5月の東京学生寮月例祭・食事会

5月11日、寮集会室において、藤原運営委員ご祭主のもと、5月の月例祭が仕えられ、その後概要後掲の教話を頂き、引き続いて食事会を開催した。

今回の食事当番は、中国からの留学生の方々4名。かなりの数の手料理を振る舞って頂き、堪能した。

藤原委員教話概要
「開寮記念祭の時に三浦東京学生寮運営委員長があいさつの冒頭で、世の中で肉眼では見えないものがたくさんあり、神様もその一つだと、そして寮監の辻井先生は、この寮に入ったからには目盛りのない神様のものさしを持って卒寮して下さいと仰った。

ではどうすれば見えないものが見えるのか。神様のお働き、おかげは目で見るのではなく、心で感じてわかるものである。例えば携帯やテレビの電波は見えないが、アンテナ受信機を使って画像や音となって見ることができる。金光教では「おかげはわが心にあり」と教えるが、心はちょうどアンテナ受信機である。そのアンテナでも遠い宇宙からの電波を受信できる高性能のものもあるが、それこそ弱い電波も受けられない悪性能のものもある。わが心でも性能のいいわが心と性能の悪いわが心がある。

神様を感じていくのは教典や教えを読むとわかる。神前拝詞を読めばどういう神様かはある程度は理解できる。しかし、心でわかるにはありがたいという感謝の気持ちが芽生えてこなければならない。目が覚めてありがとう、玄関を開けて空気を感じてありがとう、食事の時にありがとう、トイレでありがとう、そして寝る時、今日一日ありがとう、これが毎日変わらないものとして、5つのお礼として手を合わせる。これを繰り返していくと性能のいいアンテナになっていく。そして、教祖様のように神様と対話ができるようになる。

このように性能のいいアンテナにするにはこれは稽古しかない。お稽古する場所は教会のお広前であり、東京寮で言うとこの集会室。どういう稽古をすればいいかは寮監の辻井先生に聞けば教えてくれる。

この場所ではまず祈ること、そして神様を感じるような心を持って日常生活、社会生活を送っていく。常に心の中に神様を持って生活をしていく。これが信心の営みになる。ここでの寮生活で性能のいいアンテナ、性能のいい信心を磨いていくと、辻井寮監の仰った神様のものさしを心の中に持つことができ、そのものさしを持って世の中のお役に立って頂きたい」。

 

 

 

寮開寮記念祭・新入寮生歓迎会

金光教東京学生寮で、平成31年度開寮記念祭が福田光一師(運営委員長代行)祭主のもとに仕えられた。

祭典に引き続き、三浦義雄運営委員長から「金光教の信心は、神様や御霊様など目に見えないものを大切にさせて頂くことである。今日、目に見えないものを信じるのはばかげているという人もいるが、金や物という利害関係で動いているかのように見えるこの社会でも、愛や信頼という目に見えないものに支えられて成り立っている世界でもある。例えば子どもは、目に見える世界では大人から教育やしつけを受けなければ一人前になれない存在であるが、目に見えない世界からいくと、子どもは神様の尊い愛し子であり、親の所有物ではなくて、神様からお預かりしている大切な宝物となる。金光教の信心にご縁を頂いている皆様は、神様から神心を頂いている神様の尊い愛し子として、その神心を発動し、難儀な人を見たら助けさせて頂くような人にお育ち頂ければと願っている」とのあいさつがあった。

祭典に引き続き、新入寮生歓迎会を開催、30年近くにわたって恒例となっている班対抗の「誰の答えでしょう?」ゲームで盛り上がり、懇親を深めた。今年は例年の負けチームによる罰ゲームではなく、勝利チームに開寮記念祭のお直会をお下げすることになり、同点決勝ゲームも決着つかず、最後はジャンケンで勝利チームが確定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

