午後からは、平地部分をさらに東に向かって進んだ。平地部分にも大岩や小さな壕が点在している。その一つ一つを丁寧に探しながら進む。しかし、その日は残念ながらご遺骨の発見には至らなかった。まだ体が馴れておらず、節々が痛くなり、動きが緩慢になる。
機動班によると、明日も同じこの場所とのこと。夕刻4時が迫ったので全員に集合をかけ、第1日は撤収することにした。学院同期の甘木教会の安武光先生が所属する3班は、1班の場所からさらに東の方向での作業。多くの骨片が出たとのことであった。
第1日夜は関口さんらもお疲れのとことと思い、夕食はエッカホテルでとり、第2日に備えて早めに休んだ。天気予報ではなんと最高気温が24度まであがるとのこと。いよいよ沖縄らしくなり、暑くなりそうだ。
第2日も快晴。海が一層青い。今日は同じ場所に地元元気な沖縄隊の4班と、ベテランのアメリカ人二人が合流、気合いが入る。わが班が昨日も入ったことから1班の班長である私がなんと指示を出す。まずは全員で御祈念を頂いて、昨日と同じ道を降りた。
今日は昨日とは逆に、摩文仁に向かって西へと進む。進むやすぐのところに大きな壕や大岩、大石が現れ、みんな必死で捜索する。私はちょうど途中の平地からさらに海岸線へと崖になっている上際を進むが、危なくてなかなかまともに前に進めない。
そこに黒アゲハチョウが現れた。これまで何度も書いてきたが、沖縄では御霊が黒アゲハチョウに宿って戻ってくるという。私も経験したが、沖縄遺骨収集では何度もこの黒アゲハチョウの進む方向にご遺骨が発見されてきた。
私はその黒アゲハチョウの向かったところに進もうとするが、とても上からは行けそうにない。何とか途中までは頑張ってみたがこれ以上はどうするか迷った。班の本隊とは結構離れたようだ。内心ご無礼を詫び、人が歩いてできた人道に一端は戻った。
そこに東京から一緒の嶋田先生が戻ってきた。私が「そっちの方向に黒アゲハチョウが飛んでいったから必ずあるはず」と言ったが、昼も近いので一端は戻るとのことで、私は先がどうなっているか見るために少し進むことにした。
すると黒アゲハチョウが現れた方向から1班の機動班の橋本さんがやってきて、ご遺骨発見とのこと。4班の機動班の方が探し当て、結構出ているので応援を頼むとのこと。私は笛を吹きながらみんなに合図しながら、またしても黒アゲハチョウのお導きと畏れ入った。
嶋田先生を呼び戻すとなんと人が通ってできた道のところから出てきているとのとこ。さっき嶋田先生は、そこを足場にして小さい穴のところを掘っていたとのことで全然気がつかなかったと。ここは4班の班長も事前調査で何度も通っていた場所で、「まさかあるとは思わなかった」と。嶋田先生がわからなかったのは無理もない。多くの人が踏み歩いていたところだ。
12時も迫ったのでまずは、拠点とした荷物を置いている場所まで戻って1班、2班みんなで昼食をとった。見晴らしが悪く弁当を食べる場所としては最悪だが、ご遺骨発見の報に活気づいた。
午後からは早速に女性陣達がしゃがみ込んでの丁寧に石や土を取り除いていく。そして次々と大腿骨、骨盤、肋骨、頭骨の一部などを彫り上げていく。あごや歯も出てきた。これは確実に一人の人だと思う。爪切りや小刀も出てきた。大腿骨の大きさから私は女性ではないかと想像した。(つづく)
いよいよ出発。海に向かって2、3分歩くとすぐに私たちの背丈より高いサトウキビや雑木、雑草が生い茂っている。名古屋から一般参加のYさんが、昨日から入って道なき道に道をつけてくださり、ビニールテープを断崖下の海岸までしいて下さっている。毎年毎年単独での作業、頭が下がる。感謝、感謝である。
