第41回沖縄遺骨収集に参加 3

 二日目の午前中、1班の私たち金光教グループは、沖縄県の他の宗教者の皆様と共に、昨年と同様ゴミ収集活動に参加した。その中でS先生は、最前線のゴミが溜まっている壕まで降りていき収集。安全靴など万全の装備をしていないと入れてもらえない。聞きしに勝る量だったそうで、相当疲れ果てた様子であった。

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 約半分になった1班の他の方たちは、昨日に引き続き同じ場所を捜索。だんだんに見つかったようである。そして昼食前に、1班の捜索予定場所の一番奥に入ったところで多くの骨が見つかったとのこと。

 地元沖縄5班の方々の応援を得て、完全一体のご遺骨が収骨された。私たちも昼食後応援に駆けつけたが、ほとんど収骨されていた。御霊様がお喜びになるので触ってやって下さいとのことで、順番に触らせて頂いた。

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 その後、昨日と同じ場所に合流。すると米軍の艦砲であろう不発弾が見つかったとのこと。その異様な雰囲気にのまれてしまった。早速に警察官が来て、この後自衛隊が処理するそうだ。

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 さて、最初に見つかった壕は一人しか入れないところから、土嚢に土をかき集めてもらい、地上に出してふるいにかけて収骨した。午前中から午後にかけて、写真のように白布の上にだんだんに並べられていった。

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 午後4時からは本部テントで、林先生ご祭主のもとに慰霊祭が仕えられ、今年も無事終了した。留学生のTさんも玉串を奉奠した。(つづく)

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第41回 沖縄遺骨収集に参加 2

 朝8時過ぎ、集合場所の糸満市摩文仁の沖縄平和祈念公園内の本部テントに到着。早くも那覇教会のご信徒たちにより準備が始まっている。ご準備、後片付けと毎年ご苦労を頂いている。感謝の言葉しかない。

 そして、だんだんに全国から懐かしい顔が集まってくる。一年ぶりの再会に喜びのあいさつを交わす。午前9時、各班別に集合、整列。今年も100名あまりが参加している。林先生ご挨拶の後、元気のいい嶺井さんのご指導で準備運動。今年も始まるぞとの実感が沸く。

 続いて各班付きの機動隊員と班長で捜索地帯の確認と打ち合わせ。私、1班の班長を拝命して早5年。今年の1班は総勢18名、わがグループと常連のD先生ご夫婦、そして千葉や名古屋からの一般から多くの参加を得た。不肖班長から注意点を申し述べ、写真撮影ののち、1班の捜索場所に歩いて移動した。

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 今年は健児の塔からさらに先に進んで、摩文仁の丘の断崖向こうの裏側から元の位置に回り込むように捜索する。30分ほど歩いて捜索出発地点に到着。平地を探して荷物を置き、若い男性はそこから海方向に下って捜索。女性は平地近くにある壕を捜索することにして始めた。

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 それから15分も経たないうちに名古屋からの一般参加者Oさんが、写真のやや大きな骨を発見。あまりの早い発見に、もしかして馬の骨かもしれないので全機動隊長のベテラン中澤さんにご確認頂いてから判断したいと伝えたが、内心は馬の骨だろうと思っていた。

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 中澤さんに来て頂いて早速に見てもらうと、何と写真のように中澤さんが常に持っている骨の標本図と全く同じ形の肩胛骨であった。ある方向から見た感じで判断してしまい、汗顔の至り。名ばかり班長さを早くも露呈してしまった。

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 程なく大腿骨が突き刺さった状態で発見。また、近くの壕で捜索したこれも千葉から初めて参加の女性陣が背骨など次々と収集された。寮生たちも銃弾や馬の蹄鉄や軍靴などを次々に掘り出し、何度も捜索された場所だと思われたところから次々とご遺骨や遺品が発見され、驚くばかりであった。(つづく)

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第41回沖縄遺骨収集に参加 1

 今年の私たちのグループは韓国からの留学生を含む寮生5人、青年教師1人、青年信奉者1人の8名。 沖縄遺骨収集前日、羽田8時フライトの朝一の飛行機で出発。まずは金光教那覇教会に参拝。東京は大雪なのに、すでに沖縄桜は満開で迎えてくれる。
  
