第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 4 大腿骨発見 2011年2月

 昼食後、寮から参加した吉永君が「自然壕はどこにありますか?」と尋ねてきた。「この辺りは探せばなんぼでもあるので、それぞれの正確な位置はわからない」と答えた。「じゃあ、三人で探しに行っていいですか」と言うので、「あまり遠くに行かないように。危ないところには入らないように」と念を押して、行ってもらった。
                          
 私は、黒アゲハ蝶が飛んでいたところを重点的に探したが見つからない。海岸線ぎりぎりのところを飛んでいたので難しいかなと思っていた。海岸から山に向かって這い上がっていくとまた黒アゲハ蝶が現れ、今度は右方向上部へと飛んでいった。その方向へ海側から行くのは危ないので、一旦ジャングルに入って進み、しばらく捜索した。

 予定していた休憩時間となったため、休憩場所に一旦戻った。何人かが休憩に戻ってきたところに、寮生三人も戻ってきた。どうも雰囲気が違う。吉永君が近づいてきて「寮監、出ました」という。そういえば右手に白布を持っている。

 開けると大きな大腿骨2本(写真)が出てきた。思わず「え、壕の中?」と聞いた。「ここから少し左に行ったところの岩の下にありました」と。私はその方向を見てびっくり仰天。先ほどの黒アゲハ蝶が飛んでいった方向なのだ。

__ (3)11111.jpg 私はこれまで7回参加したうち、黒アゲハ蝶が現れた4回のうち4回ともその飛んだ方向にご遺骨が収集された。4発4中である。休憩場所から海側を行くと、もう10メートルもない距離である。初参加のY君が本当によく見つけたと思う。大岩が割れ崩れ、その岩石の下にあったようだ。

 ご遺体が上から落ち込み、ご遺骨がバラバラになっている可能性がある。手の届く範囲で小石を取り除き、1日目の作業終了時間まで探したが、小さな骨片は少し出てくるものの、頭骨は見つからなかった。機動班の橋本さんとも相談し、明日の作業としてロープで大石をつり上げて捜索することにした。最後にご遺骨の前で「祖先賛詞」奉唱、御祈念をさせていただいて一日目を終えた。(つづく) 

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 3 黒アゲハ蝶出現 2011年2月

 沖縄平和祈念公園を横切り、平和祈念資料館を右手に見ながら畑地をさらに西に進む。いつも駐車場やおトイレを借りる霊園に到着。ここまで約徒歩30分。ここから先はトイレがなく、休憩。

 ここから各班一人ずつ断崖下へと降りていく。あいにく天気は小雨で地面はやや濡れている。ロープを張ってはいただいているが、急坂。ここから5班全員が降りるので渋滞する。各班一列に並び、順番を待つ。


P2130012.JPGのサムネール画像
P2200398.jpg 写真1は祈念公園一番奥から具志頭方面。実際の作業場は写真2からさらに西に進んだところ。

 急坂を下りてやや平地の道があるところで一服。ここから海岸まで石階段がついている。この下にあった水源へ降りるためだったらしい。水道を引っ張っていたと思われるすでに使用していないさびたパイプ管が残っている。石階段は自殺者が利用するということで戦後に途中まで壊されたそうだ。

 その階段下まで降りて海岸の岩盤上を少し歩いて行くと、小さい人工の堤防がある。そこで一番手前の2班が一番西に、その後わが班、続いて4班と団子状態になったので一時休憩。その後、2班を追い越して私たちの持ち場へと進む。

__ (5).JPG 写真は途中雨が少しきつくなったので、艦砲射撃で開いた穴に避難したところ。ここは雨に濡れないので、荷物を集め、休憩場所とした。作業を開始したが、ジャングルの中はお天気の影響で暗い。移動しながらのご遺骨探しは困難を極めた。

 私は途中身体が冷えたので、一人休憩場所に戻り、衣服を一旦脱いでいるとそこに札幌から参加のKさんが戻ってきた。するとそこから数メートル下の海岸側に例の黒アゲハが今年も飛んできたのだ。

