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平和問題に対する信仰的立ち処 2

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 さて、一般では「1人ひとりを大切にしてく」ことが人権であり、「人が人を大切にする関係性」が平和である。これにお道の信心における「総氏子身上安全 世界真の平和」の「総」を加えなければならない。

 すなわち「天が下の人間は、みな神の氏子」であり、先の「世界真の平和とは」の2点目で述べている「ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての1人ひとりの平和」という「すべての1人ひとりを大切にする」あり方が本教の信仰原理であろう。

 そうとして平和は極めて政治的な問題である。その政治の本質は国家原理にあり、政治は国家原理で動く。その国家から人を殺せと命令されたとき、私たちはどう対抗するか。まずは普遍的原理、つまり国家原理の上位にある原理をもってきて対抗しようとする。

 しかし、国家原理はその普遍原理を帯同してくるから始末が悪い。日本のかつての戦争でいうと大東亜戦争では「アジア民族の解放戦争」や「大東亜共栄圏」という普遍原理をもってくる。アメリカのイラク戦争では「自由と民主主義のための戦い」というわけである。

 私たちはこれに対してどう立ち向かうかについて、故小田実氏が言う「する側」と「される側」という考えが参考になる。つまり、戦争犠牲者や災害被災者など、もう後がないという状況に追い込まれるのが「される側」で、その本質は“殺される”と定義できる。それに対し「する側」は“殺す側”になる。

 そうとすると、私たちは少なくとも「する側」には立てないであろう。しかし、それでは「される側」としてただ殺されていいのかいう問題が出てくる。ここで私たちの信仰原理が必要となる。つまりは私たちの信仰原理をもって「殺されない」世界、社会、文化を構築していく。「殺すな、殺さない」という倫理だけではない「殺されない」とい論理に基づく世界の実現だ。

 私たちはあくまでも「する側」に立たない。「される側」にその信仰的立ち処をおく。もちろん、いくら宣言したところで構造的に、物理的にどうしても「する側」に立たされてしまう運命にある。しかしだからこその宗教であり信仰である。 

 一番の過ちは、現代的思想にどっぷりと浸かってしまいどこかで負い目を感じながらも「する側」に安住している態度である。その思想は、利益や便益さ(ベネフィット)を享受するには一定のリスクはやむをえないとする「リスク・ベネフィット論」という近代文明思想だ。

 つまり、ベネフィットを得たいならリスクを受け入れるのは当然で、リスクが嫌ならベネフィットをあきらめなさいという、まさに近代思想である二者択一、二項対立的思考方法に毒されてしまっていることだ。

 そこでは社会という多数の便益のために個人が犠牲になるのはやむをえないとなる。それどころか見て見ないふりをして結果少数の犠牲は当然とする、まさに「する側」に安住してしまっている態度に問題がある。信心をしながらも一種のあきらめや開き直りがあるように思えてならない。

 金光大神様の信心をするからにはベネフィットを享受でき、しかもリスクをも減らすという二兎を追って二兎を得ること、あなたよし、此方よし、世間よしの「三方よし」を目指すべきだ。

平和の問題に戻ると、平和のために軍事力は絶対に必要と決めつけるのではなく、平和も享受でき、しかも軍事力も減らしていくというあり方を目指すべきだと思う。

 すべての1人ひとりの助かりを実現していくために、あくまでも「する側」には立たず、どこまでも「される側」を意識して行動すること、ここに信仰的立ち処があり、金光大神の思想と行動と真の理想があると思う。(おわり)

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