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地震後について

 書きたいことは山ほどあり、また、沖縄遺骨収集記も途中で中断。地震後の混乱、昨日初めて実施された計画停電への対応等で更新できず失礼。

 被災地の皆さまのことを思うと、この程度のことは大したことではないが、情報の混乱(計画停電東京電力HPでは小金井市貫井北町5丁目は第2G、実際は第3Gの時間帯に停電。市役所のHPでは、なんと「市役所に問い合わせてもわからない」と書いてある)や買い占め、福島原発の会見を見ていると憤慨しそうになる気持ちを抑えるのがやっとである。

 そのようなことで、昨日東京センターに地震後初めて出務。昨日はちょうど東京センターと首都圏フォーラムで、東北・関東大震災被災者支援のための会合があった。

 会合では阪神大震災、中越地震への支援の反省を踏まえ、東京センターと首都圏フォーラムの連携、ご本部との位置づけ、「今すぐにできること」、「近々にできること」、「中長期にわたってすべきこと」について意見を出し合い、そのための体制について話し合った。

 現在、現地情報収集、いろんな方法について実施可能かどうかの情報収集など、センターとフォーラムが手分けをして当たっている。22日にフォーラム会議が予定されており、その後にこの場でも詳細が報告できそうで、皆さまにもご協力のお願いをさせていただきたい。   

寮生ご家族も無事でした

 東北出身の寮生は、気仙沼教会のご信徒です。先ほど気仙沼教会長の娘さんで東京にいるお嬢様から連絡が入り、気仙沼教会ご家族、寮生ご信徒ご家族も無事とのことでありました。

 一関教会の方が気仙沼に入り、無事を確認、一関教会に戻り連絡を下さったとのことです。全く連絡が途絶えていたので、ひとまずは安心しました。皆さまにはお祈り添えをいただき、また寮生の皆さまも集会室に集まり、御祈念、寄り添い、励ましいただき、誠にありがとうございました。

 ただ、いまだライフラインは復旧の見込みがつかず、被災者の皆さまは本当に大変なことと思います。引き続き、お祈り添え、ご支援をいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

 とりあえず、ご報告まで。

 

寮生は無事

 海外帰省等以外の方は、全員連絡がとれました。ただ、東北出身の寮生の家族との連絡がまだついてません。引き続き、無事を祈っています。

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 奉仕者懇親会に参加 2011年2月

 遺骨収集終了日の夜は、林先生のご子息のお店である「ヘルシーダイニング キュアハート」で懇親会が開かれた。何と遺骨収集参加者100人の約半分の50人以上が参加。お店のテーブルを全て片付けての立食パーティ。

 那覇教会のご信徒が「ぜひ懇親会を開きたいと」と願いを立てられ、当日はそれぞれ司会や受付、接待等々の御用に当たられた。遺骨収集の準備、後片付けと大変な中でのおもてなしに頭がさがる。司会は島袋さん。沖縄弁の名調子で楽しい。

 と思ったら、一班の班長ということで、いきなりマイクを向けられた。そこで「今回は関東から寮生等学生が5人参加してくれた。ただ参加するだけでなく、映画『ひめゆりの塔』やNHKスペシャル『最後の県知事島田叡』や沖縄戦を描いた漫画なども見てもらって事前に学習してきた。初参加者でご遺骨の発見もあり、実際に現地の雰囲気に触れて、平和の尊さを実感できたと思う。大変ありがたい2日間であった」と挨拶した。

 その後、教外からの初参加者の方にも感想を述べていただき、それぞれ想像していた以上の体験をされたようで大変ありがたいことであった。こうして初参加者からベテランまで、アメリカのロンさん夫妻も挨拶された。そこで思わせていただいたのは、人と人とのつながりであった。

 もちろん遺骨収集の内容そのものに意義を感じての参加であるが、最初のきっかけや何回も何十年も参加されている方々にとっても、それぞれの人格に触れ、仲間意識が生まれ、「あの方が参加するなら私も」とか、「1年に一度はみんなに会いたい」といったつながりから、多くの参加を得ていることがよくわかった。 

 老若男女、皆さんいい方ばかりである。こういう人ばかりなら戦争は絶対におきないと本当に思う。泡盛もすすみ、時間も経つのも忘れて交流を楽しんだ。あっという間のひとときであったが、「また来年」との声を掛け合いながら、それぞれのホテルに帰っていった。

 次の月曜日は夜に那覇空港出発なので、一日時間がある。若手たちは沖縄に来る前は、「せっかく来たのだから、あちこち観光を」と考えていたようだが、結局、「ひめゆりの塔」、「轟の壕」、「嘉数高地激戦地跡(普天間基地を展望)」、「嘉手納基地」等、平和に関する場所だけを回ったとのことであった。

