東京学生寮1月の月例祭・食事会
1月13日土曜日午後7時から、東京学生寮集会室において、運営委員大木光雄先生ご祭主のもとに月例祭が仕えられ、引き続いて教話、その後食事会を開催した。
教話では、人生自分の思い通りや都合のよい通りには必ずいかないのに、では、なぜ信心するのかについて、金光教祖は、「神様は決して無駄ごとはなされない」と教えられており、上手くいかない事柄にある神様のご意志を、信心することでわからせて頂くことによって、それが必ずおかげになっていくところにお道の信心の意義があると、宗教教誨師の御用で出会ったある少年院生とのやりとりや、お母様の病院でのあり方などを具体例にお話しくださった。
食事会は3人の中国からの留学生による本格餃子とサラダ、スープ。朝10時に買い出し、11時頃から準備をしてくださり、美味しい手作り料理を堪能した。感謝。
東京学生寮10月、11月の月例祭・食事会
10月14日、11月4日、東京学生寮10月、11月の月例祭・食事会を開催した。祭主、教話はいずれも辻井寮監。ここのところ、下記の「辻井寮監教話資料」を配付し、保管してもらい、その都度確認して頂いている。10月はことに「ご都合、お繰り合わせ」について、11月は「真の自由、自立とは」についてお話しした。
10月の食事会は、熊を研究しているM君の2回目の熊料理と、〇〇〇?の焼き肉。かなり獣臭く大好きな人と苦手な人にきれいに別れた。あとゴボウと芋サラダと厚揚げの煮物を頂いた。
11月は、これは食事会20数年の歴史の中で初めての本格「にぎり寿司」、「いなり寿司」、「韓国海苔巻」とエビ、野菜各種の天麩羅であった。その他、煮魚、インゲンのサラダ、野菜サラダ等。にぎり寿司は寿司屋でアルバイトをしているI君がその場で実演。天麩羅はT君の部屋で揚げてもらい、その揚げたてを頂いた。美味、感謝。
〇金光大神の信心に基づく「自立的自由人」の道の道たる道(金光教東京学生寮辻井寮監教話資料)
御取次を頂き 神様のみ心のままに 神様の願いに生き
すべてを神様に すべてに神様を現し
神様のものさしをもって
「お蔭さま」 「お互いさま」 「お先にどうぞ」
の三つの「お」の精神で
自分の思い通りではなく 本然のいのちが承服する
万事にご都合お繰り合わせを頂く 願い通りのおかげが展開する道である
〇「自立的自由人」
自立 自分は1人で生きられないと悟るところに真の自立がある。
「独りでないから1人になれる」 自立⇔依存 自立×孤立
自由 わが身はわが自由にならないと悟るところに真の自由がある。
「自由は自由にのみ拘束される」 自由⇔不自由 自由×放縦
自由とは、「したいことをするのではなく、するべきことをすること」。
日本人→「したいことができないこと」「しなければならないことをさせられる」
ことを不自由と思っている。
自立的自由人 「したいこととするべきことが一致している」。
「will・can・must」⇒「自分がしたいこと・できること・しなければならないこと」
「自由・自立」の反対概念⇒「抑圧」、「差別」、「排除」、「疎外」、「妥協」、「逃避」、「放棄」
〇「神様のものさしと人間のものさし」
人間のものさし⇒目盛りがある⇒見える世界 ⇒有用価値(二分法、二尺択一)
神様のものさし⇒目盛りがない⇒見えない世界⇒存在価値 (あるがまま)
「人間のものさし」は目盛りがある。ゆえにそこに「長・短」、「大・小」、「上・下」、「優・劣」など価値が生まれる。するとその価値を比べて悩み、不平、不満、愚痴、不足、妬み、そねみの心を持ってしまい、役に立たないものは差別したり、排除してしまう。
「神様のものさし」は目盛りがない。測りようがない。だから測れない。つまり比べないこと。神様のものさしで計るということは、比べずに全ての存在を大切にすること。だからこそ測らない。目盛りがないから比べようがない。
〇「見えない世界を知らない現代の不幸」
もちろん人間のものさしも必要で、これがないと世界は成り立たない。しかし、この世界は目に見える世界ばかりではなくて、目に見えない世界でも成り立っている。特に現代社会は目に見えるところだけしかないとしてしまったために様々な歪みが生じている。
