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江戸川教会ご大祭 教話奉仕

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 先日、江戸川教会のご大祭で「夢のような生活 奇跡はすでに起きている」との講題で教話を奉仕させて頂いた。

 教話では、被災した住民の方の「地震の前の暮らしは、夢のような生活でした」との言葉に、「当たり前のことが全く当たり前ではない」ということを改めて強く感じ、このことを若者に何とか伝えようとしていることについて、地震3カ月後の気仙沼市南町や鹿折地区、大島、志津川町の防災会館、大川小学校、陸前高田市、釜石市の大型船や防波堤崩壊などの写真や住民宅やホテル一景閣、五右衛門が原仮設住宅でのボランティアなどの写真を見て頂きながら、以下について具体的なお話をさせて頂き、本教信心の要と現代の若者にどうすれば伝わるかについて思うところを聞いて頂いた。

 ・寮生であった気仙沼教会信徒のお嬢さんであるR・Sさんが、地震直後妹さんとメールで連絡がとれたあと家族との連絡が4日間取れなかった時の寮生たちの様子。妹で現在寮生のMちゃんが地震発生時に家におり、メールで連絡がとれたあと津波が襲い、印鑑と通牒をもって高台に逃げて間一髪助かったこと。

・南町住民のAさん宅のボランティアを通してのAさんとの交流。

・大島へ向かう連絡船の中で出会ったおばあちゃんから、家族6人で一日たらいの水一杯で過ごした日が何週間も続き、水のありがたさを思い知ったとのお話を聞かせて頂いたこと。

・寮生のK君が、ご家族を全て失ったおばあちゃん宅で、泥だらけになった位牌と仏像を「神も仏もないので、棄ててくれ」と言われショックを受けたが、その後東京へ帰って早くも風化が始まっているあり方は、神仏の責任ではなくて、何度も経験しながら忘れてしまい、同じ過ちを繰り返す人間の方に責任があり、そのことを神様が嘆かれているのではないかと気付いていったこと。    

 以上の話から、お道の信心の要は「お礼」「お詫び」「お願い」の三つ。

1 当たり前に生きているこの現実は実は当たり前ではなく、神様に生かされて生きているすでに夢のような生活を送っていること。 

2 しかし、その天地の道理を忘れて自分勝手に生きている人間の姿を見て神様は悲しみ嘆かれている。そのご無礼へのお詫びをすること。

3 そして、私たちの生き方の改まりを願うこと。

 改まりとは、人と人とが助け合って生きていってほしいとの神様の願いに応えること。自分事のお願いも大事だが、もう一歩進んで神様の願いに生きる、「人を助けて神にならせていただく信心」を進める。

 ただ、こうしたことは水も食べ物もふんだんにある物の溢れた時代に生きる若者たちにはなかなか理解できず、伝わらない。では、どうすればいいか。持っている物を捨てるわけにはいかないので、「持っているものを持たないかのように生きてみる」。

 小金井市は夜の計画停電があったが、電気を一日使わない、あるいは大島のおばあちゃんのようにたらい一杯の水で暮らしてみる。利き手を使わずに左手一つで暮らしてみても、普段の生活がどれだけありがたいか、それだけでも身にしみる。

 難儀や問題は大なり小なり必ず起きてくる。その問題や難儀はなくなることはないが、普段から持っているものを持たないかのように、その気持ちをもって生きていれば、問題が問題ではなくなってくる。これが一つのおかげだと思う。

 そうすると逆に持っていないと思われるものが持てるようになる。安穏な日常の中で気付かなかったことに気付き、見えないものが見えるようになる。神様のおかげに目覚め、さらに深くおかげを蒙ることができるのではないか。
 
 概要以上のようなお話をさせて頂きました。 

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