 こうして最終日もあっという間に過ぎ、午後10時頃無事羽田空港に到着、バスで12時前に国分寺到着、12時頃無事帰寮させていただいた。今回の体験をぜひまわりの寮生や友人たちにも話して聞かせてほしいとお願いしたら、数日後近藤君が早速に次回の月例祭でみんなの前で話させてほしいと申し出があり、大変嬉しく、先日寮生たちの前で話してもらった。(完)

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6 慰霊祭へ 2011年2月

 寮生3人はまだまだ残りたい感じではあったが、誠に残念ではあるが時間も迫っているので帰路につくことにした。するとあの黒アゲハ蝶が一匹現れ、私たちの歩く横を並んで飛んでいく。

 私は後ろを歩いている息子に向かって、「御霊様が私たちを見送ってくれて、ありがとうとお礼を言っているかもね」と話しかけた。私の場合はこれまで4回とも一日に1回、それも一匹だけが現れる。比較的暖かい日は、普通なら複数で飛んでいても、また、何回も現れてもおかしくないのに、これも不思議の一つである。

 その黒アゲハ蝶がさっと前方に飛んでいった。しばらく歩くともうすでにどの班もいないと思っていたら、かなりの大人数がまだ作業をしている。2班と3班のようだ。何とまた黒アゲハ蝶が飛んでいった方向である。結構、最終日の作業終了ぎりぎりになって発見されることがよくあるのだ。ここでも大腿骨やあごの骨等が収集されたようだ。
                  
 今日は時間がないので、撤収の準備をしているとのこと。私たちは一旦霊園まで帰り、みんながすべて本部に帰るまで待つことにした。雨は相変わらずしとしとと降っている。しばらく待つと2班、3班が上がってきた。

 ふと霊園奥にあるトイレを見ると、誰かがホースで水を出している。あわてて近づくと現在北九州教務センター所長の安武光先生だった。私と学院が同期である。2班の機動班濱出先生にもお手伝いいただいて、トイレ掃除をさせていただいた。

 男子、女子トイレともべっとりと土がついているために、なかなかとれない。寮生らがよく頑張ってくれて、かなりきれいになった。すでに4時を回る。私と濱出さんは慰霊祭での玉串の奉奠がある。濱出さんが「まだ間に合う。この辺でいいでしょう」との声に、あわてず急いで本部テントに向かった。一番最後は3班の数人の方が梯子などの道具を洗って最終チェックをしていただいた。

 私たちは、林先生ご祭主のもとに仕えられていた慰霊祭の玉串奉奠に何とか間に合った。厳かに仕えられた後の林先生のご挨拶は、いつもとは少し違い、時々感極まって声が途切れ途切れになる。沖縄遺骨収集の願い、経過、ご活躍された今はなき先生方のこと等を詳しくお話になり、私も何度も涙がこぼれそうになり、厳粛な気持ちの中に本年の遺骨収集を終えさせていただいた。(つづく)

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 5 第2日大石除去作業 2011年2月

二日目も午前8時50分、沖縄平和祈念公園内本部テントに集合。あいにくやや強い雨が断続的に降っている。御祈念、朝礼の後、早速に作業の準備に入った。大石を動かすためのロープ等を持つ。梃子になるバールは貴重で、他の班も使用している。3班班長の中村先生に拝み倒して1本貸してもらった。

昨日は降り道のある霊園まで歩いたが、今日は車に分譲して向かった。雨で山道もだいぶぬかるんできているため、慎重にも慎重を期して降りていく。海岸線の大石も濡れていてよく滑る。けがのないようにと御祈念しながら進む。

4、50分かかり、ようやく昨日の休憩場所まで到着。じっとしていると寒いが、動くとカッパの中が蒸れて暑い。少し休憩した後、約40歳以下のメンバーは、昨日大腿骨発見場所に移動。その他の方は引き続き周辺を捜索していただくことにした。
写真は大石を動かしているところ。この真上の岩盤の上に数人上がってもらい、上と下でロープを持ってかけ声のもとに一気にあげる。最初はビクとも動かない直径50センチ以上の大石を何度も何度も挑戦する。割れた石が何重にも重なっているので、ただ持ち上げるだけでは無理。

20110220_1 右に左に少しずつずらしてあげていく。昼食を挟んで数時間かけてようやく大小数々の岩石を取り除いたが、残念ながら新たなご遺骨は発見できなかった。その後、付近を探索していた吉永君が新たな自然壕を発見したと近藤君が戻ってきて報告してくれた。ただ、夕刻16時からは本部テントで慰霊祭が仕えられる。それに間に合うよう終了しなければらない。

また、断崖の降り口にある霊園のトイレを貸していただいているが、そこが泥だらけになっているので掃除をする必要がある。私と寮生3人は全5班がすべて帰った後に掃除をして帰ることにし、その他1班の班員の皆さまには、慰霊祭に間に合うよう先に帰ってもらった。そして、先ほど吉永君が発見した自然壕を見ようと向かった。