そして見える世界の事柄を比べることからあらゆる不幸が始まり、ことに現代人の悩みの全てが人間関係にあると言われ、あらゆる不幸は人と比べることから始まっている。
〇「神様のものさしを持つ方法」
1 思い込み、固定観念を解くために常識を疑う。目に見えない世界は疑うのに、目に見える世界は疑わない。これは逆。目に見える世界を疑い、目に見えない世界は疑わない。
2 視点をずらす。時間、場所、空間。
3 複眼的に見る。逆も真なり。
〇「おかげ様」
ものごと「それ常識じゃん、それ当たり前」と思うところに感謝の心は出てこない。実は当たり前にあることは当たり前にあるものではない。気仙沼でのボランティアで、ある被災者の方が、「地震前の暮らしは、夢のような生活でした」と仰った。その当時ボランティアに行っていた寮生たちは、東京にいる自分たちは「夢のような生活をしているんだ」と当たり前のことが当たり前ではないと実感した。私たちは失ってはじめてものの大切さ、事柄の大事さを知るが、失う前に当たり前はないと思い、「おかげ様」のこころで感謝していく。
〇「お互い様」
今の若者たちはまじめで誠実な人が多い。完璧主義で何でも100%を目指す。ただ、それが他者の期待に応えよう、認めてもらおうとするあまり、いつの間にか他者の人生を生きてしまっている。そして期待に応えられなくなると落ち込み、心を壊す。所詮人間は弱い存在で100%は無理。だからこそ、足りないところを「お互い様」と助け合うことが必要。お互い様と思えば自分に完璧など求めないし、相手にも求めない。人も100%信頼してはいけない。98%信頼して、あとの2%は相手が間違った時の許しのためにとっておく。人間は不完全なもの。それなのに100%信頼するから許せなくなる。100%信頼した関係はかえって壊れやすい。
〇「お先にどうぞ」
エレベーターの前で「お先にどうぞ」と言うのは難しくない。しかし「タイタニック号、最後の救命艇、最後のシート」を前にして、「お先にどうぞ」と言うのはそれほど簡単ではない。現実になった時にどうするかはわからない。この問いはそれを問うているのではなく、生き方の問題。もしそれまでの人生、悔いのない、やり残したことのない生き方をしていれば「お先にどうぞ」と言えるはず。つまり、その時、その瞬間を丁寧に生きているかどうか。
よく「なぜ勉強するのか?」との質問に「いい大学に合格するために」、「いい会社に就職するため」、「将来立派な大人になって幸せになるために」と言う。しかし、これでは高校や大学の勉強は単なる準備期間、手段となってしまい、その価値を失う。ここでも将来と今を比べてしまっている。人間にとってどんな世代もどの瞬間もその後の人生のためにあるのではなくて、今月今日に価値がある。この究極の「お先にどうぞ」を意識していれば、普段の生活で少々後れをとっても「お先にどうぞ」と言いやすく、人と比べて悩むこともなくなる。
〇「本然のいのちが承服する」
天地万物一切が、その本分を尽くし、その生を全うし思い残すことのない世界を求める。
自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生甲斐を感じて幸福であり得るような世界。
〇「自分の思い通りではなく、願い通りのおかげ」
自分の思い通りにならないこと。「苦悩」、「難儀」⇒神様からのメッセージ=御神願
⇒自分を成長させてくれる材料 試練 必然的偶然 そこに必ず意味がある。
今どんな境遇にあうとも、どんな人生にも意味があり、あなたを必要としている誰かがおり、「願い」がある。それをあなたに発見されるよう待っている。あなたもそのためにできることがある。どんなに苦況にあっても投げ出す必要はない。「思い通り以上のおかげ」
根本道理 「当たり前のことが当たり前ではない」
お道の信心を一言で言うと、「当たり前のことに、ありがとうと言えるようになる」こと。
2017年度 東京学生寮 寮祭
