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東京学生寮6月月例祭・食事会

 東京学生寮6月の月例祭が、運営委員の田中美和子先生(練馬教会)ご祭主のもとに仕えられ、その後、後掲の教話を賜った

教話 『信心の稽古』      

天地の働き
 ただ今は、東京寮6月の月例祭を皆さんと共にお仕えさせて頂き、有難いことと存じます。私は今年から運営委員としてご用をさせて頂くことになりました、練馬教会の田中美和子と申します。開寮記念祭に初めて皆さんにお目にかかりましたから、今日は2回目ですね。私はお話をすることは不慣れですが、今日のお話の中でみ教えを1つでも心にとめて頂ければ有難いと思います。

 岡山の御本部では4月に3回に渡って天地金乃神大祭が仕えられました。引き続いて全国各地のお教会でも大祭が仕えられ、私がご用をしています練馬教会は先週の日曜日28日に練馬布教30年天地金乃神大祭が無事仕えられました。さて、皆さんもよくご承知でしょうが、天地金乃神様は、人間を始め、草木動物など地上に生きる命ある全ての万物を生かし育む働きをして下さっています。「天と地の間に人間がいる。天は父地は母である。人間、また草木など天の恵みを受けて地上に生きているのである」とみ教えにあります。練馬教会から歩いて7・8分の所に石神井川が流れていまして、川沿いに桜が数十本植えられています。私が練馬に来た26年前はまだ枝も細かったのですが、今は立派に育ってちょうど川にしだれる状態で花が咲くと満開の時期は素晴らしく綺麗なんです。有名な目黒川の桜も綺麗ですが、あれをコンパクトにした感じなんですね。東京寮でも毎年お花見をされて、今年も大変盛り上がったみたいですね。教会ではちょうど勧学祭の時期なので、勧学祭後にお弁当とシートを敷いて、お花見をしました。近隣の家族連れや若いグループで賑わっていました。桜が満開の時期はお花見をしたり、買い物途中や駅に向かう途中で足を止めて、スマホで写真を撮ったりと賑わうんですね。ところが、秋や冬の枯れ葉や枝だけになった時期に足を止めている人はいませんよね。

 教会の庭に、色んな草木が植えられていまして、桜の時期が終わる頃にカイドウという形は桜に似た花をつけるんですがその花が咲き、シャクナゲが咲き、5月はツツジが咲きます。今は紫陽花が満開です。私はホースで水を蒔くだけで、特に手入れをすることもないのに、時期が来ると順番につぼみが膨らんで、綺麗な花が咲き出すんですね。天地自然の働きをより実感することができるこの時期は、神様のお働きが目に見える形で実感できますね。みんながあまり目にとめない枯れ葉の時期でも、神様の働きはいつもあるんです。同様に私たち人間も毎日欠かすことなく天地の働き、恵みの中に生かされて生活させてもらっているんです。このことを当たり前と受け止めて過ごすか、感謝の気持ちをもって生活するか。どちらをとるかで、その人の生き様、人への関わり方、人への思いが随分と違ってくるように思います。自分の力で生きているとか、自分の事を第一にする生き方を改めて、天地の恵みの中での私であると受け止める。人(他人)も自分と同じように天地の働きの中で、大切な命であると思えると、人に対しての心配りや思いやりの心が生まれると思います。

人を祈る稽古
 私は教会に生まれ、幼い頃は教会にいつも信者さん方がおられ、少年少女会で上級の信者さんのお子さんたちに遊んでもらって、楽しく過ごしていました。典楽でお琴をしていましたから、月例祭はお参りしていました。受験や旅行に行く前にはお結界でお願いをすることはありましたが、金光教の神様とはどういうものかとか、信心ってとかあまり考えていませんでしたね。いよいよ両親から勧められて学院に入学することになりましたが、教典を開いたこともない、教内の本を読んだこともない、いい意味で真っ新の状態でしたね。入学しましたら、年齢の近い人も多く、緊張状態がそう長く続くこともなく、良い同期に恵まれたと思います。同年代のから50代60代の人まで幅広く、色んな刺激を受けながらも体力的な修行、精神的な修行をさせて頂きました。

 学院広前で、毎日朝晩のご祈念の時に、お世話になっている学院の先生、学院生全員の名前を読み上げるんです。一人ひとりを祈る稽古として毎日全員で名前を読み上げるんです。例えば具合が悪くて参拝してない人のことを学院のお結界でお願いをするようになるんです。私の班に60代の方がおられ、体力的に相当大変だったと思います。真夏でも黒衣で本部広前に朝と夕方参拝に行きますからね。夏が過ぎた頃に、胃潰瘍で倒れられてしばらく金光病院に入院されることになりました。この時私は金光様にお結界でお取次を頂いて、同じ班の人と一緒に御神米を入院先に届けさせてもらいました。それまでお願いをするといえば自分の事ばかりでしたね。おかげを頂かれて無事回復され、共に1年間の修行を終えて、一緒に卒業させて頂きました。

 人を祈ることは、教師もご信者さんも信心の稽古として実践しておられますね。年と共に生活の状況が変化して、結婚し子供が生まれるとあらゆる事柄が起きてきます。皆さんはまだ実感が薄いでしょうが、子供が熱を出す、怪我をする、頭を強打して入院をする、神様に心を向けなさいと次々と事柄を通して修行をさせて下さるんです。

 子供や家族のことは自分の事のように必死になって神様に向かいます。皆さんのご両親も毎日ご祈念をなさっていると思います。次にお話するのは、私の失敗談です。ある日突然長女の同級生のお母さんが尋ねて来られました。そのお子さんは中学から私立の学校に通われましたので、小学校6年間だけ一緒でした。6、7年ぶりでしたから、子供の話や今どうしてるかとか世間話から始まって、実は娘が一浪して今は予備校に通ってるとのことでした。

