その後、やはり前々から気になっていた「富盛の大獅子」(写真1)をぜひ一度見たいと思い、途中寄ることにした。(これも中澤修平氏のホームページに詳しいのでご参照を)写真2は、その中澤氏のホームページにも掲載されている「米軍が前線を偵察している」写真。ここから摩文仁の海岸線まではもう目と鼻の先、2キロメールくらいである。(写真3)
その距離の短さに驚くとともに、高地であるこの場所から青く輝く海や薄緑の大地を遠望すると、今更詮無いことではあるが、「何とかならなかった」ものかと断腸の思いで立ちすくむしかなかった。この時点からさらに多くの犠牲者が出たからである。
さて、昼も大きくまわり楠木先生に「お腹空いてる」と聞くと、「そうでもない」と。私も実はあまり食欲がなく、途中「軽く麺類でも」と車を走らせた。伊覇という地名のところにさしかかると「伊覇そば」との看板が見えたので思わず入った。店は地元の人で一杯。せっかくだからと一番高いご当地名が付いている「伊覇そば」を頼んだ。(写真3)
それでも何と500円。「沖縄そば」や「ソーキそば」は380円。驚きの安さ。しかし、まずはスープと飲んでみるとこれが何と本当に美味。メインは豚と違って鶏肉だが、これがまた何ともいえないやわらかくて美味しい。これで元気を得て、南風原(ハエバル)にある沖縄陸軍病院壕群20号跡に向かった。
展望台から降りて京都の塔の方に向かうと、上記(写真1)にあるようなトーチカがあった。米軍の砲弾にやられたのか、前面のコンクリートがはぎ取られている。中に入って小さな穴からのぞくと、なるほどここから銃を構えていたのかと実感できる。(写真2・3)
現在は木々がうっそうとしており、眼下の視界はふさがれている。しかし、当時は米軍の艦砲射撃や火炎放射器で高台は焼き尽くされていたので、このトーチカから米軍をある程度は見えていたと思う。ここにいて死んでいった方のことを思うと、負けと分かっていながらよくぞ踏みとどまり、その若き命を捧げたことと敬意を表したい気持ちで一杯になった。
その後、嘉数高地から沖縄守備軍司令部がある首里城までの激戦地を廻りたかったが、同行の楠木先生は10歳の時以来の沖縄とのことであるから、やはり基本の沖縄県平和祈念資料館は押さえておくべきだと思い、一気に南下することにした。
そしてゆっくりと平和祈念資料館を見学し、併せてそこに併設されていた図書館に立ち寄った。平和に関する本や戦時中の部隊日誌等の資料を多く集めていることに感心した。とくに子供向けの本が充実しており、これが容易に手に取ることのできる図書館は全国どこを探してもないだろうとうらやましく思った。この図書館が近くにあったらいくらでも平和集会ができるなと。(つづく)
さて、遺骨収集終了後の月曜日は夕刻5時の飛行機までいつもの平和観光。ここのところの定番コースをひとまずおき、中澤修平氏のホームページ『南部戦跡に膝をつきて』「2008年2月15日(金) 【 嘉数高地などを慰霊巡拝、午後は司令部壕調査 】」を参考に、まずは沖縄戦最初の激戦地嘉数高地へと向かった。写真等非常にくわしいのでご一読を。
私たちも、那覇市から1時間もかからずに到着。高地だから山だろうとのイメージで向かったが、どうもそうではない。カーナビの住所検索を頼りに車を走らせると「嘉数高台公園」の標識が見えた。
(ちなみにレンタカーのカーナビは、なぜか地図検索以外のたとえば「住所」や「電話番号」のところのランプが消えて検索ができなくなる。説明書を読んでもわからず、電源を切ったり、車を止めたり、さらにはエンジンを切ったりしてもだめ。4日目という相当たってから楠木先生がレンタカー会社に電話をすると、何と「車を止めて一度サイドブレーキを引く」と復活するとのこと。これなら早く聞いておけばよかったと。慣れない二人人であった)
普通の公園のようなところに70歳くらいの地元のおじさんがいて、あいさつを交わす。公園内に入るとすぐに何百段もある階段を登る。登り切ると展望台がある。階段を上がっていくと先程のおじさんがいて、もう一人あがってきた観光客らしき女性の方に色々と説明している。
私たちも説明を聞かせてもらう。眼下に普天間基地が見える。2004 年8月13日に沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落・炎上したその大学を指さして位置を教えて下さった。本当に真横。今まで事故がなかったことが不思議なくらい。しかし、いまだに基地はある。