 私は思わずKさんに、日本では蛍であるが、沖縄では黒アゲハに御霊が宿りこの世に戻ってくるといわれている。沖縄遺骨収集では何人もの方が黒アゲハが飛んだ周辺からご遺骨を発見していると話した。しかし、ご遺骨発見がなかなか困難になってきた今日、正直内心今回はどうかなと思っていた。(つづく)  

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 2 冨盛の大獅子 2011年2月

 19日当日、6時起床。糸満市摩文仁の沖縄平和祈念公園に8時50分集合ではあるが、初日はテント張り等の準備作業があるため早めに出ることとし、7時前には那覇市前島のホテルを出発。いつものファミリーマートで朝食とお昼のお弁当を購入した。
なぜ、いつものファミリーマートかというと、ある年のこと、現地近くのコンビニに入ると、わが金光教一団が大挙して来店したため、何もなかったことがあるからである。それからまた、那覇市内のコンビニの方が品揃えもよく、私のお目当ての「ゴーヤー弁当」が売っているから。ここのところ毎年これである。美味。

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 さて、それにしてもあまりにも早く着きそうになったので、途中例の富盛の大獅子に立ち寄った。写真は沖縄戦当時の米兵。もうここの高台からは海が見え、数キロ先が摩文仁である。いよいよ日本軍を追い詰めた米軍が双眼鏡で偵察している。その写真に残っている弾痕が大獅子にいまだにきれいに残っている。

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 今回参加の私たち一行。まだ目が覚めてない。周りは木々に覆われ、完全に普通の山として復活しているが、戦争中は完全に焼け野原になっている。穏やかな田園地帯が地獄と化す。なかなか現在では想像しがたい。

 その後現場に到着。早速にテント張りを手伝い、本部を設営。受付をし、名簿を見ると参加者がなんと100人。最終的には106名ほどになるという。昨年より20人アップだ。常連組ももちろんいるが、教内教外問わず初参加者の方も多い。班構成はだいたい北の出身者から1班、2班と編制され、地元が5班で、ご年配がお清め本部班となる。それに中心的役割を担ってくれているベテランが機動班として各班に付いている。

 不肖私は、昨年から第1班班長を仰せつかり、名簿の一番。今年も1班の班長だ。テント下に班員を集め、1班から本部班までが全員が並ぶ。那覇教会長先唱のもと、御祈念が仕えられ、ご挨拶、注意事項と進む。その後いつも元気な5班班長看護師の嶺井さんが先導して身体をほぐし、体操する。いよいよ作業開始だ。

 その後班長が中央に集められ、作業場所の指示を受ける。私もこの時点で初めてその場所を知ることになる。わが一班は昨年入ったところよりさらに西、具志頭の断崖絶壁の下に入り込むようだ。一番西側が5班、真ん中が1班、手前が2班という同じ断崖を三班が手分けして作業をするよう支持された。

 その後班に帰り、班員を集め、簡単な自己紹介と注意事項を私と機動班の橋本さんが説明する。今年の第1班総勢16名。うち一班からの参加者が6名。初参加者が7名。約半分弱。1班は伝統的に初参加者が多い。

 そのうち一般からの参加で70歳の男性の方は、ネットで知り自ら参加されたとのこと。また63歳の女性はなんと北海道からで、いつも参加されたいる札幌南教会のご信徒Gさんに勧められて参加したとのこと。いつもながらその参加に驚くとともに、本当にありがたく思わせていただいている。

 そのようなことで、なかなか責任重大な立場にあり、昨年からこの時点での緊張がそれまでとは全然違う。これは後で指摘されたが、本来ならもう少ししっかりとお互いに自己紹介すべきであったところを、やはり新米班長は余裕がなく、作業現場へと向かった。(つづく)

