さて、信徒会長にお願いされていた「寮生たちに日頃からみ教えをどう伝えているか」についてであるが、み教えは「こうこうである」、だから「こうすべきである」と教条的に伝えていなかったか。また、文字面の上辺だけを理解しているだけでみ教えを「人を切る道具」にしていなかったか。
私は前々から言ってきた一つに、み教えは自分自身が頂くためのものであり、「教祖様はこう教えているのに、あなたはできていない」とか、「教会の先生がこう仰っているのに、あなたは何も聞いていない」とか、み教えを人を責める道具にしてしまっていないか。ここはよくよく注意しなければならないと思う。
また、現代人の考え方の特徴として、○か×か、正しいか間違いか、 良いか悪いかとすぐに答えを出したがる傾向がある。先に触れた「無痛文明」では、辛抱することが全くできなくなり、すぐに白黒つけなければ落ち着かない人が増えている。そして矛先を他人に向け、責任を他人に押しつけ、自分は関係ないとする傾向がますます強くなっている。
私は価値判断をしなければならない時に、善悪や正邪で判断するのではなくて、それは本当のところはどうか、それは適切であるか不適切であるか、つまり自分として「本物とは」、「本当とは」というところに価値基準を置いて考えてみることがいいのではと勧めている。
そしてみ教えを頂く時も、「心を大切に」といいながら「気持ちや感情」を置き忘れてきたように、信心やみ教えの言葉面だけをみて、善悪、正邪で考えるのではなく、そこにある本当の意味、本物の事柄を見失ってきているのではないかと考えてみる。そうするとそこに神様を忘れているのではないかと。つまり、神心といわれるその御心、神様の気持ち、神様の願いがあってのみ教えであること、その御心をわが心としていく必要性である。(つづく)
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