またおじさんは、そこから見える大海原を見渡しながら「もやっているでしょう。昔はこうではなかった。見事に青々として綺麗だった。このままで行くと地球環境は本当に危ない」と力説下さった。このおじさんは何か運動している方と思いきや、タクシーの運転手さんで毎日朝一必ず運動のためにきているとのことであった。
確かに東京の空まではいかなくても、ずいぶんと景色がどんよりと見えた。冬の空気が綺麗な今日の東京、まさに空の青色がおかしい。地上に近い空のぐるりは雲一つない、にもかかわらずグレーの曇り空と同じ色だ。沖縄でさえそうなってくると本当に危ないのではと実感した。(つづく)
南冥の塔に参拝して本部に帰るとどうも様子がおかしい。聞くと何とあのベテランの3班班長のN先生が崖から落ちて動けないとのこと。最初は大丈夫かと本当に心配したが、だんだんに入ってくる情報ではとにかく元気にはしているとのこと。
結果的には鎖骨を折るという名誉の負傷であった。その現場は摩文仁の西の端の断崖の下。それは第二日に作業に入った場所である摩文仁の中央付近(平和の礎と各県の慰霊碑郡)の断崖下の海岸線から見るとちょうど落ちられた場所が遠目に見える。(写真右の一番右下に見えるコンクリート付近)
上から作業をしながら海岸線に降りる直前、2メールくらいの高さから下の少し岸壁になっているコンクリート部分に降りようとしていた。班員全員がローブをつたって降りたあと、班長であるN先生がローブを回収して降りようとしたときにバランスを崩したそうだ。
第2日元気に出てこられた先生は、何ともいえないすまなさそうな顔をして「みんなに大迷惑をかけて申し訳ない」としょげておられた。私は「いえいえ班員を無事下に降ろし、守ったのであるから名誉の負傷です」と言うと、「油断が出た。申し訳ない」と心のそこからの重ねてのお詫び。私は内心「さすがお道の先生は違う」と思いながら、一緒に記念写真を撮っていただいた。何はともあれ元気で何よりであった。
さて、2日目の作業はその海岸線から断崖の真下当たりまで上にのぼりながらの捜索であったが残念ながら見つけることができず、午後は海岸線ぎりぎりのところに生い茂っている草を刈っての捜索に徹した。第2日1班では、肩と思われる骨片と小さいお骨が見つかった。
その後、4時から本部テントで那覇教会長林雅信先生ご祭主のもと、沖縄戦戦没者慰霊祭が厳かに仕えられ、第36回の沖縄遺骨収集が無事終了した。今年も80人強(そのうち一般からの参加者20人強)の参加者があり、また来年会おうとお別れした。
今年は日程の都合上何人かの方が出席することができず、私は別れ際、「来年は大挙してきますから」と多くの方に言ってしまった手前、2010年2月20日21日に行われる第37回沖縄遺骨収集参加の呼びかけをはじめている。すでに初めての方一人が参加したい旨表明、一度参加した息子や寮学生たちもだいぶ乗り気になってきている。
どうぞ、これをお読みの皆さんで参加ご希望の方がおられましたら、 金光教東京センター(辻井)までご一報下さい。(つづく)
大石よけは男性陣、その後細かい石を女性陣が根気よく取り除く。頭骨はでなかったが、あごの骨や骨盤などが出てきた。頭骨はすでに回収され、その取り残しのご遺骨と思われる。
その場で昼食の「ゴーヤ弁当」をいただき、休憩後男性陣は手分けしてまわりを探索する。名古屋から一般参加のYさんは、一人でフットワークよくあちこちを散策。私、一人は自信がなく、H班長と一般付き機動班H先生と動くがそれぞれ58歳、62歳、私49歳(あと一月もなく50歳)は、こわごわ進むので行動が鈍い。失礼。
午後、同じ場所の周辺を掘り続けたが、もう出そうもないので一行は南冥の塔と健児の塔に参拝。そこから4、50分のぼったところに牛島第32軍軍司令官や長参謀が自決した司令部壕がある。
最後の写真は南冥の塔の近くにある自然の井戸であるが、夜中に水をくみに来た軍や一般の人々がアメリカ軍の機関銃の餌食となり、多くの方々が命を落とされたとのこと。何ともいえない雰囲気に10数名の1班班員は声もなく立ちすくむ。(つづく)
機動班長の中澤さんは、なんと毎年1週間ほど前から単独沖縄入りし、調査活動をして下さっている。私たち1班は中澤さんが前もって捜索いただいた場所に向かった。平和公園管理事務所の裏手にある本部テントから、摩文仁の西の端にある数年前まで本部にしていた健児の塔への入り口方面に向かう。
かつての本部は、遺骨収集に長年ご協力いただいた亡き前門光雄さんのお土産物店の駐車場にあった。その駐車場奥から断崖の海岸線に向かってジャングルに入る。少し入ったところで、中澤さんから作業における注意事項の説明があった。そのポイント点は、
○集団から絶対に離れないこと。作業に夢中になると、どうしても離れてしまうので必ず隣の人の音のするところまでの範囲で作業すること。
