気仙沼から帰りました。

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 昨日無事気仙沼から帰寮した。11日の朝8時出発。大泉から外環道、東北道で向かう。大泉までが混んだ以外はスムーズに進み、夕方4時頃気仙沼教会に到着。早速に現地スタッフのSさんが、鹿折を経由し、気仙沼港の教会からは反対側の地区を廻り、安波山に案内して下さった。

 一景閣ホテルの南側にあった巨大な瓦礫の山はきれいになくなっており、倒壊した建物のほとんどが解体され空き地になっていたのが半年前からの変化だった。港もサンマの陸揚げが始まり、だいぶ活気が出てきたとのこと。

 12日のボランティアの内容は、4、5人の地元の方と共に作業をした。内容についてはここでは詳しく書けないが、その中のお1人は東京からくるボランティアの人と話をするのが楽しみとのことで、色々と話しかけたくれた。

 また、隣接する仮設住宅から住民の方が話に来たりして、概ねみんな元気そうであった。ただ、仮設で生活しているお一人の若いお母さんは、どうもお子さんがストレスで学校に行けなくなっているようで、一緒に作業していた年輩の女性の方が励ましていた。

 普通でも子育てが大変なところに、厳しい環境の中で将来に不安を抱えながらの生活は本当に大変なことと思う。子どもが周りに迷惑をかけるためにノイローゼ気味になっているお母さんもいるとのこと。

 被災によるトラウマは、時間と共にだんだんに回復してくるものとはほかに、震災後比較的元気にしていた人が、新たな仕事や生活のストレスで燃え尽き症候群やうつ病のような症状が現れてきているとも聞いた。長期的な心のケアの必要性を痛感した。

 16時頃に終了し、そこからまたSさんが陸前高田市から碁石海岸と海岸線をずっと案内して下さった。陸前高田市は、その日に再生のために切断されたあの「奇跡の一本松」がなくなっていた以外は半年前と全く風景が変化していないことに驚いた。

 市役所や公民館、消防署も廃墟のまま。広大な街全体が全く時間が止まったよう。建築制限がかけられ、もう人は住めないとのこと。一体この街はどうなるのか。土地や住居図面のほとんどがコンピューター化されておらず、紙の図面はほとんど流されてしまったそうだ。どう復興していくのか。途方もなく困難なことくらいしか思いつかない。  

 その市内から海岸線を北に向かうと田んぼなどの農地群があるが、海水で米などの農作物が育つかどうかわからないそうだ。その中でもSさんが日頃から気にかけてよく訪れているという年輩の女性のところを案内下さった。

 崩れた岸壁を右に見ながら進んでいくと、田んぼの中に小さなプレハブ小屋が見えた。年老いたご主人と散髪屋を再開したそうだ。この方もご主人以外、家共々子ども家族の全てを失ったそうだ。最近ようやく元気を取り戻し、やる気が出てきたとのこと。

 一度話に行くと1時間以上になるが、そうやって話を聞かせてもらうのが何よりの薬になるそうだ。Sさんは「これもボランティアの一つ」と仰った。地道な活動に心を打たれた。

 13日は8時に教会を出発。海岸線を南下し、南三陸町の防災庁舎を訪れ、三陸自動車道などを経て、仙台から東北道で帰寮した。防災庁舎は相変わらず次々と大型バスが訪れ、さながら観光名所となっている。保存の方向で検討が進められているとのこと。

 あっという間の3日間で、正味1日だけのボランティアであったが、娘は「百聞は一見に如かず、見ると聞くとでは大違い」と驚いていた。現地の方とも1日触れ合うことができ、首都圏ボランティア機構のお蔭でよい経験とならせて頂き、得たものも多かったと思う。感謝。

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このページは、つっさんが2012年9月14日 11:23に書いたブログ記事です。

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