寮花見大会・新入寮生歓迎会

3月31日、一時雨の天気予報のなかにもお天気に恵まれ、寮お花見大会と第1次新入寮生歓迎会を開催いたしました。今年は多くの新入生が入寮し、ちょうど入寮してきた方のご家族たちや卒寮生、運営委員も加わり、たくさんの参加者の中で行われました。もちろん恒例の中畑先生ご夫妻の「焼き鳥」も出店。かなりの人数の中にも多くの焼き鳥を用意して下り、一同堪能しました。

 

 

 

東京学生寮3月の月例祭・送別会

皆様、大変ご無沙汰して申し訳ありません。去る3月2日寮集会室において、3月の月例祭と送別会を開催しました。在寮生からそれぞれ送辞、記念品の贈呈、卒寮生からの答辞、辻井主事と辻井寮監から送別の言葉があった。ついこの間入ってきたと思ってた方がもう卒業。いつもより強い寂寥感に苛まれました。

 

 

 

 

東京学生2月の月例祭・食事会

2月2日、東京学生寮集会室で、大宮教会松本佳子先生ご祭主のもとに月例祭が仕えられ、後掲教話を頂いた。引き続いての食事会、手巻き寿司、餃子、小籠包、豆腐の皮のサラダ、デザート、熊肉等々盛りだくさん、懇親を深めた。

教話
年が明けてもうひと月が過ぎて、2月になりました。来月には卒業をして社会人になるという方もいらっしゃいますが、きっと、とても緊張してその時を迎えられるのではないか思います。

今日は、まず、こちらを読ませていただきたいと思います。
これは、埼玉県の浦和教会の「うららか」という教会誌に掲載された、前の教会長である松本真弘先生という方の巻頭言をまとめた本です。
先生は6年前の平成25年に亡くなられましたが、これは平成4年に発行されたものです。
その中の一部を読ませていただきます。

「柔らかい大地」より『自分のこころから』

「拝めとも、願をかけよとも、お祓いを上げよとも言わぬ。ただ真の信心をせよ、と教えたるに、ただその一つができぬか」
これは金光大神の広前に参ってくる人々の信心ぶりに対する金光大神の悲嘆の言葉である。
備中乙島の人、国枝三五郎は、もと黒住教の信者であり、六根清浄祓を七日に一万度ずつも唱えた伝えられるほど、拝み一筋の信心をしていた。金光大神はその国枝氏に「拝み信心をすな。真でなければいけぬ」と諭している。
当時、庶民の信仰は、拝むこと、または拝んでもらうことが信心であると考えられていた。しかるに、金光大神は拝み信心ではいけぬ、真の信心をせよと教えられたのである。この「真の信心」という意味は如何なるものであったか。それは「この道は、話を聞いて助かる道」であると教えられ、話を聞くことによって自分自身が得心することが第一であると示されているところからも分かるとおり、心から理解してその教えを実践して初めて信心と言えるのだと断じておられる。これは、信心はどこまでも自分自身の「こころから」のものでなければ意味がないということと、道理にあったものでなければならぬという二点を意味した。
「人に頼んで、百度参りをして貰うたり、拝んで貰うたりしても、重荷を分けて持って貰うような訳には行かぬ」。まことに信心は人間の主体的なものへの目覚めである。市村光五郎は「金光大神のおはなしは、巳の年(光五郎のこと)が胸に手を当ててつくづくと考えてみるに、<聞け、悟れ>との御言葉なり」と述懐しているが、まさにこれである。
今年も金光大神祭を迎える。現代においても一層、この金光大神の教えた信心の意味を、われわれは深く自分のものにして行くことがいる

これは、昭和51年の10月号に発行されたものに掲載された巻頭言です。

教祖様は「子どもが15歳になれば、自分のことは自分で信心しておかげを受けさせるようにしなければならない。」とおっしゃっています。

うちの子ども達は3人いますが、それぞれ25、23、18になりますが、とてもじゃないですが「自分で信心しておかげを受ける」というようなことはできていません。

私自身、その頃の自分を思い返しても、自分勝手をして、周りの大人たちに叱られていたなぁと思います。私は4人姉妹の次女なんですが、4人の仲で私が一番反抗的で、一番叱られていました。