この壕は、自然の壕を恐らく軍隊が手を入れて整備していた壕と見られ、入り口付近は整然と石が積み上げられている。大きさはそれほどでもないが、狭い穴が奥にいくつも続いている。寮生3人らは奥に奥に入りたがったが、こうした整備された壕はすでに他団体が何度も入っていると思われ、昨年も若松教会隊が徹底的に調べ上げたと聞いていたので恐らくはここにはないことを告げ、一応見える範囲のところは確認して作業を終えた。(つづく)

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 4 大腿骨発見 2011年2月

 昼食後、寮から参加した吉永君が「自然壕はどこにありますか?」と尋ねてきた。「この辺りは探せばなんぼでもあるので、それぞれの正確な位置はわからない」と答えた。「じゃあ、三人で探しに行っていいですか」と言うので、「あまり遠くに行かないように。危ないところには入らないように」と念を押して、行ってもらった。
                          
 私は、黒アゲハ蝶が飛んでいたところを重点的に探したが見つからない。海岸線ぎりぎりのところを飛んでいたので難しいかなと思っていた。海岸から山に向かって這い上がっていくとまた黒アゲハ蝶が現れ、今度は右方向上部へと飛んでいった。その方向へ海側から行くのは危ないので、一旦ジャングルに入って進み、しばらく捜索した。

 予定していた休憩時間となったため、休憩場所に一旦戻った。何人かが休憩に戻ってきたところに、寮生三人も戻ってきた。どうも雰囲気が違う。吉永君が近づいてきて「寮監、出ました」という。そういえば右手に白布を持っている。

 開けると大きな大腿骨2本(写真)が出てきた。思わず「え、壕の中?」と聞いた。「ここから少し左に行ったところの岩の下にありました」と。私はその方向を見てびっくり仰天。先ほどの黒アゲハ蝶が飛んでいった方向なのだ。

__ (3)11111.jpg 私はこれまで7回参加したうち、黒アゲハ蝶が現れた4回のうち4回ともその飛んだ方向にご遺骨が収集された。4発4中である。休憩場所から海側を行くと、もう10メートルもない距離である。初参加のY君が本当によく見つけたと思う。大岩が割れ崩れ、その岩石の下にあったようだ。

 ご遺体が上から落ち込み、ご遺骨がバラバラになっている可能性がある。手の届く範囲で小石を取り除き、1日目の作業終了時間まで探したが、小さな骨片は少し出てくるものの、頭骨は見つからなかった。機動班の橋本さんとも相談し、明日の作業としてロープで大石をつり上げて捜索することにした。最後にご遺骨の前で「祖先賛詞」奉唱、御祈念をさせていただいて一日目を終えた。(つづく) 

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 3 黒アゲハ蝶出現 2011年2月

 沖縄平和祈念公園を横切り、平和祈念資料館を右手に見ながら畑地をさらに西に進む。いつも駐車場やおトイレを借りる霊園に到着。ここまで約徒歩30分。ここから先はトイレがなく、休憩。

 ここから各班一人ずつ断崖下へと降りていく。あいにく天気は小雨で地面はやや濡れている。ロープを張ってはいただいているが、急坂。ここから5班全員が降りるので渋滞する。各班一列に並び、順番を待つ。


P2130012.JPGのサムネール画像
P2200398.jpg 写真1は祈念公園一番奥から具志頭方面。実際の作業場は写真2からさらに西に進んだところ。

 急坂を下りてやや平地の道があるところで一服。ここから海岸まで石階段がついている。この下にあった水源へ降りるためだったらしい。水道を引っ張っていたと思われるすでに使用していないさびたパイプ管が残っている。石階段は自殺者が利用するということで戦後に途中まで壊されたそうだ。

 その階段下まで降りて海岸の岩盤上を少し歩いて行くと、小さい人工の堤防がある。そこで一番手前の2班が一番西に、その後わが班、続いて4班と団子状態になったので一時休憩。その後、2班を追い越して私たちの持ち場へと進む。

__ (5).JPG 写真は途中雨が少しきつくなったので、艦砲射撃で開いた穴に避難したところ。ここは雨に濡れないので、荷物を集め、休憩場所とした。作業を開始したが、ジャングルの中はお天気の影響で暗い。移動しながらのご遺骨探しは困難を極めた。

 私は途中身体が冷えたので、一人休憩場所に戻り、衣服を一旦脱いでいるとそこに札幌から参加のKさんが戻ってきた。するとそこから数メートル下の海岸側に例の黒アゲハが今年も飛んできたのだ。

 私は思わずKさんに、日本では蛍であるが、沖縄では黒アゲハに御霊が宿りこの世に戻ってくるといわれている。沖縄遺骨収集では何人もの方が黒アゲハが飛んだ周辺からご遺骨を発見していると話した。しかし、ご遺骨発見がなかなか困難になってきた今日、正直内心今回はどうかなと思っていた。(つづく)  

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