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 1 那覇教会に参拝 2011年2月

 18日金曜日、午後2時30分羽田発。何と息子と寮生二人は16日、17日と白馬にスノボーに行ってきた。まだ沖縄最後の県知事「島田叡」のNHK特集番組を見ていない。そこで何と、17日の夜に帰ってきてから結局18日出発当日の午前2時頃に見たとのこと。さすがに若い。

 午前11時30分頃寮出発、私は浜松からモノレールのつもりが、新宿から品川、京浜急行の方が安いという。新宿駅到着直前に「で、京浜急行はいくら?」と聞くと、「870円」、「げ、200円近く安い」、あわてて降りて山手線へ。13時30分の他の方たちの待ち合わせ場所に到着。みんなももう来ていた。

 早速に発券。昨年までは団体旅行のカウンターで座席チケットをもらっていたが、今回はA4コピー用紙に印刷されたバーコードを自動発券機にかざすだけ。ますます便利になっている。ツアー予約でなければカード一枚で全てパスとのこと。まるでSuica感覚だ。

 飛行機はJAL。一昔前なら高級感に浸れるところだが、今はJALは格下のイメージ。変われば変わるものである。予定通りに14時30分に出発し5時頃那覇空港に到着した。すぐ那覇教会へ参拝の予定だったが、福田先生の高校生の同級生が那覇に単身赴任しており、その待ち合わせがホテルで7時とのことで、まずはホテルピースランド那覇に向かった。

 レンタカーの借り受け事務所が、空港から少し離れており、手続きなどを含めて1時間ほどどうしてもかかってしまう。レンタカーの手続きもこちらも慣れてきたのもあるが、ここ数年かなり簡略化されてきた。どんどん便利にはなっている。

 とりあえず、ホテルにチェックインして8時頃那覇教会へ。那覇市内の信号は、支線から本線に出る信号の長いこと、長いこと。結構夜も回ってきたので少し焦る。10分程度で行けるはずが30分くらいかけて到着。ご夫婦の方がお取次を願っており、参拝時間が毎年違うのに不思議と教会で出会っている。

 御祈念、お届けをさせていただき、明日からの御用成就を願って外に出ると、三重グループの一人、H先生と出会う。この一年ぶりの出会いがまた楽しい。教会では毎年、毎年、前日は準備と応対で大変なことであると思わせて頂く。

 1日目は私はホテルの下のレストランで食事をと考えてきたがコンビニで済まそうということになった。しかし、若手三人組はコンビニ弁当を平らげると、今回別行動をしているもう一人の女性寮生が泊まっているホテルが近いとわかり、ホテルまで迎えにいって夜の国際通りに繰り出していった。何とも元気いっぱいである。日本テレビの女子アナたちと出会ったらしい。プロ野球キャンプも花盛りである。(つづく)

沖縄遺骨収集の写真

娘の通う高校の修学旅行は沖縄だそうだ。そのために第1学年の終わりの昨日24日に、映画「ひめゆりの塔」を鑑賞したとのこと。娘は以前小学2年か3年生の時に、寮生だった那覇教会のお嬢さんの結婚式で沖縄に行ったことがある。行く前にこの映画を見せたので娘は2回目となる。

 当時、映画のあるシーンを見てかなりの衝撃を受けていた。壕の中に設けられた南風原(はえばる)陸軍病院でのこと。ひめゆり学徒の方が一生懸命看病している中で、気が狂いそうになった傷病兵が自分のオシッコを飲んでしまうシーンである。

 娘はこれをはっきりと覚えていて、あまり見たくないと言っていた。私は娘に「ちょっと前にこのような悲惨な現実があったことを知るために、みんなで映画を見ることはよいことだ。この事実を忘れてしまっては、また同じ過ちが繰り返されるよ。そうならないために、見たくはないだろうけれど見ることも大切なんだ」と言った。