私は子どもの時からピアノを習っていて、子どもの頃はピアノの先生になりたいと思っていました。でも、大学受験で落ちてしまって、音楽の道に進むことは断念せざるをえませんでした。今現在は、大宮教会で御用をさせていただきつつ、先ほど栄里先生が弾かれていたように月例祭でのピアノの御用、また東光合唱団や秋桜の会で、栄里先生とも一緒に音楽の御用をさせていただいています。

私は、教会の生まれではなくて、祖母の代からの信者の家庭で生まれ育ちました。
教会には修行生として入らせていただきました。その時に、教会修行に入るんだから、音楽とはもうさよならだなという覚悟をして修行に入りました。

その私が、教会や合唱団でピアノの御用をさせていただいているということは、その頃の自分ではまったく思ってもみなかったことです。そういう思わぬ世界が広がるということが神様の世界、信心の世界にはあるということを、つくづく実感させていただいています。

どう言うことかと言いますと、私は2度、音楽の試験に落ちているんです。
1度目は、音大付属高校の受験、2度目は大学の教育学部音楽科の受験です。1度目に落ちた時、音楽の道を諦めようとしましたが、諦めきれず、その後の2度目のチャレンジへとつながったわけです。

その時のことを少し詳しく申し上げます。
音大付属高校の受験に失敗した私は、自宅近くの公立普通科高校に進学しました。音楽はお金もかかるし、何より私程度の腕ではこの先に進むのは無理だとそこで音楽の道に進むことを諦めて、高校進学と同時にピアノもやめてしまいました。

それでも、子どもの時からピアノが好きで続けてきたので、家で一人ピアノを弾きながら進路を思い悩んでいました。高校1年生の終わり頃になって、「このままでいいのか?本当に音楽の道を諦めてしまって後悔はしないのか?もし音楽の道に進むならもう決断して、今すぐにでも取り掛からないと間に合わない。」と思うんだけれども、やはり親には言い出せずにいました。

そうやって1年生はもんもんと過ごして、2年生になったばかりの春のことです。学校からの帰り道に同じクラスの女の子がある家の前に立っていました。彼女の家は全然違う方向で、遠くの場所だったので「なんでこんな所にいるの?」と聞いたんです。そしたら「ここ、私のピアノの先生なんだ~」って言うんですよ。

このやりとりだけだと、普通の会話ですが、当時の思い悩んでいた私にはものすごい衝撃的なことだったんです。彼女がピアノを習っていたことも知らなかった、自分の家の近所のそこがピアノ教室だとは知らなかった!もう平常心ではいられなかったですね。

「私もそこの先生にピアノを習いたい!そして音楽の道に進みたい!」思いは止められないとう状態でした。
そして、まずは母に相談しました。母はいいとも悪いとも言わず「お父さんに聞いてみなさい」と言いました。当たり前ですよね。でも、ちょっと父に言うのは怖かったんですよ。でも勇気をふりしぼって父にお願いしました。

そしたら父は、「あそこの先生はすごく厳しいんだぞ。ちゃんとできていないと手を叩くんだぞ」と言うんです。でも私は習いたくて必死だったので「厳しい方がいい。絶対がんばる」と言うとしばらく黙り込んでいましたが「そうか。わかった。」とまた私がピアノを習うことを許してくれました。
でも、いざその先生に習い始めてみると、全然厳しいことはない、すごく親身に教えてくださるとてもいい先生でした。

ところが「またピアノが習える!」とウキウキしていた私に、ある日鉄槌が下されました。
高校生になって、進路に悩んでもんもんとはしているけど、私は、教会には少年少女会という子ども会で行くだけで、お取次をいただいてはいませんでした。

私がお参りしていた教会の奥様が母の妹にあたる人なんですが、その叔母に「あんた最近日参さぼってるでしょ。音楽の道に進みたいなら、ちゃんと親先生のお取次をいただいて、神様にお願いしないとダメじゃないの」と叱られました。もうウキウキしていられないですよ。「音楽の道に進みたい!」という願いがあるわけですから。