10月1日、江戸川区の都立篠崎公園で、広域避難者支援連絡会 in 東京 広域避難者交流会実行委員会(参加団体後掲)主催の「第3回 ふれあいフェスティバル」開催され、500人以上の参加がありました。
この催しは、東京や関東地域に避難している方同士の交流と支援者との交流を通して、つながりを深めていくことを目的に毎年開催されています。
東京学生寮は、「寮祭」をこの催しにあてて参加していますが、今回は15名が参加してくれました。一番人が必要なのは、大小30くらいのテント張りです。朝7時に集合するために、早朝4時起床、4時45分出発。バスもまだ走っていない時間によく歩いて参加してくれました。また、公園内道案内や刈り残された芝生の清掃などにも活躍しました。さらに元寮生のIさんがメンバーの金光教静岡教会ハンドベル演奏も昨年に引き続いて披露されました。
主催者の方や支援にも回っている避難者の方にもかなり喜んでいただいたようです。
金光教のテントでも、ポップコーンはもとより、くじ引き、ヨウヨウ釣り、クラフト作成など避難者の子どもたちが毎年楽しみにしてくれ、今回も大勢の人に楽しんでいただきました。
帰寮後、集会室において栄里主事が用意した水炊き、唐揚げ、チーズケーキで労をねぎらいました。感謝。
(広域避難者支援連絡会 in 東京 参加団体)荒川区社会福祉協議会、いたばし総合ボランティアセンター、AARJapan[難民を助ける会]、金光教首都圏災害ボランティア支援機構、災害復興まちづくり支援機構、全労済、中央労働金庫、東京足湯プロジェクト、東京災害ボランティアネットワーク、東京都生活協同組合連合会、東京ボランティア・市民活動センター、東京労働者福祉協議会、連合東京
(実行委員メンバー)青空会、足立区新田ふるさと会、コスモス会、鷺宮都営住宅自治会、東雲の会、東北の絆 サロン FMI 会、NPO 法人とみおか子ども未来ネットワーク、町屋 6 丁目ミニサロン、みちのくまほろば会、むさしのスマイル、かながわ東北ふるさと・つなぐ会、双葉町埼玉自治会。
9月の東京学生寮月例祭・食事会
東京学生寮9月の月例祭が、寮監祭主によって仕えられ、引き続いて教話(後掲)があった。その後の食事会は、このたびは日本人学生H君と韓国からの留学生Cさんの食事当番。ビーフン、鶏焼きめし、生春巻き、チョレギサラダ、スープと盛りだくさんであり、また中国からの留学生Hさんからイカの差し入れがあり、美味しく頂いた。
教話概要「神様のものさし」
「人間のものさし」は目盛りがあるが、「神様のものさし」は目盛りはない。だから測ることができない。人間のものさしは測れるために、そこに「長・短」、「大・小」、「上・下」、「優・劣」など価値が生まれる。するとその価値を比べて悩んだり、役に立たないものは差別したり、排除してしまう。
あらゆる不幸は比べることから始まり、現代人の悩みの全てが人間関係にあると言われている。あらゆる不幸は、人と比べることから始まるのだ。
神様のものさしは目盛りがない。測りようがない。だから測れない。つまり比べないこと。神様のものさしで計るということは、比べずに全ての存在を大切にすること。だからこそ測らない。目盛りがないから比べようがないのだ。
もちろん人間のものさしも必要で、これがないと世界、社会は成り立たない。しかし、この世界は目に見える世界ばかりではなくて、目に見えない世界でも成り立っている。特に現代社会は、目に見えるところだけしか見なくなってしまったために様々な歪みが生じている。
人間のものさしで、自分の方が優れているとか、劣っているとかの「優劣」関係、自分の方が偉い、自分の方が下という「上下」関係、あるいは、損か得かと計算、打算だけでは見えてこない世界を神様のものさしを持って見ていく。この世の中は、目に見えない世界でも成り立っていることを知ることが必要。
以上の神様のものさしについて、2013年4月21日付『金光新聞』4面、「信心オンエア」、「慢心を捨て誠実な仕事で信頼回復、『神様と一緒の』の姿勢で」、という、喫茶店で働くA君が慢心によるある失敗で、マスターの顔色ばかり見て仕事をしていた自分自身を反省し、神様がご覧になっているとの神様の視点から、他と比べて勝手に落ち込んでいた自身の姿を自覚することができ、それからは誠実な仕事でマスターたちの信頼を回復したという記事を参考にさせて頂き、お話しした。
