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平和問題対する信仰的立ち処 1

2012-10-13 15 31 14-1 (3) 

 私は「世界平和」ではなく、「世界真の平和」といわれるこの「真」の意味を次の3点にあると教内外の冊子などに書いてきた。

「世界真の平和とは、
1 遠くにある理想や目的ではなく、人間生活の前提であり、手段である。と同時に平和は希有なるものであり、深く感謝しつつ、時々刻々と創り上げていくものである。

2 ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての1人ひとりの平和である。

3 表層的に平和を唱えるのではなく、私たち人間の心の奥に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化しようとする無礼を詫び、改まり、他者の痛みをわが痛みと感じつつ願い、行動するところにある。」

 ただ、平和問題は極めて政治的な問題であり、対立する立場が数あるなかで「信仰的立場をどこにおくか」についてよく議論になる。

 曰く「宗教者は平和は祈るだけしかできない」、「一方的な立場からの政治的発言はできない」、逆に「祈りから行動へ」とか「積極的に発言」との声も大きい。どれも正しいと思う。

 そこでそのことを踏まえたうえで、どう金光大神の信心から平和問題にアプローチしていくか。それには信仰的立ち処をしっかりと持っておくことが大前提である。まずは私自身が考えている立ち処について述べてみたい。

 まず、全世界のほとんどの宗教が平和を祈り、愛を唱えながら人類はなお愚かにも戦争をやめられないのかという疑問である。戦争とはどうも純然たる悪意のみでなく、愛や希望や正義という理想によって起きているようだ。

 もちろん戦争は、悲惨であり、その本質は焼き、焼かれ、奪い、奪われ、殺し、殺される悲劇そのものである。が、その悲劇を繰り返す原因が正義であり理想であるとするならば、自分たちが正しいとする態度を謙虚に見つめ直し、先に述べている世界真の平和の3点目の「自分自身の心の中に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化としようとする無礼をわび、改まり」がまずは大切である。

 また1点目にも述べているように、平和を理想化するのではなくて、素朴な普段の生活の中にこそ平和を見いだしていくことがいろう。

 一般にも言えることだが、平和主義者は往々にして自分たちは正しく、崇高であるという高邁な態度をとりがちである。そのこと自体が実は戦争へと繋がる根源的原因であるという自覚がないことは問題だと思う。(つづく)

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