 昨日帰ってきて、みんな相当ショックを受けていたと話してくれた。嬉しいことに、1月ほど前に担任の先生に私が毎年金光教の沖縄遺骨収集に行っており、兄も参加したことがあると話したそうだ。世界史の先生で「写真をぜひ見たい」と非常に興味を持ってくれた。

 娘に写真を持っていってもらって、私の説明通りに先生に説明したようだ。先生が「陸地からは戦車、海からは艦砲射撃で多くの人が追い詰められて亡くなった」とお父さんと同じことを言っていたと話してくれた。授業で使ってくれるそうである。有り難いことである。

 過去から学ぶことによって、初めて未来に向けて正しい道を歩むことができる。過去の事実に目をふさげば、同じ過ちを繰り返すだろう。戦争を知らない世代だからこそ、戦争とはどういうものかを想像し、その本質を知る必要があると思う。

沖縄戦の「集団自決」、軍関与を修正

 千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館がオープンした。この展示室は「戦争と平和」「戦後の生活革命」をテーマに、1930~1970年代の生活用品や出版物などを展示。日本軍の兵舎や戦後の闇市を再現した模型もある。

 しかし、沖縄戦の集団自決について、沖縄の元守備隊長らが作家の大江健三郎さんらを訴えた「沖縄ノート」訴訟が継続していることなどを理由に、当館の展示内容を検討するために設けられた委員会の複数の委員から「慎重を期すべきでは」と指摘が出され、後掲のように展示パネルの文案が修正された。

 日本女子大学の成田龍一教授は、「集団自決への軍関与は、研究者の間で定着している歴史的事実。司法判断や政府見解を参考にすることはおかしい。展示はあくまで研究水準を投影すべきだと」と指摘している。

 私もそう思う。国家や政府はこのたびの外務省密約文書破棄問題でも明らかなように、自分たちの都合の悪い情報は改竄、隠蔽、破棄するのが習いである。生死にかかわる重要な情報を知っている者が生き残り、情報から一番遠い者は、騙され、欺かれ犠牲となる。

 過去の過ちを直視しなければ、必ずや未来に同じ間違いを起こす。そのための学問ではないか。自国民、日本民族を悪くいうのは辛いことである。しかし、だからこそ事実は事実として認め、未来の人々に真実を伝える責任があるのではないかと強く思う。

【修正前】 
「集団自決」 米軍からの投降の呼びかけを前に、集団自決をはかった人々が数多くいた。その背景には、住民への軍国主義教育や軍人からの指示や命令など、住民の意思決定を左右する戦時下のさまざまな要因があった。

【修正後】
「戦場の民間人」 激しい戦闘で多くの人びとが生命を落としたほか、犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく、「集団自決」自決に追い込まれた人びともいた。

「密約」公表に思う

 この一週間も世の中、様々な重大事が起きている。悩んだり、憤ったり、悲しい出来事も多い。その中でも「核密約」問題。ようやくその存在が公表された。といっても、もうほとんどの人はその存在を知っていた。

 それにもかかわらず、密約を国民に隠し続けたお歴々のコメントの内容のなさに腹が立つやら、情けないやら、このことがどれだけ重要なことと理解できているのか。ほとんどわからないのであろう。

 「現在から当時を批判するのはコク」だとか、「やむおえない政治判断だった」とか「自分は知らなかった」とか、言い訳でしかない。今更「国民のため」とは片腹痛い。本当に正しい政治判断なら、少なくともアメリカで公表された時に密約を認め、その信念について説くべきであった。

 自国政府の事を他国によって知らされるいう何と情けないことか。まさか政権交代が起きて、密約が白日の下にさらされることはないと信じていたのであろう。日本はまだまだ民主主義にほど遠い国なのだ。

 詰まるところ、「国家のために国民があるのか」、「国民のために国家があるのか」、まだまだ前者の考えを持つものが多い。結局は、国家に国民が、強者に弱者が、多数に少数が犠牲となり、結果「やむをえなかった」、「仕方なかった」の一言で葬り去られる。