8月の東京学生寮月例祭・食事会
8月の月例祭、運営委員の松本佳子先生ご祭主のもとに仕えられ、教話を頂いた。その後、今回の食事当番留学生HさんとOさんの2人に、写真のようにたくさんの手作り中華料理を作って頂きました。また、前寮長のH君の親御さんから送って頂いた岡山の白桃、これがまた超美味でみんな大喜び。感謝、感謝でした。
教話内容
埼玉県の大宮教会で御用させていただいております松本佳子と申します。
今年から東京寮の運営委員の御用をいただきましたので、皆様とお会いするのは今日が初めてです。どうぞよろしくお願いいたします。
東京寮には、全国各地から上京されている方、また海外の方もたくさんいらっしゃいますが、私は、九州の出身で、大分県北部にあります宇佐市という所で生まれ育ちました。
大分県宇佐市という所は、北は瀬戸内海側に面していて、南側にはたくさんの山があります。その両方に挟まれた広い宇佐平野という所にあります。大変温暖な気候で、海川山野の色んな作物が豊かに実り、田んぼや畑も多いですが、麦どころでもありまして、麦焼酎のいいちことか二階堂とかの産地でもあります。
私は、教会の生まれではなく、その広い宇佐平野のほぼ真ん中辺りにあります田舎の町の小さな商店街で生まれ育ちました。
実家は、八百屋を営んでおりまして、四人姉妹の次女として生まれました。両親と母方の祖父母、そしてその上のひいおばあちゃん、一番多い時で9人の大家族の中で育ちました。
私がお参りしていた教会は、豊前四日市教会と言いまして、今でも、実家の母や妹家族がお参りしております。
皆さんそれぞれに「自分に信仰を伝えてくれた人」というか「金光教のことを教えてくれた人」という人がいると思います。いろんな場面で、いろんな方に教えていただくことがあると思いますが、私に「信心というのは大切なものだよ」と教えてくれた人は二人います。
一人は、実家の信心を始めた祖母、そしてもう一人は、その祖母が日々お取次をいただき、私達のことを毎日ご祈念してくださっていた、豊前四日市教会の二代教会長伊藤ツタヱ先生という方です。
伊藤先生は、今から15年前の平成14年の暮れに94歳で亡くなったんですが、今日は、その伊藤ツタヱ先生から教えていただいたことを少し聞いていただきたいと思います。
私が初めて金光教のみ教えに触れた記憶というのは、小学校4年生の時のことです。
それまでにも、教会で神様や教祖様のお話は聞いていたはずなんですが、私の記憶にはっきりと刻まれている、一番最初の神様のお話というのは、小学校4年生の時に、伊藤ツタヱ先生からいただいたみ教えです。
どうしてそんなにはっきりと覚えているかというと、小学校4年生の夏休みに、私は交通事故に遭ったからなんです。それが、今からちょうど40年前の昨日のことなんです。
全国の教会には、それぞれいろんな子どもの会があります。「フォーゲル」「ボーイスカウト」をやっている教会もありますが、豊前四日市教会では「少年少女会」という会で活動をしていました。
ちょうど明日、ご本部で「少年少女全国大会」が開かれます。「少年少女全国大会」というのは、子ども達のための年に一度のご大祭のようなもので、毎年、全国からたくさんの子ども達が集まって、ブラスバンドの演奏や、交流行事が行われています。豊前四日市教会も、毎年、ブラスバンド隊として参加していました。
今頃、ご本部は夜の集いで大変賑わっている頃だと思います。今年は屋台村が開かれるらしく、宇佐市はから揚げ発祥の地と言われているところなんですが、豊前四日市教会は、「宇佐から揚げ」のお店を出すそうで、今頃、全国のみなさんに美味しいから揚げを振舞っていることと思います。
私が小学校4年生、9歳のころのことですが、その大会に参加するためのブラスバンド練習に行く途中に、交通事故に遭いました。大会まであと数日という時でした。
自転車で練習に向かう途中、後ろから来た車にはねられたんです。
