送別会でのお寿司とオードブルの買い出しを終え、集会室に戻ると、寮長がパソコンを相手に悪戦苦闘している。聞いてみると、みんなのこれまでの出来事をパソコンに取り込んだ写真を写しだそうとしているらしいのだが、それがどうもうまくいかないらしい。
すでに月例祭・送別会開始15分前、大丈夫だろうかと心配した。しかし、それは杞憂であった。このたびの送別会では、東京寮卒寮アルバムというすばらしい冊子と記念品としてそれぞれが写っているCD-Rが配布された。1年目、2年目とそれぞれにその年にあった項目と写真が並ぶ。
その一年一年の出来事が列挙され、みんなの笑顔がすばらしい。ここに一つの終わりと、一つの別れのさみしさを感じつつ、次への飛躍を期待しながら、ただひたすらに将来の幸せを祈らせていただいた。
今日は東京寮送別会であった。寮生、留学生併せて13人が巣立つ。この頃は本当に4年間ってあっというまの感がする。今日も1人ひとりについて短くコメントしたが、それ以上にそれぞれにいろんな思い出がある。
K君が入寮前、「歯ブラシとかタオルはあるんですか?」と、まるでホテルに泊まりにくるような電話をかけてきたことが本当に忘れなれない。(?_?)
東京センターの行事に参加するため、京葉線のある駅でYさんに大丈夫と言われて精算をしようとしたら、機械が止まり、怒った駅員が出てきてひたすら謝ったのも忘れられない。(T_T)
水漏れミステリー、夜中の交差点ミステイク、もう1人ひとりのことを書き出すと書ききれない思い出がある。13人みんなのことをここで書ききれないが、それぞれにいろいろな思い出がある。
みんなこの期間、不安を抱えながらも成長してきた。ここから輝かしい歩みを確たるものとしてほしい。世の中ますます不透明な雲行きである。様々な困難が押し寄せてくるであろう。その時は、寮の仲間を思いだし、元気いっぱい頑張っていた、ここでの空気、においを感じてほしい。「あるもの皆美しく、起こること皆よし」である。期待したい。
昨年の9月に当ホームページ掲示板で、芝教会115年記念「絵門ゆう子」講演会の様子を紹介させていただいた。その絵門ゆう子さんは、『朝日新聞』東京版に毎週木曜日「がんとゆっくり日記」というエッセイを連載されている。
絵門ゆう子さんの文章は、なんと表現していいか、何ともいえない魅力がある。がんと向き合っての人生は私なんかには想像も絶する悩みを抱えていることと思う。文章は淡々と楽しく書かれているようで、そこには何事も隠さない本音の心情も赤裸々に語られている。
その本物の言葉、文章にいやされ、励まされ、教えられ、元気をもらっている。3月3日付の「数秒の言葉で前向きになれる」とのタイトルのエッセイも、一言の言葉がいかに大事かが書かれいた。
「(前略)ものを書いたり、人前で話したりする時、説得力を持たせ、わかりやすい話にするため、どうしてもスタンスをどこかにはっきりと置くこと、『○○というものは・・・・』と物事を大まかな分類でくくることをしがちだといつも思う。その最たるものは、人を4種類に分けて盛り上がれる血液型談義じゃないかと思うが、医師は、患者は、西洋医学は、民間療法は・・・・と、何かを何かに所属させて話すとわかったような気になるからだ。しかし、それによって語れるのは、あくまで傾向であり、真実ではない(後略)」
まさにおっしゃるとおり。私も往々にしてというか、いつも物事を抽象化してわかったような気になっていた。もちろん抽象化の大事さも十分理解しているが、それはあくまでもすべての1人ひとりのところで起きている事実のために必要なことである。現実、現場にじっと座りきり、そこから目を背けず、逃げず、ごまかさず、そうしたスタンスを常にもちたいものである。
3月、珍しく東京に雪が積もった。雪国出身のある寮生が「なぜ東京に雪が積もるだけでNHK全国ニュースに取り上げられ、ワイドショーで大騒ぎするのか」とあきれていた。確かに雪の地方は全く日常の当たり前のことなのである。
ところが東京はそうはいかない。5センチから10センチで電車は遅れはじめ、10センチから15センチで大幅に遅れはじめ、それ以上積もると何十万、何百万人がもうパニック。公共交通機関はすべて止まり、車はスリップ、歩行者は滑って前に進めず、完全マヒ。
なれない雪かきがこれまた大変。今日も午前中寮生の安全を考えて、階段と玄関ホールから正門までの数10メートルほど、通路確保のための雪かきをした。ほんのちょっと動いただけでも腰にくる。雪って集めて固まると何とも重い。
私のような南国軟弱人間は、はなはだ辛い。10年に1回くらいしか積もらない。よしんば積もったとしても朝8時くらいにはもうない。小学校のころ、目覚めて外をみると一面銀世界。夢かと思うほど興奮した思い出がある。近所の友達が一斉に出てきて雪合戦を試みるが、何せ1ミリくらいしか積もってないのでもう泥合戦である。朝から母親にえらい怒られたのも忘れられない。