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 毎年遺骨収集と共に、前日と後日の二日間は目一杯平和学習のために施設等を回る。第一日は晴れていれば普天間基地が見える嘉数高地(沖縄戦最初の激戦地)に行く予定であったが、曇っていたので嘉手納基地まで、途中中日ドラゴンズキャンプ地を左に見ながら北上。

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 初めて参加のSさんは、永遠と続く米軍基地の金網やその向こうで遊ぶアメリカ人の子供たちを見て驚いていた。ここまで広大な基地があるとは。これを見ただけでも来た甲斐があったと。

 私は10数回沖縄にきて嘉手納基地も数回来ているが、ここで米軍機を見たのは始めて。基地に着く直前、車の右側車窓に全く音のしない戦闘機が飛んでいった。私は少し興奮気味に「え、無人飛行機、もしかして最新鋭のステルス戦争機」と一人ではしゃいでしまった。写真は米軍の輸送機が飛び立ちところ等。

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 次に対馬丸記念館(http://www.tsushimamaru.or.jp/)を見学。対馬丸は、昭和19(1944)年8月22日、沖縄からの疎開者を乗せて航行中、鹿児島県・悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈められた。このとき、乗船者約1800名のうち学童775名を含む1418名(氏名判明者数)が一瞬のうちに帰らぬ人となった。

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 対馬丸記念館の願いは、「無念にも尊い命を失った学童たちに代わり、21世紀の子どもたちが夢と希望と平和にあふれた世界に“漕ぎ出せる”ようにすること」だ。

 対馬丸記念館のパンフレットに掲載されている「いま『対馬丸』を語ること」には、以下のようにかなり「報復の連鎖」という言葉を意識している。最初なぜかと疑問であったが、展示をしっかりと読ませて頂くと理解できた。

いま「対馬丸」を語ること
(前略)
人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと 憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒されるでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が 子どもたちから新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された 私たちへの「課題」ではないでしょうか。(2004年8月22日 財団法人対馬丸記念館)

 実は、この対馬丸を沈めた米潜水艦ボーフィン号は、ハワイ真珠湾のアリゾナ記念館に隣接する潜水艦博物館に「真珠湾攻撃の復讐者」としてその本物が展示されているのだ。愚かにもまだゾロ戦争へと舵を切っているかにみえる今日、肝に銘ずべき内容だと思う。

記念館見学後、裏山にある慰霊碑に参拝。そこにはいろんな慰霊碑や祈念碑が建ち並んでいる。
(つづく)

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第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 終

 

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 さて、次に恒例のひめゆりの塔。これは映画『ひめゆりの塔』をみんなで鑑賞してきているのではずせない。写真は沖縄陸軍病院第三外科壕跡。

 

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 ひめゆり資料館は内容が濃いのでみんななかなか出てこない。何度訪れてもその悲惨な実際に言葉もない。

 

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 次に、今年は今までまだいったことのない糸数壕、沖縄では『糸数アブチラガマ』と呼ばれている自然壕にいくことにした。そこで南城市南部観光総合センターに電話を入れると会議中なので12時頃来てほしいとのこと。1時間ほど時間の余裕があったので、「白梅の塔」にいくことにした。ここも初めて訪れる。

 

 

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 白梅学徒隊とは、沖縄戦、従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖縄県立第二高等女学校の四年生たちによって編成された部隊の名前。46名中、22名が戦死した。

 

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 ちょうどその時、明日から遺骨収集をするという大学生の団体が、白梅学徒隊の生き残りの方のお話を聞いており、私たちも聞かせてもらう。糸数壕のガイドさんをお願いしていたので、残念ながら途中退席したが、若い方たちがこうして体験談を聞くのは本当にありがたいことだと思う。

 

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 糸数壕では残念ながら写真の撮影は禁止だったので、前に紹介した『沖縄慰霊巡拝』や一般のホームページを参考にして頂きたい。写真は受付をしているところ。5年前から戦跡ガイドのグループが立ち上がったとのこと。

 

 

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 アブチラガマは、沖縄本島南部の玉城村糸数にある自然洞穴で、全長は270メートルに及ぶ。はじめは、日本軍(独立混成第44旅団歩兵第15連)がガマの中に通路や小屋、ポンプ井戸をつくるなど陣地壕として整備した。