 ところがその日の朝、玄関先を掃除していた間に空き巣に入られたようで、財布が無くなってしまったというんです。そして予備校の後期の授業料を今日中に支払わなければならないので、同級生のお宅に何件か回って来たんだけど、少しでもいいのでお金を貸してもらえないかと深刻そうな表情で言われました。それは大変だったねととりあえず3万円を貸したんです。「来週の金曜日には返すから」と言って、帰って行きました。約束通り金曜日にまた尋ねて来て、きちんと返してくれました。そして一カ月も経たないうちに、また尋ねて来たんです。実は実家の父の会社が不渡りを出して、困っていると言うんです。トラブルというのは続くものなのかなと思いました。確かに目に涙も溜まってたんですね。不安に思いつつ、こんな事で足しになるかどうかと前回と同じ額を貸しました。「来週必ず返すから」と言葉を残して帰りました。

 ところが1週間2週間、1か月経ってもきません。そしてたまたま買い物途中に会った子供が仲良くしていたお母さんに会って、実はこういうことがあったんだけどと話をすると、うちにも借りにきたと。同じように2回貸したよと。話してるうちに2人ともだまされたんだという気持ちが増してきて、許せないと2人とも怒りの気持ちが湧いてきました。数日してその人と一緒に家を訪ねてみましたら、都営住宅ですが、既に空室で、なぜかドアに張り紙があって、お尋ねの方は下記の所へお電話して下さい、とありましたが、その電話番号が破られていました。ご近所の人にも電話で尋ねますと、2人の人はそんなの本当か分からないし、貸してないよといわれました。もう1人の人は以前から優しい人のいい人だという印象がある人ですが、尋ねると「貸したけど、まだ返してもらってないよ。きっと会社が大変な状態なのかなあ」とのんきなことをいってましたが。

 あきらめるしかないと思いつつも、ふと思い出してはイライラしていましたね。長女の成人式の着物のレンタル代として少しずつためていた分の一部でしたから、余計に腹がたってしょうがなかったんです。腹を立てたりイライラしても、何も徳もしないです。あるときこのみ教えが目につきました。『金を人に貸し、催促をして相手を破産させたりするより、神に繰り合わせを願ってあげよ。払ってもらって喜び、払って喜ぶようになれ』と。それからは神様に心を向けて、その人の事を祈る稽古をしようと決めまして、その人が2度と間違ったことをしませんように、人に迷惑をかけることのないようにと祈るようになりました。家族や身近な人、ご信者さんのことは真剣に自分の事としていのることは自然にできます。しかし、自分にとって迷惑ないやな存在である人を祈ることは本当に難しいです。『人の身が大事かわが身が大事か、人もわが身もみな人』『たとえひとにたたかれても、決して人をたたいてはいけない。人に難儀をさせるな。よい心にならせてもらえば有難いと思い、すれ違った人でも拝んであげよ。できるだけ人を助けよ』難儀な人を見るに見かねてその助かりを祈ることは、やがて自分の助かりにつながると教祖様は教えておられます。

 冒頭に話しましたように天地の恵みの中の私であり、同じように人(相手)も天地の中の大切な命であると受け止める。あのひとは迷惑だ、憎い、という心をいつまでも心の中に持ち続けて根に持つよりも、何か事情があるんだろうと私の心持ちを変えて、難儀な人を祈る心になれば自分も助かっていくことになるんです。親子・夫婦・兄弟・会社での人間関係・学校での友人関係・ご近所との関係など、自分の思うように行かないこと事の方が多いですが、このみ教えを思い出して人との関係を上手に運んでいく稽古が大切だと思います。

日常の信心
 始めにお話した教会の庭に桜に似た花を咲かせるカイドウという木が、ちょうどお隣の塀にそって植わっています。年々枝が伸びてきて、切らなきゃと思いながらも忘れてしまいました。お隣の奥さんはマンションの大家さんで、出身が同じ愛知県ということもあって、玄関先で会うと話しかけて下さって気さくな性格でおしゃべりがお好きなので、いつも10分ほどは立ち話をするんです。あるときふいにカイドウの木を見たら、花が終わりかけていて花びらが散ってたんです。話の途中で「すみません、随分枝が伸びてて切ることを忘れてました。花びらが落ちてご迷惑をかけました。掃除しておきます」とお詫びしますと、「大したことないから大丈夫だから。こちらこそいつも綺麗なお花を楽しませて頂いてありがとうね」とおっしゃいました。その日のうちに掃き掃除をしてきました。『人を頼むにも、日常心安くしておかないと間に合わない。神も、日常の信心がなければ、いざという時に間に合わない』とみ教えにあります。苦しいときの神頼みではなくて、日頃何もないときにでも、神様に心を向けたり、日々の出来事の中に神様を感じる稽古が大切ですね。今はお店で買い物をするとポイントがたまりますね。ネットで買い物をしてポイントをためる。たまったポイントを使って買い物ができますよね。皆さんも毎日の生活の中で、例えば朝目覚めて眠くても、ありがとうございますとお礼の気持ちで1日を始める。命があるから目が覚めるんですね。電車やバスの乗り継ぎに待ち時間もなくスムーズに乗れたとか、思わぬ良い買い物ができたとか、何でもいいですが、良いことがあれば素直に喜び、当たり前ではなくお礼の心を神様に向ける稽古をして頂きたいと思います。喜びのポイントがたまっていくと、より一層神様から幸せを頂けることと思います。是非神様を感じる稽古を実践して下さい。

 教話を頂いた後は、恒例の食事会。今回は日本人学生3人によるタレにかなり凝った「生春巻き」、「なすび」の料理、サラダ等々。今回も美味しく頂きました。感謝。

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