 民主主義は、それをできるだけ少なくする制度ではないか。その一番大事な要素が情報公開だ。第1次世界大戦の戦後処理をめぐるウィルソン米大統領の14か条の平和原則の第1条は「公開外交」の提唱だった。
 
 21世紀の今日、過去の教訓から生み出された取り決めを、みなが守れば戦争など起こるはずがないのだ。それを守らないから起こる。そこで責任ある為政者に守らせるために、実効的な制裁のある審判にどんどんかけなければならない。少なくとも政権政党であった自民党関係者お歴々の有罪は免れないであろう。

第37回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2010年2月

 その後、その周辺を伐採、捜索したが、出てきたあごの骨や大腿骨はどうも馬か山羊か動物の骨であった。そしてあっという間に時間が過ぎ、最後に御祈念をさせてもらう。一般の那覇市の方で昨年から参加されている女性が、白布、お線香、お水を持参されている。

 お骨を乗せた白布にお水と4班の班長さんは御神酒をお供えし、全員で「祖先賛詞」と「天地書附」を奉体して御祈念をさせて頂いた。私は御祈念の時に、「お腹が空いただろう」、「心細かったろう」、「寂しかったろう」、「辛かったろう」、「臭かったろう」、「痛かったろう」とその方に思いをはせ、お慰め申し上げ、そしていまだに相争っている人間の愚かさを心からお詫び申し上げ、御霊様の立ち行きを神様に祈らせて頂いている。

 御祈念の後、4時からの慰霊祭に間に合うように撤収した。テント前では本部のスタッフの方がお茶とおしぼりを用意してくださっており、サーターアンダギーと今年は沖縄みかん「タンカン」を頂く。ほっと一息、ありがたいかぎり。私は地べたへとへたり込んでいた。

 すると、本部テント後方のところで関口さんが『あいよかけよ』誌の取材のためにアメリカからの参加者ロンさんに取材をしている。ロンさんは今回、赤ちゃんの頭骨などを収集された。関口さんにその頭骨を見せるためか、才田さんがすでに本部テント内に設けられた祭壇にお供えしてあったその赤ちゃんの頭骨が入った白布を押し頂いて持ち、私にも来るようにと目で合図してきた。 

 あわてて飛び起き、関口さんとロンさんのところに行く。すでに3、4人が取り巻いている。才田さんが恭しく白布をはずすと、本当に小さな赤ちゃんの頭と思われる頭骨が現れる。その瞬間、なんと黒アゲハチョウが赤ちゃんの頭骨の上を私の右手から左手にさっと飛んでいった。私はもう本当に驚いた。この赤ちゃんの御霊か、母親の御霊ではないか。

 私は「今飛んできたよね」と確認するために後ろを振り返ると、土居先生も目を丸くして「確かに飛んでいった」と頷いている。もし、黒アゲハチョウがしょっちゅうそこら辺を飛んでいればまあそんなものかと思うが、今日見たアゲハチョウは午前中に見たのと2匹のみ。それもさっと現れて、もう二度と現れない。その異様な雰囲気に遺骨収集で来ていた他の団体の方も集まってきて、赤ちゃんの頭骨を見て驚きの声をあげている。

 この黒アゲハチョウの出現は、私たちに何かを語りかけているとしか思えないのだ。「こんな悲惨な出来事はもう私たちで終わりにしてほしい。なぜ相変わらず相争っているのか」と。私は沖縄戦の実相にふれるたびに、残忍で汚辱にまみれたなまなましい地獄体験を前にして、いかなる戦争をも肯定できるものではないと強く思わされるのである。

 神様の子ども同士が、相争い、殺し合う。神様がもっとも嘆かれる行為を愚かにもいまだに続けている。この最たる過ち、ご無礼をお詫び申し上げ、神様が願う世界真の平和に向けて、小なりといえども頑張ってまいりたいと願っている。(おわり)

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