まずは断崖を一度降りるとやや平地のところがあり、そこからまた海岸に向かって崖を降りていく。女性はその途中の平地のところまでおり、男性陣は一旦下まで降りて上へと捜索することとした。
最初の雑木地域を10分ほど歩く。そこからは断崖を降りていく。さすがに関口さんはスムーズには降りられない。男性3人が前後、間に入って安全を確保しながら降りていく。30分ほどで平地のところまで無事降りた。
Yさんの説明によると、海からは艦砲射撃、陸からは戦車が迫る。しかし、この平地までは戦車が入れないので、上から海兵隊の機関銃、下からも機関銃で追い込まれたであろう。その両方から身を隠せるようなところにご遺骨がある可能性が高いとのこと。また、この一体は、以前にもふれた最後の県知事島田氏入った最後の壕がある付近だという。
女性陣は早速にここから西に向かって捜索を開始。私たちは、そこから10分ほどの海岸まで一旦降りた。そこから上を見上げると本当に真っ逆さまという感じだ。現在は木々が生い茂っているが、当時は艦砲射撃で丸裸だったそう。あちこちに艦砲射撃の後があるが、岩石むき出しの景色は想像を絶する。
海岸線から上へ、上へと捜索開始。急なところに雑木、雑草が生い茂り、なかなか進めない。林先生の「焦らず、ゆっくり、ゆっくり」のお言葉をいただき、丁寧に、丁寧に目をこらしながら進む。時々岩下や小さな穴のところを掘り返しす。早いもので12時も迫った頃に、前橋から参加の土居先生が人間が5人ほど入れる壕を発見し、中で掘っている。
そこには白い2本線の入った茶碗のかけらもあった。ただ新しいので当時のものかどうか迷った。しばらくは掘ってみたが、なにせ今回はスコップを持ってきてない。12時も迫ってきたので、ある程度掘ったところで壕を出て、一旦海岸線に降りた。
男性陣はほとんど戻ってきており、みんな苦戦とのこと。あまりの急な岸壁で東側には下からは回れないとのこと。女性陣と機動班の方が数カ所壕を発見したとのことで、午後からは女性陣と合流して作業を進めることとして昼食にした。(つづく)
いよいよ出発。海に向かって2、3分歩くとすぐに私たちの背丈より高いサトウキビや雑木、雑草が生い茂っている。名古屋から一般参加のYさんが、昨日から入って道なき道に道をつけてくださり、ビニールテープを断崖下の海岸までしいて下さっている。毎年毎年単独での作業、頭が下がる。感謝、感謝である。
まずは断崖を一度降りるとやや平地のところがあり、そこからまた海岸に向かって崖を降りていく。女性はその途中の平地のところまでおり、男性陣は一旦下まで降りて上へと捜索することとした。
最初の雑木地域を10分ほど歩く。そこからは断崖を降りていく。さすがに関口さんはスムーズには降りられない。男性3人が前後、間に入って安全を確保しながら降りていく。30分ほどで平地のところまで無事降りた。
Yさんの説明によると、海からは艦砲射撃、陸からは戦車が迫る。しかし、この平地までは戦車が入れないので、上から海兵隊の機関銃、下からも機関銃で追い込まれたであろう。その両方から身を隠せるようなところにご遺骨がある可能性が高いとのこと。また、この一体は、以前にもふれた最後の県知事島田氏入った最後の壕がある付近だという。
女性陣は早速にここから西に向かって捜索を開始。私たちは、そこから10分ほどの海岸まで一旦降りた。そこから上を見上げると本当に真っ逆さまという感じだ。現在は木々が生い茂っているが、当時は艦砲射撃で丸裸だったそう。あちこちに艦砲射撃の後があるが、岩石むき出しの景色は想像を絶する。
