東京学生寮11月の月例祭・食事会

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 昨日8日、東京学生寮11月の月例祭を運営委員である田林美千代先生(神明教会)により仕えられ、概要次の教話を賜り、その後食事会がもたれた。

 「私は20年近く信奉者有志のフェアトレードNGOである「ハート・フル・プロジェクト(HTP)」の活動に取り組んでいる。フェアトレードとは公正な貿易のことで、生産者の労働に見合った賃金で商品を購入し販売すること。

 貧困で苦しむタイの農村部の少女たちが、家族のために都市に売られていく状況があり、その中で売春を強要され、アルコールや薬物に依存、殺人まで犯す子もいる。彼女たちは原因が自分にあるのではと自分を責め、自暴自棄になって自分を粗末にしてしまう悪循環に陥っている。

 その子たちが自立できるよう少しでも支援できたらと取り組んでいる内に、彼女たちのような酷い環境ではないけれども、かつて私自身も人によく見られたいと無理にがんばろうとし、結果できなかったことで自分を責め、傷つけていたことがあった。

 お広前で静かに自分に向き合い信心を進めていく中で、教祖様の「国のため、人のため、わが身のためを思い、すべてを粗末にしないよう真の信心をせよ」や4代金光様の「難儀な社会の源は、自分、時間、モノなどを粗末にしていること」とのみ教えを受け、自分自身を粗末にしていたことに気がつき、そこからだんだんに無理のないよう機嫌よう暮らせるようになってきた。

 このように自分を大切にすることによって、人も大切にさせて頂けようになり、周りもまた機嫌よう暮らせるようになる。皆様も是非自分を大切にする生き方を進めて頂き、このハート・フル・プロジェクト、現在スタッフを募集しているので是非ご参加頂きたい」。

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 引き続いて食事会。今回の食事当番は日本人女性三人と入寮したばかりで是非お手伝いしたいと名乗り出て頂いた中国からの女性留学生一人。砂肝と野菜の炒め物、餃子のキムチ鍋と塩麹鍋、麻婆豆腐であった。砂肝の炒め物はピリ辛でこれまた初めてのお味で美味。

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 みんな自己紹介のあと、今月誕生月の韓国からの留学生Cさんをお祝いした。万事のお繰り合わせ感謝。 

東京学生寮 寮祭

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 昨日、2014年度の東京学生寮寮祭が小金井公園と寮集会室において開催された。公園での開催では必ず恒例となる想定外の地元小学生との対戦。前回はフットサルであったが、今回は「ドッチビー」。小学1年生から3年生引率の先生方や親御さんがバテてしまったため、助っ人を依頼され参戦。しかし、圧倒的な若さにあえなく沈没。(*^_^*)

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 班別に分かれてのバトミントン、大縄飛び、ドッチボール、リレー大会で盛り上がった。

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 さてこれも恒例となった寮生Sさんの地元気仙沼のサンマ。今年もわざわざお送り頂いた。感謝。苦節十年の七輪の炭焼きも、弟子たちが二年で早習得。超美味であった。鶏の水炊きも私の女房が嫌いなキンカン、ひもを入れてどうなるかと思いきや、何と大好評。本当はハツもレバーも入れたいところであったが(*^_^*)。

 今年もけがなく、中国、韓国の留学生たちとの交流も深まり感謝。寮長以下、行事係の皆さん準備等お疲れ様でした。

江戸川教会ご大祭 教話奉仕

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 先日、江戸川教会のご大祭で「夢のような生活 奇跡はすでに起きている」との講題で教話を奉仕させて頂いた。

 教話では、被災した住民の方の「地震の前の暮らしは、夢のような生活でした」との言葉に、「当たり前のことが全く当たり前ではない」ということを改めて強く感じ、このことを若者に何とか伝えようとしていることについて、地震3カ月後の気仙沼市南町や鹿折地区、大島、志津川町の防災会館、大川小学校、陸前高田市、釜石市の大型船や防波堤崩壊などの写真や住民宅やホテル一景閣、五右衛門が原仮設住宅でのボランティアなどの写真を見て頂きながら、以下について具体的なお話をさせて頂き、本教信心の要と現代の若者にどうすれば伝わるかについて思うところを聞いて頂いた。