そこで私は一念発起して、毎日教会にお参りをしました。そして、お結界で親先生に「音楽の方面でお道のお役に立てる私にならせてください」とお願いをさせていただく、という日々を過ごしました。お参りすると親先生はその日その日でいろんなお話をしてくださるんですが「金でメッキをしているものは剥がれて汚くなるけれど、こうやって毎日お結界お取次をいただくということは、そのはがれたものをまた神様がきれいに塗りなおして下さっているるようなもなんですよ。」というお話をしてくださって、より一層がんばってお参りしなきゃ!と思って、学校と教会参拝と練習の毎日を送っていました。

そして受験の日を迎えたわけですが、先ほど申した通り、大学受験は失敗に終わりました。
そのあとは、浪人してもう一度チャレンジしたいだとか、アルバイトをするだとか色んなことがありましたが、結局、その後、教会修行に入らせていただくことになりました。この時のことはまた別の話しになりまして、とっても長くなりますので、今日ここでは割愛をさせていただきますが、その時に、先ほど申しました、「音楽とはもうこれでさよならだ」という覚悟というか、決意をして教会修行に入りました。

教会で修行生としての日々を過ごし、その中の1年は御本部の金光教学院に行かせていただいておりましたけれど、5年半後にご縁をいただいて大宮で御用をさせていただくようになりました。
もちろん、修行生の頃は自由にピアノを弾くことはなかったですが、大宮教会に来たらお広前にピアノがあったんです。

ある信者さんが、今度大宮に来るお嫁さんはピアノが弾けると言うことを松本真弘先生から聞いて、ご自分が若い頃に弾いていたピアノを「ぜひ教会で御用に使ってください」ということでお供えになったというんです。私よりも先に大宮に来ていました。「神様はピアノを弾いてもいいとおっしゃってくださってるんだろうか」と本当にもったいない思いでした。

それで、まずは、月例祭の時に典楽の代わりにピアノで弾かせていただくことになり、それからずっとピアノでお仕えさせていただいています。その後は、連合会コーラスの伴奏の御用、東光合唱団の秋桜の会など、栄里先生とも一緒に活動させていただくようになりました。

そして去年、ある方から「病気をして声が出にくくなったので、ヴォイストレーニングをしてもらえませんか」と言われ、時々ですが、拙いながらもその方と一緒に歌うことを練習しています。音楽とはさよならをしたつもりで教会修行に入ったはずが、大宮に来てからずっと、もう27年になりますが、音楽と縁が切れるどころか広がっているんです。

それはどういうことだろうか、と考えた時に、私が高校2年生の時に「音楽の方面でお道のお役に立てる私にならせてください」とお願いして日参していたところに戻るわけです。

あの時に、叔母が「ちゃんと親先生のお取次をいただいて、神様にお願いしないとダメじゃないの」と、叱ってくれなければ、私の一念発起はなかったわけだし、また、そうやって16歳の子が一生懸命願って参拝してくることを、親先生が一緒に願ってくださり、それを毎日神様にお取次下さっていたんだなぁと、今になってあらためて親先生のお祈りの深さを感じています。

人間だれでも先のことは全くわかりません。
最初に読ませていただいた「自分のこころから」という巻頭言。
「話しを聞いて自分自身が得心することが第一である」そして「その教えを実践すること」そこで、自分では思ってもみなかった展開がうまれてくるんです。

みなさんは現在、親元を離れてここにいらっしゃいます。
卒業をしてから地元に戻る、そのままこちらで就職をする、それぞれの希望や事情がありますが、どこにいても、どこで過ごすことになっても、教会に参拝してお取次をいただくということは忘れないでいてほしいなと思います。

若い時の信心は宝物です。もちろん年をとっても宝ですけどね。
何かひとつでもいいんです。この先、みなさんお一人お一人が、本当に心に響くみ教えに出会えることを、心より祈念させていただいております。

 

東京学生寮1月月例祭・食事会

 

1月12日土曜日午後7時から、2019年最初の月例祭が寮監祭主のもとに仕えられ、引き続き教話、食事会を開催した。

教話はいよいよ本年3月に卒業となる皆様に、「神様のものさし」を確実に持ってもらうために、そのものさしは「世間や人と自分を比べるのでなく、起きてくるすべてを大切にする生き方、そのために思い込み、固定概念を問い直す」ことで持てると改めてお話しさせて頂いた。