 その後、沖縄陸軍病院の分室が開設され、ひめゆり学徒隊16名を含む病院スタッフが入り、連日運ばれてくる傷病兵の治療・看護をしたそうだ。

 広いといっても電気も何もない洞窟。この世の地獄と思う。しかし、ガイドさんの話にはさらに衝撃を受けた。まだ軍人やひめゆり学徒隊など壕の中に避難できる人間は恵まれている。

 ここに入れてもらうことすらできない地元の人間が米軍の攻撃になすすべもなく逃げ回り、殺された人々も数多くいたとのこと。言われてみれば確かにそうである。初めて聞く話に絶句。

 

 

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 次に初日曇り空でいくことを断念していた嘉数高台公園を二年ぶりに訪れた。ここの展望台から「普天間基地」を一望できる。あのオスプレイも羽を休めていた。みんな建物の近さに驚く。

 

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 この嘉数高台は米軍が上陸し始めた日本軍が迎え撃った激戦の場所である。この高地は、第二時大戦中に作戦名称第七〇高地と命名され、第六十二師団独立混成旅団の約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成されていた。自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため十六日間も一進一退の激戦が続いたという。

 

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 そのため、『嘉数の塔』という慰霊碑が建立されている。その近くに破壊されたトーチカがそのまま残っている。

 

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 京都出身の方が多かったのであろう、京都の塔がここに建立されている。

 

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 最後にみんなで再び那覇教会に御礼の参拝。今年もあっという間の4日間であったが、万事にご都合お繰り合わせを頂いた。それぞれの胸の中に何かしらの期する思いを抱きつつ、林先生がいつも仰る「沖縄が助かる」ことに少しでもお役に立たせたことの喜びを感じつつ帰路についた。

誠にありがとうございました。(おわり)

 

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第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 8

 第3日の夜は、恒例の林先生のご子息がお店を出している「ヘルシーダイニング キュアハート」で懇親会。これも恒例の那覇教会宴会部長の軽妙な司会で進められ、多くの人から参加の喜びが語られ、わがグループの若手も全員感想を述べた。

 終盤には歌あり、カチャーシーあり、四国のベテラン先生の阿波踊りもあり、涙と感動の中に来年の再会を誓い合った。残念ながらカメラを忘れてしまった。

 その後国際通りに繰り出し、皆さん思い思いに買い物。那覇の夜を満喫した。

 さて、私たちにとっての最終日。那覇フライトは夜8時なので時間はたっぷりある。まずは「冨盛の大獅子」に寄った。下の写真のように沖縄戦終盤米海兵隊がいよいよ最南端の摩文仁に追い込んで来て、前方を双眼鏡で視察している。

 

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 現在が下の写真。「弾痕もそのまま残っているでしょう」と写真を見せながら解説。

 

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 海兵隊が見ている方向が下の写真と説明。もう数キロで最南端の海だ。

 

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 私たちのグループの皆さん。(つづく)

 

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第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 7

 このゴミ収集活動に参加していた沖縄市民の老夫婦の方と休憩の時に少し会話をした。ご主人がちょうどこの摩文仁に逃げてこられ、激戦を経験されたとのこと。地元の言葉で淡々とお話しされるが、その時を想像するとどれだけ恐かったことかと思う。

 当時小学生で逃げ回り、最後は父親と2人となった。その時に父親が自死しようとして手榴弾を使おうとしたが不良品で不発、それで現在までいのちを頂いたと。その場所からきれいな海が見えるが、真っ黒な米軍の艦船で見える範囲は船だらけだったそうだ。

 艦砲射撃は激しく、現在残っている写真のように全くのはげ山状態になったとのこと。休憩時間は短く、またお話の内容に圧倒されて聞き入るばかりであった。今になって思えばもっといろいろと聞いておけばよかったと思う。

 ゴミの収集作業は正午に終了。各々解散となった。私たちは元の「風部隊慰霊塔」前で昼食をとった。その前をブルーヘルメットの天理教隊が後片付けのために黙々と道具を運んでいる。今度私たちは参加できるかどうかわからないが、摩文仁の霊場が一日も早く浄められるよう願っている。

 午後からは一緒に昼食をとった大ベテランの濱出さんが、この階段の反対側を一度10年前くらいに捜索し、10メートルもいかないところで完全一体のご遺骨を発見されたそうだ。お参りや観光客の方が通る階段からあまりの近さに驚いたそうだが、案外そうしたところにある可能性も大きいという。