海岸線から上へ、上へと捜索開始。急なところに雑木、雑草が生い茂り、なかなか進めない。林先生の「焦らず、ゆっくり、ゆっくり」のお言葉をいただき、丁寧に、丁寧に目をこらしながら進む。時々岩下や小さな穴のところを掘り返しす。早いもので12時も迫った頃に、前橋から参加の土居先生が人間が5人ほど入れる壕を発見し、中で掘っている。
そこには白い2本線の入った茶碗のかけらもあった。ただ新しいので当時のものかどうか迷った。しばらくは掘ってみたが、なにせ今回はスコップを持ってきてない。12時も迫ってきたので、ある程度掘ったところで壕を出て、一旦海岸線に降りた。
男性陣はほとんど戻ってきており、みんな苦戦とのこと。あまりの急な岸壁で東側には下からは回れないとのこと。女性陣と機動班の方が数カ所壕を発見したとのことで、午後からは女性陣と合流して作業を進めることとして昼食にした。(つづく)
本年も19日から22日かけて、3泊4日の沖縄遺骨収集、万事にご都合お繰り合わせをいただき、無事に終えた。今年も数多くの不思議な体験をさせていただき、誠にありがたい4日間であった。またしばらく活動の様子を連載したい。
19日早朝5時に目が覚める。息子がごそごそと何かしている。実は小金井市消防団の旅行で同じ沖縄に行く息子が、羽田8時代の飛行機に乗るために早くも行動開始。聞くと昨日寮で学生会があり、そのまま徹夜して起きているとのこと。若さがうらやましい。
息子は国分寺5時30分の羽田行きバス、私は6時のバスに乗った。バスに荷物を預け、財布をとろうとしたときに首に掛かっているはずの携帯がない。何といつも何か一つ忘れるが今度は大事な携帯だった。しかしどうしようもない。まあ、何とかなるとバスに乗り込んだ。
バスは順調に羽田に向かい、8時15分頃には羽田に着いた。一緒の飛行機は年配のA子さんとS君とHさん、そしてOさんご夫妻。A子さんは携帯を持っていないので少し心配していたが、すぐに出会えた。集合時間の8時50分にはスムーズにみんな揃った。
金曜日と朝というのに人が多い。他の団体の添乗員の人が驚いているのだから普通ではないのだろう。早めに検査口へ。余裕を持って搭乗。飛行機も予定通りフライトし、那覇に12時すぎに降り立った。レンタカーを借りていざ出発。
今年は、国内唯一の地上戦のあった日米戦闘箇所を回ろうと思い、米軍が上陸して最初の激戦地となった嘉数高地に向かった。ここでもいつになく車が多い。結構時間がかかり嘉数高台公園に到着、いま問題となっている普天間基地を一望できるとあって観光客を大勢来ていた。
昨年もそうだったが、基地の滑走路に米軍機の姿はなく、飛んでもいない。これまで普天間2回、嘉手納基地に2回訪れたが、なぜかいまだに米軍機が飛んだところを見ていない。自衛隊機はばんばん飛んでいるのだが。
昼もだいぶ回ってしまったので、ガイドブックに載っている地元の家庭料理屋を目指したが、目的に付近までは来ているのだが見つからない。仕方なく宜野湾市役所隣にある沖縄そば食道に入ってソーキそばを頂いた。入っている豚肉の骨までやわらかく、食べられることに驚いた。
その後、金光教那覇教会に参拝。万事のお繰り合わせをお届けさせていただき、ふりかえると続々と明日の参加者の方が参拝にやってきた。九州や伊勢方面からの参加者だ。そこで全体リーダー格のOさんやSさんと出会い、夕食は期間中みんなが必ず一度は出会う国際通りと一銀通り交差しているところにある「あんつく」に合流させていただいた。(つづく)
20日、21日に沖縄糸満市摩文仁で行われる第37回沖縄遺骨収集に参加します。今回わがグループは、初参加者2人、久しぶりの2回目参加3人と私の6人。今年もまた沖縄でフル活動したいので、明日の朝9時の飛行機で出発し、22日午後7時の那覇発の飛行機で戻る予定にしております。