 ・寮生であった気仙沼教会信徒のお嬢さんであるR・Sさんが、地震直後妹さんとメールで連絡がとれたあと家族との連絡が4日間取れなかった時の寮生たちの様子。妹で現在寮生のMちゃんが地震発生時に家におり、メールで連絡がとれたあと津波が襲い、印鑑と通牒をもって高台に逃げて間一髪助かったこと。

・南町住民のAさん宅のボランティアを通してのAさんとの交流。

・大島へ向かう連絡船の中で出会ったおばあちゃんから、家族6人で一日たらいの水一杯で過ごした日が何週間も続き、水のありがたさを思い知ったとのお話を聞かせて頂いたこと。

・寮生のK君が、ご家族を全て失ったおばあちゃん宅で、泥だらけになった位牌と仏像を「神も仏もないので、棄ててくれ」と言われショックを受けたが、その後東京へ帰って早くも風化が始まっているあり方は、神仏の責任ではなくて、何度も経験しながら忘れてしまい、同じ過ちを繰り返す人間の方に責任があり、そのことを神様が嘆かれているのではないかと気付いていったこと。    

 以上の話から、お道の信心の要は「お礼」「お詫び」「お願い」の三つ。

1 当たり前に生きているこの現実は実は当たり前ではなく、神様に生かされて生きているすでに夢のような生活を送っていること。 

2 しかし、その天地の道理を忘れて自分勝手に生きている人間の姿を見て神様は悲しみ嘆かれている。そのご無礼へのお詫びをすること。

3 そして、私たちの生き方の改まりを願うこと。

 改まりとは、人と人とが助け合って生きていってほしいとの神様の願いに応えること。自分事のお願いも大事だが、もう一歩進んで神様の願いに生きる、「人を助けて神にならせていただく信心」を進める。

 ただ、こうしたことは水も食べ物もふんだんにある物の溢れた時代に生きる若者たちにはなかなか理解できず、伝わらない。では、どうすればいいか。持っている物を捨てるわけにはいかないので、「持っているものを持たないかのように生きてみる」。

 小金井市は夜の計画停電があったが、電気を一日使わない、あるいは大島のおばあちゃんのようにたらい一杯の水で暮らしてみる。利き手を使わずに左手一つで暮らしてみても、普段の生活がどれだけありがたいか、それだけでも身にしみる。

 難儀や問題は大なり小なり必ず起きてくる。その問題や難儀はなくなることはないが、普段から持っているものを持たないかのように、その気持ちをもって生きていれば、問題が問題ではなくなってくる。これが一つのおかげだと思う。

 そうすると逆に持っていないと思われるものが持てるようになる。安穏な日常の中で気付かなかったことに気付き、見えないものが見えるようになる。神様のおかげに目覚め、さらに深くおかげを蒙ることができるのではないか。
 
 概要以上のようなお話をさせて頂きました。 

東京学生寮10月の月例祭・食事会

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 昨日11日、金光教東京学生寮集会室において、10月の月例祭・食事会を持ち、私が概要次の通り教話をさせていただいた。

 「現代社会の混乱、混迷は、技術の分野でもあるいは思想的な面でも人間が自分で何でもできると思いこんだところにある。それは物質的価値に重点を置きすぎて、目に見えないものを排除したきたことに原因がある。

 その最大のものが生と死を分断し、死後を完全否定したことにある。死生観、霊魂観について、仏教に代表される日本の伝統的な考え方は現世を否定し、来世を肯定した。生からの逃避である。そして近現代は現世を肯定し、来世を否定した。これは死からの逃避である。

 本教は決定的な現世否定でもなく、また現世のみを肯定するものではない。死生は連続し、死生一如であり、いのちの永遠性を説いている。

 ところが本教も近代合理主義や人権思想の普及によって、教祖の道徳的、倫理的な教えを前面に出して、非合理的な御霊やめぐりといった教えを後退させた。ここに信心の枯渇に繋がった原因があるのではないか。

 もちろん、オカルトティックで、人を脅すような宗教まがいの行為は問題外だ。なかなか難しいところではあるが、人権思想ももちろん大切にしつつ、死生の安心を説く必要があろう。