その時は、一つ上の姉や友達も一緒に練習に向かっていたんですが、私は、体が小さくて、いつも置いてけぼりだったんです。姉や友達はずっと前の方に行ってしまっていて、私はそれになんとか追いつこうと、必死で自転車をこいでいました。
車のキキーッという急ブレーキの音と、ガチャーンという大きな音に、前の方にいた姉が驚いてふり返ると、私が空中を飛んでいたそうなんです。
その直後、気がついたら視界がおかしくなっていました。
赤や青とか緑色とかいろんな色の線が横にザーッと走っているような感じで、私はそれがとても怖くて、かけつけてくれた姉にしがみついて一生懸命「金光様、金光様」とお願いしていました。
どのくらい時間が経ったのか、それが5分くらいだったのか30分くらいだったのか、よくわからないですが、かけつけてくれた姉にしがみついて一生懸命神様にお願いしていたら、パッと突然その線が消えて、今までと同じように見えるようになりました。本当にホッとしたことを覚えています。
結局、私は鼻の下と肘にかすり傷を負っただけだったんです。
それから数日後の少年少女全国大会には、元気で参加させていただくことができましたが、子どもの私は、9歳といえども一応女の子ですからね、鼻の下にできたかさぶたがとっても恥ずかしかったという記憶と、教会の先生方や信者さんたちなど、周りのたくさんの大人たちがみんなして「参加できて本当によかった」と口々に言うので、なんとなく気恥ずかしかったような記憶があります。
交通事故に遭って、私自身、痛い思いやつらい思いをしたというわけではなかったんですが、その時に乗っていた自転車がもうぐちゃぐちゃになってしまっていたらしいんですよ。
そのことを後で母から聞かされて、やはりそれはとてもショックでした。
自分のケガが軽かったので、てっきり自転車も今まで通り乗れるものと思っていたんですが、母の口ぶりやその場を見ていた姉の話から、そんな簡単な事故じゃなかったんだなぁと、後になってから知ったようなことでした。
その事故の後、母に連れられて教会に御礼のお参りをしました。そのお礼のお届けをさせていただいた時のことなんですが、その時に、伊藤ツタヱ先生が9歳の私におっしゃってくださったことがあるんです。
「神様のお徳というのはね、3つあるんですよ。その3つのお徳というのはね、『お繰り合わせ』と『お気付け』と『おまつりかえ』と言うんですよ。あなたは、その3つのお徳のうちの『おまつりかえ』というお徳をいただいたんですよ。『おまつりかえ』っていうのはね、あなたの乗っていた自転車がもう二度と乗れないくらいぐちゃぐちゃになってしまったでしょう。事故であなたが怪我をして助からなかったかもしれない所を、神様が自転車をあなたの身代わりにして助けてくださったんですよ。それを『おまつりかえ』と言うんですよ。このことを忘れないで、神様にお礼申していかないといけませんよ。これはお母さんだじゃなくて、あなた自身が、これからもずっと忘れないで、しっかり神様にお礼申していくことが大切なんですよ。」
と当時小学4年生だった私にもわかるように、丁寧に丁寧にお話してくださいました。
親先生が、そうやって真剣にお話し下さるので、子供心にも「これは絶対に忘れちゃいけないことなんだなぁ」と思いました。
その後は母も自分のこととして、毎月4日を「お礼日」として、私と一緒に教会にお礼参拝をしてくれました。
子どもの頃の事ではありますが、この事故のことは、私の「信心の原点」だと思っております。
みなさんそれぞれ、ご自分の家が金光教にどうやってご縁をいただいたか、神様のどんなお徳をいただいて今現在があるか、聞いたことがありますか?
聞いておいた方がいいですよ。できれば書いておいた方がいいです。
いつか必ず「聞いておいてよかった」と思う時がきます。
先ほどの神様の3つのお徳「お繰り合わせ」「お気付け」「おまつりかえ」に話を戻します。
「おまつりかえ」は今お話させていただいたのでお分かりになると思いますが、「お繰り合わせ」と「お気付け」はわかりますか?言葉としては、なんとなくわかりますよね?