○離れる場合は、必ず声をかけていくこと。
○それでも、もしはぐれた場合はパニックにならず注意して下の海岸線に向かって降りること。
○大きな岸壁や小さな崖が多数存在するので細心の注意を払うこと。
○道なき道を進むため、どうしても岩石を踏むことになるが、これは必ず動くものであると認識すること。また、木やツルにつかまって支えにすることもあるが、これも枯れ木の場合は動いて非常に危ないので十分の注意を払うこと。
以上が私が聞いて覚えているところであるが、これに加えて1班班長並びに1班付機動者から補足があったように思う。
そして歩くこと3、40分。中澤さんがあらかじめ調査していただいた地点に到着。早速小さい自然に穴になっているところを捜索、続々とご遺品やご遺骨が出てきた。(つづく)
(私が遺骨収集に参加する以前のことについては、すでに公表されている資料や昨年10月に東京センター「こんこう平和セミナー」の講師としてお話しいただいた林雅信先生の講演録にくわしいので、もし興味のある方は林先生の承諾も得て、個人的に紹介しますのでご希望の方はご一報を)
昨日書き忘れたが、「トラベルコちゃん」に掲載される各旅行会社の格安ツアーのため、ホテルやレンタカー会社は指定できない。しかし、今回申し込みが遅かったにもかかわらず、ホテルもレンタカー会社も昨年と同じおかげを頂いた。
前日夜、教会に置かれていた発動機やガスコンロ等、重たいものを少しでももっていこうと車に積み込ませていただいた。そして当日朝6時、気持ちよく起床。那覇から8時20分に集合場所となっている摩文仁平和記念公園までは約40分。
荷物があるので7時前に出発。コンビニで朝食の肉まんと昼食の「ゴーヤ弁当」を購入。このゴーヤ弁当が美味。ここのところいつもこれである。7時40分ころ到着、一番乗りだ。すぐに林先生や地元那覇の信者さんたちが到着。本部になるテントや机の設置をはじめる。
順々に全国からの参加者が集まり、1年ぶりの再会に笑顔であいさつを交わす。今や同志となった皆さんの元気な姿に、「よし今年もがんばるぞ」と高揚感が満ちてくる。準備が終わるとすぐに本部班、1班から5班まで班別に整列。林先生先唱で御祈念、あいさつ、説明がある。
その後、班に分かれて班長からくわしい説明がある。私は総勢13人の1班に配属。何と本教者は班長と1班付の機動班1名、そして私と同行の楠木先生の4人。あとはすべて一般の参加者で初参加が4人。そのようなことで機動班長の中澤氏もまずは1班に付いていただいて作業が始まった。(つづく)
今回は、スカイマーク沖縄行き最終の飛行機しかとれず、午後7時頃那覇空港に到着。例年より2、3週間早い1月とはいえ寒い。気温は9度。沖縄ではほとんどあり得ないとのこと。まずはレンタカーを借り、空港からレンタカー営業所まで車で送迎してもらわなければならない。
わざわざ荷物を少なく、鞄を小さくして空港からすぐに出てきたのはいいが、一緒に送迎してもらうほかのお客さんがなかなか出てこない。この間那覇教会にお電話すると、「5時からの説明会はすでに終わっているが、よかったら」とのこと。私「8時をまわるかもしれません」とお断りを申して、お参りさせてもらうことにした。
しかし、待てど暮らせど同会社のレンタカーを借りるお客さんが来ない。だんだんイライラしてきて、送迎車の運転手さんに聞いてもわからないのを承知で「あと何分くらい待つ」と声をかける。すると「すみません。あと1、2分待ってください」と。どこが1、2分かと思っても、この何ともいえない沖縄弁イントネーションの言葉に、沖縄言葉が好きな私はそれだけで和んでしまう。
ようやく他のお客さんが到着。慣れないご家族連れか年配者かと思いきや、若いお兄ちゃん一人。「何をしてたんだ」と内心思うが、「お腹が痛くなってトイレにでも行っていたのか」と思い返す。勝手に内心イライラしたり、和んだりしつつようやくレンタカーを借りていざ教会へ。
もう目をつむっても歩けるくらいに那覇は熟知。迷わず教会へ。お広前で御祈念、お届けのあと、奥様先生も出てこられて「説明会後に出されたおでんがあるから、是非2階へ」とまねかれた。私、一度初参加の時に教会に泊めていただいたこともあり、遠慮なくあがらせていただいた。
先生は細かい準備がまだ残っており、作業をされている。恐縮ながら奥様先生と寮にいた娘さんが初めて上京したときの懐かしいお話をしながら1時間ほど夕食をごちそうになった。今回のホテルは昨年と同じ「コンドミニアムホテル久米」。まだ10時くらいであったが、明日からの作業のために早々に寝ることにした。(つづく)