 教祖様は、『生きているときだけ天地金乃神のお世話になるように思っている者もあるが、死んでもお世話にならなければならない』、『生神金光大神といっても、今までは形があったら暑さ寒さも感じたが、これからは形を去って真の神になるから、一目にすべてを見守ることができる』、『体がなくなれば、願うところに行って人々を助けてやる』、『金光大神は永世生き通しである』と教えられている。人間のものさしだけでなく、目に見えないところを神様のものさしをもって見させていただくことが大切である」

 以上のようなお話を、私の子どもの頃からの実体験である「3つ光」と「3つの音」について、具体的な話を交えて教話した。(残念ながら個人情報の関係でここでは具体的に書けず、ご無礼お詫び)

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 その後食事会。今回は日本人学生2人によるトッピングカレーと料理家を目指しているO君のトマトのサラダとデザートにティラミス。実際に働いているところのレシピでつくったそうで、もう大評判。

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 また、あの有名看護師のF・Sさん手作りの砂肝料理と大根サラダが振る舞われた。これまた美味。最後に今月誕生月のK・T君をお祝いした。感謝。

寮研修旅行、秋のご本部大祭参拝

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 本年の寮研修旅行、ご本部参拝は倉敷からスタート。

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 倉敷美観地区を食欲の秋組、芸術の秋組等に分かれて散策。私は当然芸術の秋組で美大の寮生と大原美術館へ。ただ、現代絵画は全く理解不可能(^^;)。その後集合場所に戻ると倉敷クイズラリーをやっており参加。急遽倉敷駅北口のアウトレットへ。そこで何と倉敷小町がお出迎え。早速におかげを頂く。

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 北ウィンクで運営委員長の福田浩先生を迎えて懇親会。まず委員長から教祖生誕200年のお年柄の意義について聞かせて頂き乾杯。途中、碧海ちゃんご家族を迎え談笑。その後、何ともう一人の運営委員である山下先生がJTBの皆様を伴って合流。続いて大崎教会ご一行も参加。寮恒例の想定外の入り乱れ。

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 昨日12時頃まで飲んでいた中畑さん、一番乗り?ですね。また、秋山君兄妹と合流。みんないい子ですね。

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 今年も中国からの留学生2人、韓国から1人の参加者を得て、無事参拝させていただきました。台風18号の影響も全くなく、万事のご都合お繰り合わせをいただき、誠にありがたいことでした。

東京学生寮9月の月例祭・食事会 終

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 神様のものさしを持つために、逆から考えたり、複眼思考や思い込み、先入観を払うことなど述べてきたが、一つ言い忘れたこととして、あるものをないかのように生きることと、そしてその逆でないものをあるかのように生きることである。

 私は1959(昭和34)年、金光教立教100年生まれ。新人類のはしりだとか、高度経済成長の申し子世代とか大学紛争が終焉を迎え、右傾化の始まり世代とか色々と言われるが、すでに小さい頃から物には不自由しなかった。

 あることが当たり前で、ひもじい思いやさもしい思いもしたことがない。まして今の若者世代の子たちが、当たり前のことが実は当たり前ではないことになかなか気付くのは難しい。だからといってすでにあるものを棄てることはできない。

 そこであるものをないかのように、持っているものを持たないかのように生きる。つまり失って初めてそのありがたみがわかるのだが、失う前に例えばもし電気がなかったらとか、大切な人がいなくなったとかの場合にどうするかということを常に想像していく。

 するとそのありがたみが本当に実感できるはずだ。となるとちまちましたことにあまり拘ることがなくなり、心に余裕ができる。

 そして次に今度はないものをあるかのように、見えないものを見えるかのように生きる。神様や御霊様は目には見えない。

 知人に二、三人、御霊様が見える特殊な能力を持っている人もいるけれども、見えないとしても、存在すると感じて生きていく。

 するとそこにも感謝の心が必ずわき起こってくるはずだ。以上、神様のものさしを持つにはどうすればいいかについて聞いて頂いた。

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 次に食事会。二人のOGも来てくれ、中国からの留学生男女お二人による中華のスペアスペアリブ、卵とトマトの炒め物、辻井主事からマロニー中華サラダと水餃子入りスープが振る舞われた。今回のスペアリブも初めての味で超美味であった。

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 続いて、今月の誕生月のU君とIさんがお祝いされ、何と今年も私たちの9月11日の結婚記念日をお祝い下り、かわいいケーキとドレッシングを頂いた。本当にうれしい限りである。(涙)おわり

