら教祖様から
「今日は、結構なおかげを受けたなぁ。不幸せな者を見て、真にかわいいという心(このかわいいというのは、今で言うプリティのかわいいではなくて、かわいそう、気の毒だなということです)からわが身を忘れて人を助ける。そのかわいいと思う心が神心である。その神心におかげがいただける。それが信心である。」
とおっしゃいました。
気の毒な状況にある人を見て「かわいそうだな、気の毒だな」と思うのは、誰でもそういう心があります。それが神様の心であり、その心を行動に現すことが信心であるということです。

 ただ、その神心に従って行動しようとするときに、「いやいや、そんなことしなくても」とか「自分がしなくてもだれかがするだろう」と神心をとめようとする心が出てくることもあります。それを「我情我欲」と言います。自分の感情や欲が優先されて「自分さえ良ければいい」という、「神心」とは反対の心ですね。
アニメや漫画でも、天使の自分と悪魔の自分が心の中で葛藤している、せめぎあうような場面がありますけれど、その時にもうひとり、そのせめぎあいを見ている第3の自分がいます。それは相撲で言えば行司さんですね。
その行司の自分がどっちに軍配をあげるか、神心の方か、我情我欲の方にあげるかで、その先に現れてくる行動も変わってきます。みんなが我情我欲で行動してしまえば、もうその先には争いしかないですね。
迷わず神心のままに行動できるときはいいですが、心の中にせめぎ合いが起きたとき、神心に軍配をあげることができるようになるには、どうすればいいでしょうか。

 ひとつは、自分が今まで受けてきた恩を忘れない、ということです。
この世に生まれ、ここまで成長させていただき、ご飯が食べられ、勉強ができ、今ここにこうして月例祭に参拝できているというのは、大変な神様のお恵みをいただいての今であるということ。
そして、両親を始め、教会の先生や学校の先生、兄弟や友達など、「自分の周りのたくさんの人たちにお世話になっての今である」ということです。
そのことに謙虚に、感謝の心を持つことです。 
それから、もうひとつ大事なことは、神様の教えを聴くことです。
金光教は、「話を聞いて助かる道」と言われています。
 神様の教えを聴いて、自分自身が今、神心と我情我欲、どっちの心に傾いているかな、ということを見つめられるように、そして、神心で周りの人たちと「共に生き、共に助かる」ことができるようになっていくことが大事だなと思います。
 それは、一朝一夕にできることではなくて、練習が必要です。だから、神様の教えを聴くことが大切になんです。

 この金光教東京学生寮は、残念ながら3月で閉寮になります。こうして祭典に参拝して教祖様のみ教えを聴く機会が少なくなってしまう方もいらっしゃると思います。
 それは本当に残念なことだなぁと思いますが、教会は全国各地にございます。
 今後、選択に迷うようなことがあったとき、その時にはぜひ最寄り最寄りの教会にお参りしていただけたらと思います。
金光教では「お取次」と言って、自分の気持ちや困っていることなどを神様に取り次いでもらって、そして神様の教えを聞かせてくださる、そういう場所があります。
高い所にあるものを取るときに届かない場合はどうしますか。踏み台を使いますね。踏み台を持ってくれば、高いところでも楽に届くようになります。
その踏み台が、教会にお参りしていただく「お取次」です。
自分の心でも、自分ではどうしようもないときがあると思います。困ったことがあったとき、選択に迷ったとき、教会にお参りして、ぜひお話をきいてください。
 
 かく言う私自身も、今でも迷うことはよくあります。
実は、私は週に2日ほど歯医者でお仕事をさせていただいているんですが、院長とスタッフの意見が合わないということがよくあるんです。
 ほとんどの場合、院長の言うことが通ります。経営者なので当たり前なんですが。そうするとスタッフがストレスをためてしまうんです。
 なので、いつも教会長にお取次をいただきながら、スタッフの心が助かるように、ひとりひとりの気持ちを聞くようにしています。時には一緒に院長への怒りが沸くこともあるんですが、その度に、教会長に聞いてもらうようにしています。
 そうやって、神様にお願いしながらスタッフの気持ちを聞いていると、事柄は変わらないのに、みんないつのまにか笑顔でお仕事ができるようになっています。
 「共に生き、共に助かる」世界が自分の周りから実現していくことを、願ってやみません。
どうぞ皆さんおひとりおひとりが、今後、社会の中で「共に生き、共に助かる」お役に立たれますことを祈念しております。