今回の食事会の当番は、中国からの女性留学生2人。寒いので中華火鍋、激辛、中辛、普通を用意して下さった。私は激辛でもかなりいけたが、汗びっしょりの寮生もいた。あとサラダや中国風チジミ等々数多く用意して下さった。感謝。

12月寮月例祭・講演会

 

 

 

 

12月1日、運営委員で北沢教会長の中畑吉子先生ご祭主のもと、寮月例祭が執行され、その後恒例の寮講演会が開催された。

このたびの寮講演会講師は、2011年入寮、2015年卒寮のOG、藤原茜氏、平石碧海氏のコンビ。二人の掛け合いでのお話しを頂いた。

お二人との出会いは忘れもしない東日本大震災が起きたまさにその前後に寮の面談で来ていた時のこと。3月11日の午後1時からお母さんと共に来ていた茜さんと面談し、そのまま帰られた。その後、14時46分に地震が起き、帰れなくなったお二人は再び寮に来て頂いて、ちょうど空いていた職員寮の何もない部屋に泊まって頂いた。電気は一応つけることができたが、何もない。お客さん用の布団も一組しかなく、息子のこたつを持って上がり、急場をしのいで頂いた。

一方平石碧海さんは、大学の試験と寮の面談を12日に控え、11日に上京し府中のホテルに荷物を置き、調布にある試験会場の下見に西武線の駅を降りたとたんに地震に遭遇、そのまま動けなくなった。警察も対応してくれず、あるお店の店先で、そのお店から聞こえてくるテレビの声を情報として聞いていたそう。

しかし、だんだんと日も暮れ、その店の方ももう閉めるという段になって事情を話すと、府中のホテルまで車で送ってもらい、事なきを得たそうだ。その間父親とは一度電話が通じており、父親から私へ電話がかかり、娘が立ち往生しているから迎えにほしいと要請があった。私もあまり言ったことがない聞き慣れない西武線の駅名を頭にたたき込んで、車をスタートさせたら妻が窓から手を振っており、親切な方にホテルまで送ってもらったとのこと。安心した。

しかし、当然大学の試験も中止なり、地震の恐怖でもう寮の面談にはこないのではと心配していたが何と予定通り来て頂き、無事面談は終えた。結局その時受ける予定の大学は日を改めての試験に臨んだが不合格。第二志望は合格とのことであったが、ここでももう東京へは来ないだろうと思っていたら、何と入寮。茜氏、碧海氏が出会うこととなった。

ただ、碧海氏はやはり自分の目指したい道に進みたく、実家の予備校に通って地元の国立大学を目指そうと一旦は決意。予備校の校長からも私に相談の電話があった程であったが、このあとの気仙沼でのボランティアの経験で考えが変わり、そのまま東京の大学に通うこととなった。そしてその後の茜さん、碧海さんコンビによる大活躍が始まったのである。

講演では、入寮のきっかけや入寮までのいきさつ、寮に入ってよかったことなどを気仙沼でのボランティア、沖縄遺骨収集の体験談をもとにお話し頂いた。

講演内容の根本のところのお二人に共通する点は、寮の願いにある金光教人として「世界人類に貢献」していく生き方は、朝目が覚めること、蛇口をひねればお水が出てくること、スイッチ1つで電気がつくこと等々「当たり前のことを当たり前ではないこと」と喜び、感謝し、逆に「当たり前ではないことを当たり前にしていく」、つまり戦争や暴力、貧困、差別、パワハラ、セクハラといった当たり前ではないことを人間として当たり前の生活、社会にしていく、その行動を起こしていくことが大切さであると受けとらせて頂いた。

その後、恒例の中畑建一さん焼き鳥やおでん、お寿司を頂きながらの懇親。焼き鳥は、集会室入り口外の超寒いところで講演開始二時間以上も前から準備して頂き、この辺の居酒屋さんでは食べられないほどの美味しい焼き鳥を頂いた。感謝、感謝であった。