寮9月月例祭・食事会 3

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3 使命を生きる。ご神願成就 世界真の平和 全ての1人ひとりの助かりの実現

 先に述べた自分から出発すると私は何のために生きているのか、果たして私の人生に意味があるのかという問いを生む。確かに大事なことではあるが、私という存在はすでに意味が与えられ、その使命に生きることが宿命付けられていると考える。

 ただ、もう一つさらに「人間のものさし」ではかる一般とは違うところは、あなたのため、人のため、会社のためといった何々の「ために」という言葉は使わない方がいいということである。

 何々のためには不遜である。いったん表現してしまえば必ずやそこには恩着せがましさが生じる。人のためといいながら結局は自分のため、自分の利益しか考えていない謙虚さという名の傲慢でしかないのだ。こういう人は皆さんの周りにもいるのでは。

 どなただったが、必要なのは「ために」ではなく、「気遣い」の心と教えて頂いた。自他の心身を気遣うこと。気遣いや心遣いのほかに「思いやり」や「心配り」もそうだと思う。心にただ思うことだけではなくて、「遣い」、「やり」、「配り」があってこそ形になる。その行動こそが私たちに与えられた使命となるのだ。

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 理屈ばかりになったが一つだけ具体例を。自分にだけ「なぜ?」という難儀な出来事でもそこには必ず神様のメッセージがあるということについて、私の息子が高校野球で甲子園を目指してがんばっていたが、1年生の夏と2年生の夏、ノックを受けての守備練習中、何と2回もイレギュラーしたボールが鼻に当たり、骨折手術を受けた。

 手術といっても二本の火鉢のような金属を鼻に入れて、医師が手でぐりぐりしながら矯正していく。もう痛いといったらこんなに痛いことはないほどだったという。それも2回も。 

 ノックしていたのは同じ遊撃手で一つ先輩の福田周平君。ソフトバンクに高校ドラフト1位で入団した子だ。同じショートなのでかなり日頃から練習をつけてくれていた。

 一回目の時は、監督が「1年生の時でよかった。これが2年生なら大変だった」と。その後に控える夏の合宿に参加できないということは、レギュラー捕りがかなり難しいということになるのだ。

 それが2年生でも同じことになり、息子も私も相当落ち込んでしまった。完治には2ヶ月くらいかかり当然合宿には間に合わない。あるときハッと、リトル時代どこかのチームの子が仮面をかぶってやっていたことを思い出したがその仮面はかなり高い。

 どうしようかと悩んでいたときにまたハッと思い浮かび、キャッチャーミットをかぶって練習すればいいのだと。そして合宿に参加した。

 実際にそのように練習したが危なっかしくて監督からNGを出され、それからは黙々と走るばかり。合宿後は監督から「二度も当たれば怖くてもう野球はできないだろう」と言われ、だんだんとレギュラーを外されるようになった。私もきついことを言って息子を泣かせてしまったこともあった。

 それでも淡々と練習を続ける息子。実は後日金光新聞の『信心真話』の原稿に書くために一杯飲みに行って息子を取材し、このときの心境を聞いた。

 この時はかなり落ち込んだが、練習しているうちに吹っ切れたという。これまではレギュラーを外されないようにと汲々として野球をしていたが、これからは楽しもうと。好きな野球ができるだけでも本当にありがたいと思えるようになったという。

 で、実際そういう心境になると野球が楽しくなってきたそうだ。ある神奈川県の強豪校との練習試合でかなりいい守備を連発し、相手チームの保護者の方からもお褒めのお言葉を頂いたほど活躍した。

 そこから一変、全くエラーもしなくなり、一塁への送球もビシッと決まりだした。そこからはだんだんにレギュラーとして試合に臨むようになり、最後の夏も甲子園までは届かなかったが、2番遊撃手の大活躍した。

 そうなのだ。実は鼻の骨折が心を変え、体を変えた。実は肩をかなり痛めており、痛いと一言でも言うとレギュラーを外されるからだましだましやっていた。その肩を鼻の骨折によって休ませることができた。

 二度の骨折でも全く後遺症もなく、また肩の調子もよくなり、さらには野球が怖くなるどころか楽しくて仕方なくなるまで大みかげを蒙ったのである。

 人間のものさしだけを使っていれば、そのまま沈んでいたかもしれない。知らず知らずのうちにお道の信心を聞いていたおかげで、「野球ができるだけでもありがたい」という神様のものさしではかる心境を得ることができた。そしてそこには息子に対する神様からのメッセージが確実にあったのだ。  

