小金井市議会選挙が告示され、選挙戦が始まった。国政選挙と違ってしょっちゅう選挙カーが通る。それどころか寮の正門前に立って、演説をはじめる候補者もいる。
小金井市は駅南口再開発でもめにもめている。議会が開発賛成派、反対派にまっぷたつに割れ、反対13票で予算が通らず、それもここ2年暫定予算で市政を執行しているようだ。
ところで演説である。もう目の前でしゃべっているのでよく聞こえる。私は「みんな選挙に行こう、民主主義国家における大事な権利の一つだ」と言いながら、これまで政治家の演説をじっくりと聞いたことがなかった。
演説の最初は、南口開発構想のアイデアが大事だと強調し、おもしろいかなと思いきや、野党議員候補の税金未納問題ばかりを言い始め、何ともつまらなくなってしまった。野党を攻撃しているようであれでは逆効果では。
まあ、市議会選挙だからこんなものかとも思ったが、そういえば国会議員も同じような責め合いをしてたっけ。結果政治不信しか残らず、低投票率のまま。選挙の時に言ったこと、つまり公約がどれだけ実現できているか採点票を作った方がいると聞いたことがある。どなたかそれをつくって配布してくれれば、選びやすいのだが。
保坂氏は「〈語り継ぐのは、次代の者の責務〉であると説くのは、ヒトとしての種内ルールを確立するのが目的である」とし、「20世紀は二度にわたる世界大戦、そして数え切れない多くの軍事衝突を体験したが、そこでヒトは国際条約や国際機関をつくり、外交(話し合い)によって紛争を解決するルールの確立の第一歩を踏み出した。
しかしこの第一歩から第二歩に進むという状態になっていない。いやむしろ21世紀にはいって新たに「テロとの闘い」という名目を掲げて、後退の方向に向かっているのではと懸念したくなる」と嘆いている。
さらに「天皇は元首」といった復古的な改憲論が出ているにつけ、「果たして昭和前期の時代から教訓を学んでいるのだろうか、ヒトとして種内のルールを確立する気構えがあるのだろうか、ヒトとしての種内ルールを確立する気構えがあるのだろうか、と問いたくもなる」と述べる。
私はよく、今の民主主義の世の中、まさか戦前のような軍国主義にはならないであろうといった楽観的な意見をよく聞く。当然戦前のようなあからさまな軍国国家にはならないであろう。しかし、私は今の政治家やマスコミをどうしても信用することができない。あるつくられた状況の迫りに、あっという間に実質的な軍事国家に変貌するのではないかと不安で一杯である。保坂氏はじめ真の有識者の活躍に期待したいするところ大である。
保坂氏の友人はさらに、「ヒトは確かに進化し繁栄した動物として、幾多の世代にわたる学習をつみあげて文明をつくりあげてきた。ところが個々人は誕生から老化までの一生で、自身にインプットされた体験や知恵は死とともに消滅してしまい、ヒトそのものはいつの時代にあっても誕生はゼロなのだという。文明は進歩してもヒトの知恵には進歩がない」と指摘し、保坂氏も日々、イラクからの報道に接して、ヒトは「もっとも残酷な猛獣」だと述べている。
これには本当に感心した。なぜこうも人類は愚かなことを続けてるのだろうとずっと疑問に思っていた。なるほど文明や社会がいくら進歩してもヒト自体がゼロならばさもありなんである。
保坂氏は、「昭和史の史実やその背景を追っていていつも思うことは、昭和の幾つかの戦争は〈もっとも残酷な猛獣〉の典型的なケースではないかと指摘する。「どうして日本軍はこれほどの残虐な行為を働いたのかというおぞましい出来事に出会う」という。私もここのところが一番疑問に思うところだが、この問題はまたの機会として、保坂氏はそうとして理性的なルールの確立が責務という。(つづく)
14日付『東京新聞』夕刊に本教の交際者であるノンフィクション作家で評論家の保坂正康氏が首標のタイトルですばらしい記事が出ていたので、皆様にもその概要を何回かにわけて紹介したい。
保坂氏はまず、「〈昭和史には無数の教訓が詰まっている。それを語り継ぐのは、次代の者の責務である〉と、私が主張するのは、相応の理由があるからである。戦争の愚かさや、時に政治のもつ残酷さを、私たちは脳裏に刻み込まなければならないと思うからだ」といい、その理由は、ヒトとしての種内ルールを確立するのが目的であると述べている。