明日19日は、まず米軍が沖縄に上陸して初めて日本軍と戦闘のあった嘉数高地に行き、その後日本軍が後退した前田高地、首里城とまわってみたい。嘉数高地は現在問題となっている普天間基地が一望できる高台で、よくここからの映像がニュースに使われています。
20日、21日と遺骨収集に参加させていただき、22日は、首里に司令部を置いていた日本軍が首里を放棄して、沖縄の民衆を巻き込みながら撤退した退路にある南風原陸軍病院、南風原文化センター、冨盛の大獅子、沖縄陸軍病院第三外科壕があるひめゆりの塔、そしてもし壕の中での作業がなかった場合は、轟の壕、海軍司令部壕等にまわってみたいと考えています。
道中、滞在中、けが、過ちなきよう、心身健康、身の上安全、交通機関に支障なきよう、無事安全、交通安全のおかげを蒙り、万事にご都合お繰り合わせを頂いて、御用成就できますよう願っております。
“”,”「思うがままに」2009年2月11日”,” 私は、だからこそ実際に戦闘があった沖縄の土地に膝をつき、その場に寄り添い、単なる感情に酔うものでなく、また空疎な言葉や熟語に惑わされることなく、その場所から自分自身で真剣に物事を問い、考えていく必要があることを強く思うのである。
そうとしてまずは、国家のため、親兄弟のためと信じて戦った人々、心ならずも戦争に巻き込まれ、それでもなお父さん、お母さん、弟や妹を助ける一心で戦った人々、ただそこに住んでいただけで戦闘に巻き込まれ殺された人々、そうした尊い命の犠牲の上に今の平和があることを知ることが大切であると思う。
そして昨日、「本当の戦争を知ってほしい」と言った意味は、そこに筆舌尽くしがたい悲惨な現実があったことを体感してほしいことと、抽象的な言葉による不毛な論議によって戦争の本質を見ようとしない愚かさからである。
たとえば、先の戦争は日本の「自衛」、アジアの「解放」戦争と言い、すべてを正当化しようとする者。逆に「侵略」戦争であったと言い、「反戦」「平和」「自由」「民主主義」という美辞麗句のもとにすべてを断罪し、本質を見ようとしない者。戦争や平和の問題は、このような善悪単純な二元論では済まされないのだ。
沖縄で実際に戦われた場所に身を置き、この戦争は一体何だったのか、なぜ沖縄で25万人、全体で310万人もの日本人が死んでいったのか、なぜ20世紀という時代に世界で2億人もの人々が戦争の犠牲でなくなっていったのか。私たちはそれを問うことによって教訓引き出し、次世代につないでいく使命があると思う。それを知るための一歩して沖縄を訪れてほしいと願う。
戦後64年、ご遺骨収集もだんだんに難しくなってきた。しかし、宝探しではない。出なくともその下に埋もれていることは確かなのだ。たとえ発見できなくても、砲弾に打ち砕かれ、あるいは火炎放射器の劫火に焼かれ、あるいは刀折れ矢つきて自ら命を絶った人々に思いをいたし、その地の上にじっと寄り添い、そして後は自分でしっかりと考えていただきたい。そこから必ずや明るい未来が開けるであろうと信じる。
以上のようなことから、毎年できるだけ若い人に参加を呼びかけている次第であります。どうぞ、皆様にもご都合お繰り合わせをいただき、ご参加頂きますようお願い申し上げます。(おわり)
私は、沖縄遺骨収集目的の第一義は、いまだにご遺骨が山野に埋もれ、風雨にさらされ、あるいは岩石に押しつぶされている痛ましい事実を知り、そのご無礼にお詫び申し上げ、少しでも多くのご遺骨を収集、納めさせていだき、慰霊の誠を尽くすことにあると思う。
そして、ひとりでも多くの若者に参加していただきたいのは、「本当の戦争を知ってほしい」、その一点である。これがいかに難しいか。しかし、だからこそ、難しいからこそ、取り組まなければならないと思うのである。