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 そこで、風部隊慰霊碑とは反対側の今やジャングル化している山林に分け入った。しかし、木々が生い茂り、数メートル進むにも草木を伐採しながらの作業となる。午後一杯ここ周辺一帯をくまなく見て回ったが、やはりここにはおられないようであった。

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 本部テントで午後4時から林先生ご祭主のもとに慰霊祭が厳粛に執り行われ、第40回の沖縄遺骨収集奉仕を終えた。第5班の方々が完全一体と、それぞれの班が部分遺骨を収集された。「摩文仁」のことを調べようとして偶然見つけた『沖縄慰霊巡拝』というホームページにその写真が掲載されている。

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 最近、林先生がよく言われることに、「以前はご遺骨に出会わなければみな気分が落ち込んで、下を向いて疲れた様子で戻ってきていた。しかし、このことが近年変わってきた。見つからなくてもみんな元気で帰って来る。これは、ご遺骨に出会う、出会わないにかかわらず、御霊様の安心を祈り、お土地が清められていくこと、すなわち天地の復興を祈りながら歩かせて頂く、という思いであろうと思う」と。

 発見されることはありがたいことである。また発見されずとも、それは残されたご遺骨がだんだんに少なくなってきている証左であり、これもまた一番ありがたいことなのだ。何よりもありがたいことと大切なことは、この体験を通して御霊様と出会い、御霊様の声を聞くことができる、少なくともここで実際にあった出来事、筆舌尽くしがたい悲惨な現実があったことを体感できること。そしてそれをまわりの人や後世に伝えていくこと。

 戦争を体験せずとも戦争は語ることはできるのだ。歴史に教訓を得るために歴史に学ぶことは、ただの文字面の学習だけではない。その実際に起きた現実の場所に身を置き、呼吸する。できるだけ当事者として近づく。そこでは今の現実とのギャップに苦しむであろうし、悩むであろう。その呻吟せざるを得ないところに身をおくことがこの沖縄遺骨収集奉仕への参加の意義だと思う。だからこその最終日の戦跡巡りもある。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 6

 沖縄2日目の夕食は、恒例の牧志公設市場の2階にあるツバメ食堂。中華系沖縄人の料理で実に美味。ここは30数年沖縄遺骨収集に来ている大ベテランのお墨付き。連れてくる人連れてくる人感動する味なのだ。いつもホテルに一回戻って行くためにカメラを忘れる。

 1年に1回しか行かないが、店を切り盛りしているママさんとも顔見知りになり、上機嫌で迎えてくれる。大人気の店なので予約していても空いてないことが。今回も少し待ったが、これでいろいろとサービスしてくれるからまたありがたい。大阪組もいつも来ていると話をしていたら、いつの間にかとなりの席で食べており、ご挨拶する。

 さて、作業日第2日、朝今度は別のコンビニを探しながら摩文仁に向かう。ちょうどコンビニのトラックが停車しているのを発見し、恐らく今弁当を搬入したのではと思い、そこに立ち寄る。案の定多くの商品が積まれていた。いろいろ悩んだ末、結局昨日と同じ冷やし中華に目が行く。よく見ると沖縄限定と書いてあった。だからか、何か違うと感じたのも正解だったのだ。美味しいチャーシューもタレも沖縄特有のものだそう。2日連続同じものを購入した。

 2日目の作業は、午前中は沖縄県の宗教関係者や民間ボランティア、糸満市の職員等100人が参加したゴミの撤去作業に従事した。これは数十年前に私たち沖縄遺骨収集団が発見し、金光新聞の1面にも出たことがあるが、自分たちだけで手作業でゴミを片付け始めたのがはじめだ。

 そのゴミの下からご遺骨が発見された。何とも言いようがなかった。悪臭を放つグチャグチャのゴミの下にご遺骨が眠っていた、いや眠ることなどできないような状態の中に放置されていた。あまりの酷さに強い憤りを覚えた。悲しすぎるのである。

 そこから林先生の呼びかけで、まずは沖縄の宗教者の皆さまが立ち上がり、市民が動き、市も動き、6年前から開催されてきている。今年はどうしても本教の沖縄遺骨収集日と重なるということで前もって募集があり、私たち8人は予め参加すると伝えてあった。