 是非皆様も卒寮するまでに「神様のものさし」を持つことができるように、しっかりと信心、勉学にいそしんでほしい。寮の願いは「世界、人類の貢献しうる人材の育成」である。少しでもよりより世界、社会になるようその使命を自覚して日々取り組んで頂きたい。(つづく)

寮9月月例祭・食事会 2

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2 「超越」 物事の程度・基準・範囲などをはるかに超えること
二つ目に何事も「超越」という概念を意識して物事をとらえていくとこと。

①何事もあるがままに受け止める。起こるがままに。ありのままに。物事に無駄ごとはない。
 「何事もあるがままに」と口では簡単に言えるがなかなか難しい。人生自分に都合の悪いことは必ず襲ってくる。例えば病気、災難、試験に落ちること、またこれといって具体的には降りかかってこないとしても、理由なき空虚感、焦燥感、将来への不安は誰しもが抱えている。

 このいわゆる難儀の中に神様からのメッセージが必ずあると考える。そこには自分を成長させてくれる材料があり、それは一つの試練であり、必ず意味がある必然的偶然ととらえていく。

 ただ、大きな難儀が襲い、本当に辛い思いをしている渦中にある時は、そんな余裕はないこともよく理解できる。しかし、だからこそ今どんな境遇にあうとも、どんな人生にも意味があり、あなたが、またあなたを必要としている誰かがおり、祈りがあり、願いがある。それをあなたに発見されるよう待っている。あなたもそのためにできることがある。だからどんなに苦況にあっても投げ出す必要はない。

 前に時間意識について触れたが、宇宙ができて137億年、地球ができて50億年、人類誕生4万年の流れが自分に来ているという意識。先祖代々のいのちを今に頂いて、さらに未来に続いている命を生きている。皆さん1人ひとりが今という歴史一の時間を生きているのだ。

 辛い境遇にあったとしても、時間が経てば「あれもおかげあった、これもおかげであった」という境地に必ず達することができる。ゆえに今の今は色々あるとしても、人生最高の時を生きているという意識である。

 もう一つ今の今ここにいる場所の意識、「空間意識」である。宇宙の中では点にもならない自分の居場所ではある。しかし、逆にいえば宇宙の全勢力・エネルギーが結晶している場所であるともいえる。自分自身が今いる場所が世界一の場であると考えていく。自分自身が行くところに神様が生まれ、神いますところ必ずや幸が生まれるととらえる。
 
 適切な時に適切な場所にいて適切なことをしている。最高の時に最高の場所にいて最高のことをしている。何事も「あること全て美しく、起こること全てよし」としていくことである。

②「逆も真なり」「複眼思考」
 これは一般でもよく言われていることであり、皆さんに何度も話してきているので簡単に触れるが、こう考えることによって、思い込み、固定観念を外すことができる。当たり前と考えていることは決して当たり前ではないととらえていく。自明と思われることでも決して自明ではない。

 気仙沼の仮設住宅で、ある被災者の方が発した「地震の前の暮らしは、夢のような生活でした」との一言は本当にハッとさせられ、一生忘れられない宝の言葉となった。すでに奇跡は起きているのだ。九州日田教会堀尾保治先生の「奇跡の毎日を生き、奇跡の場所におらせて頂いてる」とのお言葉そのものである。

 先に述べた人間のものさしの特徴である二分法や二者択一の排除の論理ではなく、対立する概念を超えていく。例えば「難はみかげ」、「無用の用」、「無知の知」といったように全てを肯定していく思考である。 

③手段と目的を入れ替える。
 これも何度も話してきたが、例えば歩いて学校に行く場合、学校が目的で歩くことが手段である。これをひっくり返して考える。歩くために学校があると。すると歩くことも運動や散歩という目的となり、つまりは手段が消えて全て目的となる。全てが目的となると手段も目的という概念もなくなる。「無的の信心」に通ずる。全てに無駄ごとはなく、全てを受け入れていくということである。

 超越とは、まずは自分の有限性、無力を自覚すること。そして自分を根源から支えてくれている根源的な生命との根源的な出会いをしていくことである。「疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」なのだ。(つづく)

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