今から20数年前、まだソビエト連邦が存在していた頃のことである。当時「日本と戦争をしていたのはソ連だ」と思いこんでいた女子高校生が少なからずいたことにショックを受けたことがあった。ところが今や日本が戦争をしたことさえ知らないという若者が増えているのだ。
以前当HPふれた 『平和は「退屈」ですか―元ひめゆり学徒と若者たちの500日)』との本で知ったことだが、元ひめゆり学徒隊の方の言でさえ、それを聞いた女子高校生が「言葉が心に届かない」と言ったほど、戦争体験を伝えることは至難の業である。
しかし、難しいから無理と諦めるか。至難の業であるからこそ伝えようと努力するか。その努力の仕方に工夫がいると思う。「戦争体験を語り継ぐ」では、戦争を体験してない私のようなものは端から撤退しなければならない。いくら戦争を悲惨だと言葉を尽くしても体験者の言葉でさえ伝わらないときに、さてどうするかが問われるのである。(つづく)
実は、沖縄陸軍病院 南風原壕群20号には、南風原文化センター(残念ながら今回は改装中で休み)とともに2004年の沖縄遺骨収集時に東京から参加した数名で訪れたことがある。迷いに迷よってようやくたどり着くと、「沖縄陸軍病院跡」と朽ちた看板が無造作に置かれており、ショックを受けたことがあった。
それは今日ある整備のための工事中だったためと思われ、少しほっとしたが、この場所も大変な悲劇の場所である。陸軍病院といっても、日本陸軍が最初に沖縄守備軍司令部を置いた首里を放棄して南下、この地域一帯の自然壕に急遽司令部や病院を置いたのだ。
このたび整備され綺麗になり、ガイドさんの説明付きで誰でも見学できるようになったのはいいが、その分ここで何があったのかという事実について想像しにくくなっているかも知れない。しかし懐中電灯を消したときは、さすがに当時の辛苦がどれほどのものであったかが思われた。
当時、軍医は数名。看護士として動員されたのが「ひめゆり学徒隊」の女学生たちである。もちろん看護士の資格などはない。このひめゆり学徒隊については映画も数本作られており、ぜひとも見てから見学に行っていただきたい。
10年ほど前に子どもたちにも見せたことがある。兄妹ともいまだに忘れられないシーンが、この病院壕に負傷して運び込まれた軍人が、学徒隊女性の制止を振り切って、自分の小便を飲んでしまうところだ。無惨である。
さて、カーナビのおかげやだいぶ地理に明るくなってきたこともあって、移動の時間がスムーズ。だいたい予定していたころとはすべて回れたが、まだ時間があるのでレンタカー屋さんに近い海軍壕司令部(旧海軍司令部壕) に向かった。
この壕は先程の陸軍病院壕や住民が仕方なく逃げ入った自然壕と違って、工兵隊等プロが入って作られたのであろう、壁も塗られしっかりとした作りになっている。沖縄のほかの壕群に比べれば相当に広い。しかし、この壕に何千人もの海軍将兵が傷つき、死んで行ったことを想像すると言葉もない。
その後、暖かくなった外の展望台になっているところで少し休憩していると、東北弁ばりばりの65歳から70歳くらいの集団がやってきた。大きな声で騒がしい。そして「ここは何?」、「え、わからん」、「海軍の壕みたいよ」、「見なくていいよ、次行こ」である。いったい何のためにこの高台まできたのか。
最後の最後にきてがっかりではあるが、これも日本の風景、まあ、「平和で何より」と思い直し、空港へと向かった。この一件で逆に、沖縄で何があったのか、今現在どうなっているか、微力ながらますます伝えるきっかけを作って行かなければと強く思ったようなことである。(終わり)