「密約」公表に思う

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 この一週間も世の中、様々な重大事が起きている。悩んだり、憤ったり、悲しい出来事も多い。その中でも「核密約」問題。ようやくその存在が公表された。といっても、もうほとんどの人はその存在を知っていた。

 それにもかかわらず、密約を国民に隠し続けたお歴々のコメントの内容のなさに腹が立つやら、情けないやら、このことがどれだけ重要なことと理解できているのか。ほとんどわからないのであろう。

 「現在から当時を批判するのはコク」だとか、「やむおえない政治判断だった」とか「自分は知らなかった」とか、言い訳でしかない。今更「国民のため」とは片腹痛い。本当に正しい政治判断なら、少なくともアメリカで公表された時に密約を認め、その信念について説くべきであった。

 自国政府の事を他国によって知らされるいう何と情けないことか。まさか政権交代が起きて、密約が白日の下にさらされることはないと信じていたのであろう。日本はまだまだ民主主義にほど遠い国なのだ。

 詰まるところ、「国家のために国民があるのか」、「国民のために国家があるのか」、まだまだ前者の考えを持つものが多い。結局は、国家に国民が、強者に弱者が、多数に少数が犠牲となり、結果「やむをえなかった」、「仕方なかった」の一言で葬り去られる。

 民主主義は、それをできるだけ少なくする制度ではないか。その一番大事な要素が情報公開だ。第1次世界大戦の戦後処理をめぐるウィルソン米大統領の14か条の平和原則の第1条は「公開外交」の提唱だった。
 
 21世紀の今日、過去の教訓から生み出された取り決めを、みなが守れば戦争など起こるはずがないのだ。それを守らないから起こる。そこで責任ある為政者に守らせるために、実効的な制裁のある審判にどんどんかけなければならない。少なくとも政権政党であった自民党関係者お歴々の有罪は免れないであろう。

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このページは、つっさんが2010年3月12日 18:38に書いたブログ記事です。

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