東京学生寮11月の月例祭・食事会

 
11月の月例祭は私が祭主で仕えさせて頂き、以下の教話メモの通りお話しした。その後の食事会、このたびは学園祭シーズンなどで人数が少ないところから、クリームシチューとコストコで調達した料理で催した。コストコの食べ物は美味しく安いのでいつも好評。

教話メモ
 人生、「人間のものさし」で測ると共に「神様のものさし」で測る必要がある。人間のものさしは目盛りがあり、長い、短い、大きい、小さいが測れる。そのため、そこに優劣や善悪の価値が生まれ、どうしても比べてしまう。

 神様のものさしは、目盛りがないので測れない。測れないから比べられない。つまり人や世間と比べてちまちま悩まないことが大切。

 過去の過ぎ去ってしまった出来事を、「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」とくよくよしたり、来てもいない未来を想定して、「もし今より悪くなったらどうしよう」と不安に思い、心配する。これも、過去と今、今と未来を測っている。

今、やるべきことに最善を尽くす。今を大切にできれば、当たり前のことにありがとうと感謝できてくる。これがお道の信心。

 ただ、人間はどうしても比べてしまう。これは仕方がない。しかし、「比べてよかった、悪かった」とか善悪という価値判断をしない。人生、起きたこと、起きてくることをそのまま受け入れていく。すると本当の物事の価値を知り、すべてが有り難く、大切に思えるようになってくる。

 では、具体的にどうすればいいか。2つ方法を伝授
1 人より自分が一番下だと常に思う。相手と比べて自分の方が偉い、あいつよりできる、あるいは劣っていると悲観しない。自分が上だと思うと、他から何も吸収できない。つまり成長しない。本当は上にいたとしても下にいると思いきることによって色んなものが吸収できて成長できる。
教祖様 「平人なりとも比礼」「凡夫であい分からず」

2 人間は感情の生き物。日々、喜怒哀楽を感じながら生きている。嬉しかったこと、楽しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、腹が立ったこと、怒りに震えたこと、いろいろと思いかえして、その中で一番はどれかと考えてみる。辛かったことや悲しかったことを、どう乗り越えてきたかをじっくり思いかえしてみる。

 ただ、本当に辛くて思い出すのもいやだという経験、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などはこれは病気なのできちんと治療する必要がある。忘れるということは痴呆症などマイナスイメージがあるが、辛いことを忘れることができるからこそ生きていける。

 そのことに気をつけて、できるだけ喜怒哀楽の自分の感情、自分がどう思ったかを振り返ってみて言葉にしてみる。そうするとただ淡々とバイトだけしていたり、仕事に追われたり、のんべんだらりと生きているのではなくて、充実した深みのある人生が送れる。

 さらにより具体的に一番美味しかったもの、一番きれいに思ったこと、ビックリしたこと、恥ずかしかったこと等々を思いかえしてみる。

以下に私の場合の具体例をお話しした。

《一番美味しいと感じたこと》
 小学校の授業中にある女の子にちょっかいをかけて、教室の外のベランダに立たされた。もう喉が渇いて死ぬかと思った時、やっと解放されて飲んだ水の味。

《一番きれいだと思ったこと》
 金光学園中学、高校の寄宿舎は、当時120人前後の舎生がいた。そのお風呂に、年に一回だけ中一から入る。その時のきらきらしたお湯の透明さ。
 この2つの経験により、水の有り難さが身に染み込んでいる。
気仙沼の大島 地震後 米軍 洗面器一杯の水 家族6人が三ヶ月生活。

《一番ビックリしたこと》
金光学園寄宿舎 夜中戸板に布団ごとのせられて、朝起きると外の田んぼに寝かされていたこと。
「朝目が覚めて、何事もなかったという有り難さ」 

《一番辛かったこと》
 子どもの不登校や休職。しかし、その経験からグッドタイミングで寮生の同じような難儀に対して、想像を絶するご都合お繰り合わせを頂き、難儀に対応できたこと。

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