 当日朝、他の一般参加の方もゴミ収集に参加くださり、また、機動班のKさんは自分ひとりだけ参加するものと思い込んでいたようで、「1班全員参加します」と言うと、目を丸くして驚かれ、喜ばれた。

 昨年9月にご縁を頂いて、林先生に寮で遺骨収集とこのゴミ問題についてDVDを見ながらお話をいただいており、寮生たちもその意をくみ取り積極的に参加してくれた。遺骨収集団全体では20数名がゴミ収集作業にあたった。

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 作業の中心になっているのはブルーヘルメットの天理教さん。前の日から色んな道具を作業現場まで運んでいる。ゴミ現場の断崖の下から各種慰霊塔につながる石階段まで上げる重機も手作業で運んでいる。

 

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 投棄場所は、生い茂った草木をかき分けて足場の悪い斜面6~7メートル下りた崖下。大量の空き瓶や空き缶のほかに腐食したビニールや弁当箱で埋め尽くされている。想像を絶する量だ。そこから引き上げる一本の重機以外は手作業で回収する。

 引き上げたゴミはある程度種類別にわけ、ゴミ収集車が待つ駐車場まで約200メートルの石階段の坂道に老若男女のボランティアが列を作り、バケツリレー。80歳を越えたご老人や子どもも一生懸命。さすが沖縄のご老人は本当に元気だ。

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 半日の作業で何と3トンのゴミを回収。しかし、6年前から作業している方によるとまだまだ何年、何十年もかかる量があるとのこと。是非とも県に動いてほしいと申請しているが山林は市の管轄と動いてくれないらしい。

 

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 摩文仁(まぶに)は、霊域であり平和の象徴の場である。林先生はいつも「摩文仁の語源はマブイで魂の意味がある」と仰います。その魂がゴミに覆われ穢されているのです。「これを放っておいて基地問題も何も解決しない、沖縄の真の助かりがない」と仰います。その通りだと思います。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 5

 1班の持ち場に戻ったが、すでにみんなは昼食をすませ、山の中に入っている。コンビニで買った冷やし中華と明太子のおにぎりをいただく。外見は普通の冷やし中華だが、のっているチャーシューやタレがいつもと違い美味しい。その時は早く食べなければとあせっていたので、そのまま忘れてしまったが、そのことについてはまた後ほど。

 

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 みんなを捜しに山の中に分けはいる。女性二人はわりかし近い場所で一生懸命作業をしている。だんだん奥に入ったところに数人、断崖の向こう側に出てほぼ1班のメンバーを確認したつもりでいた。ひとり一般からの参加者のSさんはいなかったが、この方は中澤さんらと共にもう数日前から入っているとのことで心配はない。

 そのまま作業を続けてた。4時に集合をかけているので、3時30分頃元の場所に戻ろうとする。そこに土居智先生が来て、2時頃田中信道先生から「海が見える崖の上に出た」とのメールが入っているという。

 

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 そこで初めて田中先生だけを確認していないことに気がついた。メールの内容からすれば迷っているとも思われないので、そのまま集合場所まで戻り、押っつけ帰ってくるだろうと待っていた。

 ところが3時45分になっても帰って来ない。ここで土居君にもう一度山に入ってもらい集合をかける。だんだんにみんな戻ってくるが田中先生の姿はない。この時点で遭難したことに気がつき、男性陣をグループに分け捜索に出た。

 程なく大きな声で「帰ってきた」と聞こえた気がした。あわてて引き返すが、道なき道を行っているのですぐには戻れない。なかなか前に進めずもどかしい。何度もこけそうになる。自分がケガをしてしまったらこれまた大迷惑をかけてしまう。

 

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 ようやっと戻ってきたら、興奮した田中信道先生が帰っていた。ひとまずは安心。完全に迷っていたそうで、「冷静に冷静」と言い聞かせて彷徨っていたらしい。1班から5班まで相当広い面積のところを捜索しているのだが、1班からは一番遠い5班がいたところに出たらしい。それはもう何時間も彷徨うのは無理もない。

 

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 数年前にN先生が崖から落ちて鎖骨を折る事故があった。海側断崖の下にでも落ちていたらどうしようと気が気でなかった。奥様の顔まで浮かんできた。最悪はケガをして動けなくなってしまうこと。そうでなかったので本当に安堵した。(つづく)

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