パソコンが不調になったのはもう何回目だろう。「安物買いの銭失い」を地でいっている。少ない予算で最高の機能を目指すと、どうしてもあまり大手の会社でないものをねらう。その会社のものすべてが悪いのか、たまたま自分のがあたりが悪かったのかわからないが、修理はすでに三度目だ。
今回のは特にひどく、もう直らないかもしれない。おかげで別に覚えようと努力したわけでもないのに、結構パソコンの構造に詳しくなった。その都度なるほど良くできているなと感心する。メモリの不良に始まり、マザーボードまでいかれた。今回もおそらくそこかもしれない。
幸いにして、息子がおじいちゃんから譲り受けたパソコンで何とかなっているが、慣れないので不便きわまりない。ただ、その都度対応してくれるO先生にはいつもご迷惑ばかりかけている。この場を借りて深く御礼申し上げたい。なかなか新調はできないが、安くて性能が良く、さらには壊れにくい製品を出している会社を知っていれば紹介いただきたい。
東京寮から東京センターに行くとき、二つの交番を通る。その掲示板の交通事故の死者数と負傷者数の数字を見るたびに心が痛む。都内で死者数はだいたい毎日1人ないし2人。負傷者数は500人前後。何ともやりきれない。
「交通事故」という言葉は、何か悪いことが起こったときに「それは交通事故みたいなもので仕方がない」といったニュアンスの非常に軽い言葉に使われることがある。しかし、実祭の交通事故の現場やその後の人生はそんな生易しいものでないことは容易に想像できる。
被害者も加害者も一瞬の油断や過信で人生が暗転する。悔やんでも悔やみきれないであろう。掲示板の数字を見ながら、その1人ひとりの心情を慮る。私が車の運転が嫌いな理由がここにある。なるべくなら車の運転はしたくない。
「私は平和主義者である。だが、ただの平和主義者ではない。戦闘的平和主義者である。自分が納得できないことのために戦争に赴いて死ぬより、自分の信ずるところにしたがって死ぬ方がよい」 アルバート・アインシュタイン
(『ヒトはなぜ戦争をするのか?』ーアインシュタインとフロイトの往復書簡より)
「私もこうなりたい」と心に強く響いてくる言葉である。「戦闘的」という表現が凄まじい。私たちの世代には、「闘う」とか「闘争」という言葉に違和感を持つ人が多い。今の時代、例えば革新政党や労働組合における「○○のために○○を勝ち取ろう」とか、「闘い抜くぞ」という表現が、平和を願っているのになぜ戦うのだという素朴な疑問がある。
しかしこれらの言葉の背景には、平等とか差別とかの観念が全くない奴隷社会や封建社会から、血みどろの「闘争」を経て、今では普通となっている人間の権利を勝ち取ってきたという歴史がある。アインシュタインがフロイトに書簡を交わしたのは1932年。あのナチスが権力を握り、アメリカに亡命した前年である。余程ナチの脅威が差し迫っていたのであろう。
そう思うと「戦闘的」という言葉もうなずける。ただ、後段の「戦争に赴いて死ぬより、自分の信ずるところにしたがって死ぬ方がよい」と、いずれにせよ死ぬ覚悟がある。これは「暴力に対して暴力で抵抗する」という意味ではなく、また逆に「無抵抗服従」でもなく、「抵抗不服従」の決意を示していると思う。ここをよく腹入れすれば、「勝ち取ろう」とか「闘い抜くぞ」というような空疎な言葉ではでないであろう。今後は、実質的な実行力ある平和へのアプローチがいよいよ必要であると痛感している。
(皆様には大変ご心配をおかけし、申し訳ございません。パソコンの前に座る時間もままならず、当たり前のことがいかに「有り」、「難い」ことか改めて思わせていただいております。皆様にもいろいろと聞いていただきたいのですが、さすがにこの場では書くことができず、本当に残念であります。そのようなことでなかなか更新できないことをお詫び申し上げます)
そのような中で昨日は、家族で東京国際フォーラムで開催されている首標の展示を見にいくことができた。この日は会期延長前の最終日で、ものすごい人であった。人体を輪切りにしたものもあり、なんともグロテスクなものであるが、みんなあまり恐がらず見入っている。
私はこれが本当の人間であったと思うと、なんとも本当にこれでこの方はいいのだろうかと思ってしまった。そうした疑問をみんなはどうなんだろうかと展示物を見るよりは、見ている人の顔をなぜか観察してしまった。
その夜の東京寮月例祭でもお話させていただいたが、このタイトルの「不思議」について、何が一体不思議なのか、それぞれに思うところがあるだろう。生命の神秘はもちろんのこと、私が一番不思議に思うのは、本質的には人間もコンピューターも物質、つまり物であるのに、この両者が決定的に違うのは、なぜ人間には心があるのかということである。
医学や生命科学は、いよいよ神の領域に足をつっこうもうとしているが、その根本のところは絶対に人知では知りがたいものであると思う。それを理解したように振舞ったとき、大いなるしっぺ返しを食らうのではないかと今から心配が先にたってしまった。天地の道理への謙虚さを失った時、人類も終わってしまうだろう。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。ただ、世界でも日本でもまた私の足下でも昨年からまさに災難つづき。なかなかおめでとうというには、気の重い日々を過ごしている。
年始初っ端からこのような暗い内容で何とも申し訳ないことである。
良寛さんは「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがれる妙法にて候」と言っている。ただ、災難にあっている渦中は本当に辛いものであり、人々の難儀がここにきて本当に辛いだろうなと実感させて頂いている。
私が金光教学院在学中、その修行の最後の方で学院生の修徳殿入殿がある。その時の休憩時間、修徳殿の縁側で輔導であられ九州のY先生の一言がなぜかずっと忘れずに頭の中に残っていた。修行最後で気負って質問していたのだろうと思う。先生は、「信心はするものではなく、必ずさせてもらえるものである」とおっしゃった。
そのお言葉を今まさに私の脳髄にしみこんだ感覚をおぼえている。良寛さんやわが教祖様の「難はみかげ」を頂き、今まさにここが信心のしどころである。
(ただ、誠に申し訳ないことに、いろんな御用、事務処理が後回しになってきており、なかなか取り組めないようなことで、当「思うがままに」もほぼ毎日更新させて頂いてきましたが、ここしばらくはお休みないし間隔があくと思われます。しばらくはお許し頂きますようお願い申し上げます)