実のなる木の思いで

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 私が小学生までの頃は、教会の周りの庭にいろいろな実のなる木があった。さすがに気候上できないバナナやりんごはなかったが、いろんなものがあった。

 南側の表には、サクランボ、梅、ザクロ、中庭には、びわ、ブドウ、ゆすら、グミ、畑にはイチゴ、スイカ。裏庭には、桃の木が2本、みかん、イチジク、キンカンなど。夏場はおやつにことかかなかった。

 取れたてを食べるのであるから美味。いまだにその甘さや酸っぱさの感触が忘れられない。犬も2匹いたし、友達とよく庭で遊んでいた。中学生の頃に教会お広前が新築となり、教職舎をずらしたりして、結果、実のなる木は全くなくなってしまった。残っているのは、マキの木や松の木など食べられる実がならないものばかり。

 大げさではあるが、今から考えるとわが家にも近代化の波が押し寄せてきた感じ。今更言っても遅いが、もっと何とかならなかったものか。北関東や東北などにいくと、車窓から、塀もなく庭続きの住宅をみることができる。そこには囲いの木ではなくて、実のなる木が雑然と植えてある。私はそうした雰囲気が好きだ。やはり人間は天地とともにあってこそ、人間でいられると思う。

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このページは、つっさんが2005年2月13日 14:47に書いたブログ記事です。

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