東京学生寮7月の月例祭

7月2日、集会室において運営委員の田中美和子先生(練馬教会)御祭主のもとに月例祭を執り行い、後掲の教話を頂いた。その後、久しぶりのお茶会をもって懇親を深めた。

「ただ今は、金光教東京学生寮7月の月例祭を共々にお仕えさせて頂き、有難い事と存じます。東京寮の運営委員としてご用をさせて頂いております練馬教会の田中と申します。どうぞよろしくお願い致します。
皆さんには長引くコロナ禍、学校生活や寮生活においても制限がかかる状態で、不自由な思いをされていると思います。しかし、何かと不自由な生活にあっても季節は巡り、春には春の秋には秋の草花や樹木が茂り、季節毎に旬の野菜や果物がお店やスーパーに並び、私たちの命の元になる食物として頂くことができています。これは天地の間に生きるもの全てを育んで下さる天地自然の働きのおかげであり、金光教ではその働きを天地金乃神様として、日々感謝の気持ちを持って過ごさせて頂いています。生きづらく不自由な生活の中でも、食べられ生活の場があることに目を向けることが大切だと思います。
困難な状況に出遭ったり、問題が起こった時に、それがなくなりますようにと祈ると思います。私も今回の新型コロナウイルスが発生した後、当たり前ですが、これ以上感染者が増えませんように、家族や身近な人が感染しませんように、早く収束しますようにと毎日祈りました。1年もすれば収まるだろうと思っていましたが、そう簡単ではないですね。6月末の集計では日本国内で932万人が感染し、3万1200人がお亡くなりになっています。世界中が混乱に巻き込まれてしまったわけです。ただ問題がなくなるようにとお願いするよりも、その問題を乗り越えられる自分になれるよう願いました。感染者への偏見や差別をしないとか、不要な外出はしない。感染予防を徹底することに努めました。困難なことや問題にばかりとらわれない生き方に変えていく、変わっていくことが必要だと思います。ワクチンの開発など人間の知恵と技術によって、ウイルスと共生していくことが必要だと今はWITHコロナの時代に入っています。
人間関係においても、例えば人と意見が合わないとか、不足不満に満ちた人がいたとして、その人を排除してしまえばそれで楽になると思いますが、排除された側はより反発が増して、前以上に反発の度合いが強くなってくると思います。ウイルスは言葉を話しませんが、人間同士なら話をし、時間をかけて和解し理解し合うことはできます。
世界に目を向ければロシア軍によるウクライナ侵攻が収まらない状況です。長期化されると言われています。町や建物が破壊され、自然環境が破壊されていく映像を目にすると、余りの残酷さに心苦しい思いがします。これ以上一般の人々、子ども達に影響が及ばないようにと思います。プーチン大統領による発言や情報統制によって、ロシア国民も混乱状態だと思います。自国の国民のために、他国の子どもや一般の人の命を奪っていいはずはありません。先程の人間関係の話のように、国と国においても時間をかけて話し合いで解決ができるといいのですが、そういう状態ではないようで、益々孤立してしまうようで不安が募ります。
金光教では7月には東京、広島、山口、長崎で「世界の平和と人類の助かり」を願って、平和集会が行われます。学生寮の皆さんも毎年企画に携わって活躍されていますね。今年は7月17日に「国際法と戦争」というテーマで行われます。21年前になりますが、2001年に女性教師のグループとして、企画に参加させて頂いたことがあります。その年は「戦争・紛争・平和実践」というテーマでした。カンボジアに焦点をあてた企画でした。カンボジアは1975年からポルポト派による独裁政権で、知識人や教育者が虐殺されました。眼鏡は知識人のシンボルということで眼鏡をかけている人は真っ先に殺されたそうです。学校や寺院や農地も荒らされ、多くの人の命や自由が奪われてしまったのです。1991年まで続き、2000年以降は少しずつ都市部は経済状況も安定したようですが、農村部ではストリートチルドレンや児童労働者や人身売買が増え、罪のない子どもたちにしわ寄せがいくことになり、教育を受ける場がなくなり、貧困や飢餓の問題が著しい状態だったということを学びました。
