「雪が積もりそう」だけで、大混乱。
一昨日「早朝には東京多摩地区で10センチの積雪」との予報が出た。現在娘が大学のカリキュラムの一環としての実習のため、三鷹市内の保育園に通っている。その関係で寮をいつもより一時間も早く出た。その約30分後に出た私が武蔵小金井駅につく頃に電話がなった。
「ホームに人が一杯で、2、3本待たないと電車に乗れないよ」と。娘はやっとの思いで乗車し三鷹駅を降りたところという。私が駅に着いた頃は一段落ついたようで、またこの時間3本始発があるうちの一本だけが平常通りでるとのことで、その始発にタイミング良く乗ることができ、座ることもできた。
で、今日の朝の情報番組を見ていると、川崎駅や品川駅のホームは想像を絶する混み具合。娘によると武蔵小金井駅も一時そんな感じだったそうだ。JRが積雪の予報が出たので早朝から70%電車を間引いて運行。それがラッシュ時に重なりとんでもないことに。
インタビューを受けているお客さんが怒ってるのは無理もない。ただもし10センチの積雪があった場合はそれこそ運行に支障をきたし、危険があるからこその配慮であり、ただJRを一方的に責め立てるのはいかがなものかとも思った。
そもそも毎日毎日時間通りに運転がなされていることへのお礼、雪や雨を目の敵にしているが、そもそもその恩恵がなければ生きることさえできないと何人の人が思っているかどうか。金光教人はこうした視点を持って生きていくことが大事だなぁと、このご時世につくづく思う。
かつて4代金光様は、何をおいても「お礼を土台」と言い抜いておられた。1983年刊行の『読信』25号に「『中央公論』昭和58年9月号 現代宗教者に問う〈『中央公論』連載〉 金光教教主金光鑑太郎」との対談記事が転載されている。人間の大切なところを非常に和やかに,そして見事にお話しなさっている。以下一部抜粋
島田(インタービュー構成 島田一男氏 精神女子大学・社会心理)
「なるほど、私は宗教というのは、その時代、時代に生きている人間を救っていかなくてはならないと思うのです。現代のような時代、いろいろな新しい問題もあれば新しい悩みも出てきている。その現代人を救うためにどんなことを考えておられますか。」
金光
「現代のことは現代のことという考えでなしに、教祖の生き方は変わらんものです。その生き方が現代を生きる基ですわ。ひとつ例を挙げれば恩を知る。これは教祖流のものの考え方ですが、現代も昔も変わりはしません。時代、時代によって表現はいろいろあったりしますけれど、世話になったものにお礼をいう生き方は、そういうものが土台になくちゃいかん。現代、現代といったって現代は土台じゃないんですわ。何事も同じだけれど、お手本は昔からあるんです。それに創意工夫を加えて手直ししていくことはあるでしょう。しかし現代を土台にして、いろんなことを教えるのはどうでしょう。宗教の生き方は変わらん。大切なものは貫かれていく。人間というものは、自分で〈する〉とか何とかいいますが、〈する〉ということが先にあるんではなしに、世話にならなければ何も〈する〉ことはできん。生まれるときからそうですから。世界中の人で、わしを産んでくれといって生まれてきた人はいない(笑)。つまり天地の恵みの中で命の働きがあって、みな親の子として生まれてきとるんです。しかも人間はみな同じだというが、事実としては全部違うとる。世界、どこを探したって同じ人間はおらんわけだ。つまり自然の中で、命の働きがあって親の子として同じように生まれてきても、一人一人の働きはそれぞれ違う。これが神の御心だと私は思う。これをいうといつも笑われるんだが、私はおむつを洗った赤ちゃんがいるかというんです。その代わり、便所へいくのは自分で稽古する。ということは世話になって、稽古をして一人でできるようになる。できるようになると、おむつの世話をしてもらったことは忘れてしまう(笑)。恩を知るというか、世話になったことに対する感謝、この生き方が現代は失われとるところがある。汽車が遅れたの混んだのとはブツブツいうけども、乗せてもろうて運んでもろうたことはいわん(笑)。順序はみなそうなっている。衣食住、全てが世話になってるのが人間ですから。生活のあり方として、教祖の生き方をいただけば、お風呂へでもお礼をいって出入りする。便所もそうだ。ご飯を食べるときもお礼をいったあとで箸を取る。そういう生き方が人間の基盤になるように稽古を重ねていくところに、道がついていくんじゃないかと、こう思っています。」
「汽車」とか「便所」とか表現に時代を感じるが、仰っていることはまさに現代にこそ必要な心の持ちよう、生き方だと思う。だんだんにおろそかになってる日々を反省しつつ、改めて「お礼が土台」の信心をさせていただきたいと願っている。