「お繰り合わせ」というのは、「何月何日は何の予定がある」と言っても、急な病気になったり、台風が来たり、電車が止まってしまったり、何か差し支えができてしまえばその予定は実行できなくなります。
今年の4月、群馬県のある教会のご大祭に御用に行かせて頂きました。帰りの電車は他の先生方と三人でした。電車の時間がぎりぎりだったので、改札から少し早足で行かないといけない状況でした。そのうちの一人の先生は足がお悪い方だったので、私は次の電車でもいいんじゃないかと思ったんですが、もう一人の先生が「急ぎましょう!この電車に乗りましょう!」と先に歩いて行かれたので、足の悪い先生を「大丈夫ですか?」と気遣いながらなんとか目指す電車に乗りました。
それからしばらくして、私たちの乗った電車の次の電車が架線トラブルで途中の駅の手前で止まっていると車内アナウンスがありました。その後電車が動き出したという情報が伝わったのは、私が大宮駅に着いてからのことでした。
あの時、もし次の電車に乗っていたら、そのトラブルに巻き込まれていたんです。普通でも2時間くらいかかるところを、さらに時間がかかり、足の悪い先生は都内の教会まで帰らなくてはならないのに、またさらに疲れさせてしまうところだったんです。
そういう「お繰り合わせ」をいただいたことを神様に御礼申すと同時に、そのトラブルが一刻も早く解決するように、電車に乗っている人たち、また駅で足止めされている人たちがこの後お繰り合わせをいただかれますようにとご祈念しながら帰りました。
これはひとつの例ですが、そういう色々なことがある中で、一日一日を過ごしているわけです。
「ふだんから神に取りすがっていれば、神と心安くならせてもらっているのと同様である。無理も聞いていただける。大難は小難にまつりかえてくださり、小難は無難にお取り払いくださる」という教祖様のみ教えがあります。
日々「お繰り合わせ」や「おまつりかえ」という神様のお徳の中で、私たちは生活させていただいているんです。
それから「お気付け」ということ。これが一番大事です。
先ほどの事故の話もそうですが、「大変な出来事だったけれど、こんな意味があったのか」と、その出来事の中にある、神様のお心に気づかせていただくということです。
日常生活の中で、神様のお働きは満ち溢れています。身の回りにたくさんあります。
その神様のお働きを感じるセンサーが人間の方にあるかどうか。そのセンサーが常に動いていることが大事です。
では、センサーの感度を上げるためには、どうしたらいいでしょうか。
それはお取次ぎをいただくことです。み教えを聞くことです。
日々の生活の中で、うれしい事や悲しいこと、腹の立つこと、困ったことなど、なんでも日常のことをご自分のご縁のある教会の先生、またこちらの辻井先生に聞いていただいたらいいですよ。神様と自分をつなぐパイプが太くなります。太く強くなります。
大宮教会に、数年前から時々電話をかけてくる人がいます。
生活保護を受けていて、鬱病もある方なんですが、最初の頃は、お金が無くなり、食べるものが無くなるとかかってきていました。
だからと言って、お金を融通してあげるわけにもいきませんから、教会長は、おにぎりを何個か握って、お米を何合か袋に入れて、それからお下がりの野菜とか果物とかと一緒に、その方の所に届けていました。そういうことが何度もありました。
そういうことが何年か続くうちに、その方の電話の内容が少しずつ変わってきたんです。
自分の身の上話や、お子さん達のことをお話しするようになり、教会長は「電話の内容がお結界お取次ぎみたいになってきた」と言いながらずっとその方の話を聞いておりました。最初の頃は教会長が留守だとすぐ電話を切っていたのが、この1年くらいは、私が出ても色々と話をされるようになりました。
さらにまた昨年の年末あたりから、お友達でやはり生活保護を受けている方のことをお願いするようになってきました。今年のお正月には、「お世話になっているから」とお年始にお菓子を送ってこられました。日によっては「神様のおかげだと思います」なんて言葉が出ることもあるんですよ。
鬱病のお薬も飲んでいるので、まだ時々浮き沈みもあり、言葉が不明瞭なところもありますが、声も以前よりはずっと明るい声で話すようになりました。
教会長は「ここまで長かったなぁ」なんて感慨深げに言ってましたが、実はまだ電話だけで、教会にお参りはしたことがないんです。病気もあって、電車移動が大変な状況ですが、いつか参拝できられるようになることを、教会長ともども願っているところです。
神様は「神へは何でも願え。神は頼まれるのが役であるからなぁ」とおっしゃってくださっています。教会の先生は、どんなお話でも聞いてくれますよ。
最後に教祖様のみ教えをもうひとつご紹介させていただきます。
「願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出てくる。神も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、どれほど離れていても、拝めばそれが神に届く」
世界中どこにいても神様の道がずっとついている、大変心強いみ教えですね。
神様からのシグナルはいつも出ています。
それを受けることができるかどうかは、こちらの心次第です。
どうぞこの身いっぱいに神様のお徳を感じることができる自分にならせていただけるように、ということを願っております。
本日はありがとうございました。













































