平和集会での学習を経て、私たちに何かできることはないかと話し会い、教育の場を奪われた子ども達にクレヨンを送ろうということになり、まずは関東教区の教会や信者さんに声をかけて、クレヨンを収集しました。内戦で地雷が埋められ、未だに撤去されず不幸にもその地雷の犠牲になって足をなくしたという人がいます。「地雷の数だけクレヨンを」というキャッチフレーズで「クレヨンをおくる運動」という名前で会を立ち上げ、クレヨンをはじめ鉛筆や色鉛筆、ノートやその他文房具の収集を始めました。使い古しのクレヨンを丁寧に汚れたところをカッターナイフで削って、改めて小さな紙で包んで、その紙にはクメール語で「夢・友達・希望」とメッセージが書いてあります。月一度の作業ですが、現在まで20年続けています。金光新聞に活動を紹介して頂いてからは、全国の教会や信者さんから使いかけのものや新品の文房具を送って下さる方があり、たいへん有難く活動が続いています。できあがったものは年に2回船便で現地へ送っています。「クレヨンを送る運動」よりも以前から「絵本英訳の会」があって、その団体が絵本を送っておられたカウンターパート(受け入れ担当者)のかたを通して、学校や施設の子ども達に渡してもらっています。私はまだカンボジアを訪れたことはありませんが、代表の先生と信者さんは実際に現地の小学校を訪問して、子ども達にクレヨンや鉛筆を手渡しに行かれました。都市部はもう安定した生活ができていますが、農村部ではインフラも十分ではないし、衛生面もよくない状態だそうです。農村部にある家に一泊されたそうですが、井戸はもちろんありませんから顔を洗うのは大きな瓶に入った水を使うそうですし、トイレは家から離れていて懐中電気を持って歩いて行って、もちろん水洗ではなくて大きな穴が掘ってあるところで用を足す状態だったそうです。貧富の差を目の当たりにしたと言われました。
平和ならざる状況とは戦争紛争だけではなく、環境問題や差別やいじめの問題など様々です。宗教としては助かりを祈り、立ち行きを願うことが欠かせないわけですが、平和を願いながら実践へとつなげていくことが大切だと思います。20年以上前の平和集会の企画をきっかけにカンボジアの歴史を学び、その事実を知ることで活動が始まりました。信者さんを含め、十人前後で作業をしていますが、雑談をしたり、時には戦争体験のお話を聞いたり、充実した時間でもあります。
日本では、11年前には東日本大震災がおこりました。被災された方の、震災以前の暮らしは夢のようでしたという言葉を聞いて、毎日の生活は当たり前でないということですね。今の私たちは戦争も災害もなくて平穏に暮らせる。医療も受けられるし、家があって布団があって寝られるし、蛇口から水が出て、食事ができる。とても凄いことですが、普段何気なくすごしていて、その有り難さに気づけないすね。これは当たり前ではなく、凄いこと有難いことだと思って下さい。
教祖のみ教えを紹介させて頂きます。
「人の身が大事かわが身が大事か。人もわが身もみな人」
「人が人を助けるのが人間である。人間は子どもがころんでいるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助ける事ができるのはありがたいことではないか」
気の毒だなとか、かわいそうだなという心は誰もがもっていると思います。その心は神様が人間に授けて下さったものだと教祖は教えて下さっています。その心が実際に発揮できるような実践、行動を起こすことが神様がお喜びになることでもあると思います。最後に私が最近とても気に入っている言葉で、ある教区の作られた掲示板といって、教会や信者さんの玄関先に掲げて道行く人に読んでもらうためのものです。その中でとても感動した文を紹介してお話を終わりたいと思います。
「目」は人のよいところを見るために使おう。「耳」は人の話を聞くために使おう。「口」は人を励まし感謝を言うために使おう。「手足」は人を助けるために使おう。「心」は人の痛みがわかるために使おう。」 以上