今日の雪はすでに解けはじめた。以前3月大雪の時は、確か月例祭祭員の先生がこれなかったことがある。週末に月例祭・送別会を控え、この程度で終わりほっとしている。
本日、第2回平和集会企画会議があった。東京平和集会において、千鳥が淵戦没者墓苑での集いを行わないことにした意味については、当欄2月7日付「思うがままに」中『平和雑感』で述べた。そして現在は、天地金乃神様の御広前で平和祈願祭を執行している。
そこではこれまで行ってきた慰霊の意味と祈願祭という神様に平和を願う意味合いも含んでいる。つまり「慰霊」と「祈願」とを分け隔てない考え方をとっている。それは、本教の慰霊が一般的なあり方である単にみ霊様を慰めることであるとか、鎮魂といった、魂を鎮めるといったものではないところからきている。
東京平和集会での「平和祈願祭」は、金光教館のイーストホールに祭壇をもうけ、全世界の不条理にも亡くなられたみ霊様にご参集いただく。そして、み霊(死者)と参集者(生者)がともに心をひとつにして、天地の親神様に平和、立ち行きを願うのである。
そこでは、過去(先祖)、現在(私)、未来(子孫)という時間や国家等の特定の枠や地域、さらには「敵・味方」、「正・邪」を超えた、すべてのみ霊様と私たちとがひとつになって神様に祈願するするということであり、そのことで慰霊と祈願はトータルとしてとらえられている。
本年もそのコンセプトをもちつつ、祭員の数や祭壇の向きや形などに工夫を凝らしていく予定である。
2月23日付東京新聞社説・発言(投書)欄に、自殺問題に関して、「心に届かないお説教」と題した、ある宗教家の投書に対してのある教育サポーターの方の痛烈な批判記事が載っていた。
一部抜粋すると「あの内容では、現に苦しみを心に抱え、自殺を考えている人の心には、到底届かないように感じました。『人生には、苦しみがつきものだ』『来世で幸せになれるとは限らない』『人は生まれた瞬間から死を宣告されている』『自殺は愚かでもったいない行為』『苦しくても親からもらった大切な命を最後まで使い果たすのが人間の義務』・・・・。確かにもっともなお言葉です。いや、だからこそ『そんなことはわかっている』と、自殺を考えていた時期の私なら言っていたでしょう。
(中略)実際に必要なのは、仏教で言うところの『慈悲』、キリスト教なら『愛』、そういった『他者の痛みを深く思いやり、手を差し伸べる』気持ちではないでしょうか。
せめて『自殺は正しい選択だとは思いませんが、自ら死を選ぼうとするのは、どんなに苦しくつらいことかと思います』と、他者の痛みを宗教家として受け入れる言葉があってほしかったです(後略)」。
何とも強烈な批判だ。私自身も非常に反省しなけれはならない指摘がここにある。御用がら若い人からの相談をよく受けるが、なかなか相手の気持ちを理解することは難しい。相手の話の表面上だけ受け取って、理解したつもりになり、こちらの考えを一方的にしゃべることがよくある。つい、怒り口調になってしまうこともある。そうした上の立場からこうあるべきと教え諭すあり方は、今や全く相手には通じない。
また逆にただ聞いているだけでは、なかなか相手の本音がつかめない。本当に何が言いたいのか。何を理解してほしいのかを真剣に考えながら傾聴する必要がある。そしてその気持ちを理解でき、なるほどあなたはこういうことで悩んでいたのかと共感したときに、そこに神様が生まれ、助かりへと向かうだろう。ただ、この宗教家の方は、発言されただけでもすごい。感心しきりである。
(昨日からつづく) しかし、「Fnet」の役員スタッフの皆様や息子が沖縄遺骨収集で大変お世話になった落合先生ご夫妻のあたたかいお出向かいに気合いを入れ直し、セミナーに望んだ。寮生のI君にも、「もうちょっと残って話を聞いていけば」と言えばよかったと思いつつ。
1時間30分のお話し、一昨日に示したレジメのように少し欲張ってしまい、途中かなり速く飛ばしてしまった。それでも最後まで真剣にお聞き取りいただき、その後の懇談の時も鋭い質問が出された。まだまだ諸問題、諸課題は残るが、とりあえずは問題提起になったかと思わせていただいた。
続いての懇親会、さすがフードネット(?)とあって遠く福井県や三重県からご当地のお刺身やお寿司、伊勢うどん、また、夜2時までかかって作られたという手料理が並び、盛会のうちに懇親を深めさせていただいた。
さて、皆様もそろそろ疑問に思っていると思われるが、いったい「Fnet」のFの本当の意味は何なのか。宴も終盤のころに質問すると、「雰囲気のFと思った」とか「伏見のF」、「福井のF」、いや「武生のF」とみんな冗談で言っているのか、あるいは本当に知らないのでは?と、悶々としていたら名付け親曰く、「これはFaith(信仰)のFとFace(顔)のF」。すばらしいネーミングだ。
ますますのご発展をお祈り申し上げて、終わりたい。