そして生物学の研究者で保坂氏の友人が氏の著書を読んで、「生存競争の中で、動物は種内の仲間と激しく闘っても相手が負けのシグナルをだすと、致命的に傷つける前に優位者は攻撃をやめるという種内のルールが確立されていることが多い。猛獣といわれる動物でさえ、一定の闘争ルールがあるが、ヒトは生来的にもっとも残酷な猛獣ではないかという思いを強くもちます」との指摘を受けたことを紹介している。(つづく)
今日は、ワールドピースナウのピースパレードに参加した。日比谷公園に行くといつもより、人は少ない。少し拍子抜けしたが、労働組合系は明日デモ行進するらしい。さすがの動員力があるところが来てないので少ないのは分かる。
しかし、その反面これはどこの団体だろうかというほどに若い人が多く、デモ行進の仕方ものりのりで素晴らしく、その主張も明快で一貫している。正直自分自身歩くよりも、ビデオを持って撮影したいと思った。
わが金光教もこれまで平和集会で単独で行進している。長年無言の行進から昨年はじめて街宣車を出し、シュプレヒコールもし、声を張り上げて行進した。ただ、その行進の仕方はもう少し洗練された、若者も参加できるようになっていたかは、そうした外のグループの行進を見るつけ改善の必要があると思う。
ぜひこうした一般のピースパレードに参加していただき、いろいろと学び、前もって練習するくらいの気合いで、わが金光教のピースパレードを昇華していただきたい。
夕方買い物に国分寺方面に歩いていくと、着物、袴姿のあでやかなお嬢さん方が何人も歩いている。みんな晴れ晴れとした表情で、この記念の日の思い出作りに楽しんでいるようだ。
わが息子も今日が小金井1中の卒業式。ここのところ卒業壁画制作のためにずっと帰りが遅く、昨日は、8時30分頃帰ってきて、また先生に渡す花束を買ってくると出ていった。前日にすでに舞い上がっているのだ。私には全くと言っていいほど卒業式の思い出がない。
今日妻が参加し、なかなか感動的な式であったようだ。帰ってきた雄生が先生が大泣きしたと言う。3年間お世話になった吹奏楽部の顧問の先生に花束を渡すと突然泣いたらしく、私もその話だけで不覚にもじーんときてしまった。
で、よく見ると制服のボタンというボタンが全部ない。なんと同級生や後輩の女の子たちがすべてもっていったとのこと。ほんまかいなと思いつつ、あ、私の場合の卒業式の思い出がない理由に気がついてしまった。「とほほ」である。
誕生日後1か月までが期限の免許証更新、先日ぎりぎり間に合った。岡山県時代は、東京のように更新はがきがこないことから、なんと2年連続忘れてしまい、1日びっしりの講習を2回も受けてしまった。
このたびはじめて「優良 金」の部門ということで晴れてゴールデン免許証になった。これで講習を受けなくていいと軽やかに府中試験場まで自転車で行ったが、なんと法律が変わり40分の講習があった。
皆さんご存じの飲酒や携帯電話での罰則強化に加え、さらに高速道路での二人乗り禁止、 違法駐車取り締まり強化、中型自動車免許の新設などが公布され、順次施行されるとのこと。あまりに悲惨な飲酒事故の多発で、罰則強化もやむを得ないか。
2月の交通死者は12人で、都内1か月の死者数は統計を取り始めてからもっとも少なかったそうだ。死亡事故に結びつく特別な要因は見当たらず、警視庁交通部はその原因の分析をすすめているようだが、ことこのことに関しては、講習でも罰則でも徹底的に取り組んでほしい。
こうした「二極化」は、「勝ち組、負け組」という言葉に象徴されるようにみんなすでに気がついている。しかし、ことのほかおとなしいのである。「私は勝ち組」と思っているのだろうか。違う。勝ち組はほんのわずかの人だ。政治の総保守化、労働組合ががたがたに解体されてしまったからであろうか。ずっと疑問に思っていた。
その疑問に最近ある回答を得た。岩波新書『安心のファシズム』で斉藤貴男氏が書いている。「騙されつつしかし多くの人々は自らの置かれた立場にどこかで感づいている。つもり積もった不満や不安を、だからといって権力を有する元凶にぶつければ報復が怖い。より立場の弱い人々に八つ当たりし、あるいは差別の牙を剥いて、内心の安定を図るようになっていく。この傾向に拍車をかけたのがインターネットの掲示板である。代表的な掲示板『2ちゃんねる』については、もはや説明を要しないだろう」。
何とも寂しい、情けない世の中になってしまったものだ。政治や教育、文化の力はますますなくなっている。ここで何とかしなければこのままではとんでもない世の中になること必定である。