開寮記念祭 ピザ窯パーティ

 4月16日、3年ぶりに対面で開寮記念祭を執行、その後ピザ窯バーティで交流を深めた。

 祭典は、福田光一運営委員長代行が祭主に仕えられ、その後、石黒真樹運営委員長が自身の学生時代にふれながら、「目先の損得にとらわれると身の徳を失う。いつも神様に好かれる生き方を心がけて徳を受けたい。そして、いつかは神様のご恩に報いるお役に立ってほしい」と挨拶した。

 その後、久しぶりのピザ窯パーティ。寮長や行事係Kくんらの前もっての準備のおかげで、当日スムーズに開かれた。感謝。

ピザ窯パーティ

 

 

超久しぶりに、寮の行事再開。6日土曜日午後7時から月例祭、7日午前11時からピザ窯パーティを開催した。

テレビは全日本大学駅伝。わが母校駒大優勝!!

10月の月例祭・オンライン懇親会

10月2日土曜日午後7時から月例祭、8時からオンライン懇親会を開催した。緊急事態宣言も蔓防も解除されましたが、まだまだ油断ができないので、懇親会はリモートで、月例祭は自由参拝とした。

予め出欠をとるが、なんと結構みんな忙しく、月例祭後に出かける人もいた。また体調を崩している寮生もいてオンライン懇親会7.8人の参加でした。

9月の月例祭・オンライン懇親会

 

9月11日午後7時から、代表の参拝による月例祭、午後8時からオンライン懇親会を開催した。

オンライン懇親会では、それぞれ近況を語り合った。ワクチン接種はほぼ皆さん2回目を終えていて、ビックリ。それぞれ元気に頑張っているようだった。

私の番の時、いきなり「自民党総裁選、一票持っていたら誰に投票する?」と質問した。これまでの経験から、私の感覚ではすぐにでも答えが返ってくると思ったが、意に反して全員答えを拒んだ。

それがリモートの影響なのか、時代なのか、みんなは突然の質問とこの人数の多さでは答えにくいとのことであった。つまり二、三人での会話なら話すとのこと。なるほどとも思うが、私にとっては少し不思議であった。

途中、だんだんに抜けながら最後はなんと日が回って1時過ぎまで盛り上がっていたとのこと。私も久しぶりに12時を回るまで参加した。

12日は朝9時から芝刈り・草取り。朝起きると雨はやんでいたが、芝生は濡れている。テストで少し刈ってみたらなんとか行けそう。途中雨が降ってきたらアウトだ。

最初はかなり苦労したが、だんだんに乾いてきてギリギリのおかげを蒙った。皆様、お疲れ様でした。感謝。

バス停の名前が変更

 通常の生活に戻れるどころか、状況はますます悪化。寮の行事も今のところ芝刈りしかできず、月例祭も8月は無参拝で執行、オンライン懇親会は開催した。

 ただ、オンラインではどうしても全員が1人の話を聞くしかなく、通常オフラインの時のように、それぞれで個別に深い話ができないのが致命的である。

 それでもしないよりは交流を深められるのでありがたいのではあるが、早く対面で話せるようになってほしい。

 それはそうと、最寄りのバス停の名前が変わったことについ先日気づき、ビックリした。もう何年バスに乗ってなかっただろう。「JR車庫前」が「東京経済大学入口」という名称に今年の初めになったそうである。その昔は「国鉄車庫前」。今回二度目の変更。

 このたび中央線が高架になり、寮の前の道を南にまっすぐ行ったところにバス停があるが、そこからさらに南にまっすぐ中央線をくぐって東京経済大学まで直に行けるようになったからである。

 そういえば、大学時代東京寮の後輩で、現在東京経済大学の教授をしているA子さんは、「JR車庫前」までバスで来て大学に通っていると言っていた。その頃は少し迂回して踏切を渡らなければならず、学生さんはほとんど利用していなかった。今回近くなったので利用しているのだろう。コロナの影響もあるのか、まだ私はほとんど見てないが(*^_^*)。

 それにしても、私はバスをほとんど利用していないとはいえ、8ヶ月も知らなかったとは。考えてみれば、そもそも小金井から外に出ていない。

新入寮生歓迎会再延期、芝刈りは実施。

 

 大学の対面授業がだんだんに始まったり、大学によってはリモートに戻ったり、なかなか日常には戻らない日々が続いている。

 ある寮生の大学のクラスに感染者が出、寮生も濃厚接触者と認定された。PCR検査を受け、陰性の場合は明日結果連絡があり、陽性の場合はすぐに連絡があるとのことで、今のところ連絡がないのでほぼ陰性だということ。

 そのようなことで、飲食を伴う新入寮生歓迎パーティは再延期、芝刈り・草取りは実施した。

なかなか日常に戻らず、苦労の連続であるが、もうしばらくの辛抱である。
 

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