義父中島秀夫逝く

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 12月2日寮講演会、願い以上の万事のご都合お繰り合わせをいただき、無事開催御礼。その4日前の11月28日午後7時1分、義父の中島秀夫がこの世の生を終えた。84歳であった。

 義父は、若い頃の大病でそれから腎臓一つで生きてきた。何度か大きな病になるも、その都度おかげをいただいてきた。が、昨年脳出血で倒れた。手術をするにも腎臓が一つであることと、この時は他のいろんな原因も重なり、手術は相当の危険を伴うとのことであった。

 手術するかどうかの決断を迫られ、わずかでも助かる道があるのならと踏み切り、ここでも大変なおかげを蒙り、その後1年ほどは元気に生活をしてきた。しかし、10月くらいから酷使し続けた腎臓がいよいよ悲鳴をあげ、だんだんにクレアチニン数値が上昇し、2から5へと跳ね上がってきた。普通なら腎不全で透析である。

 すでに透析しても数値は戻らず、もって年内とのこと。治療不可能なので入院もさせてもらえない。近くの主治医の指示を受けながら、後は在宅で看取るという状態となってきた。11月23日勝浦教会の大祭で今年は長男が勝浦におり、娘も大学生となったことから久しぶりに女房も帰る予定にしていた。

 しかし、やはり在宅での介護は大変で、義母も夜もろくろく寝られない状況となり、体調を崩してしまった。そこで16日頃であったと思うが、女房が実家に戻った。大祭は1人で帰ることとなったが無事に終え、次は12月2日の講演会はどうかという状況になった。

 その大祭の頃から明らかに衰弱が進み、クレアチニン数値も8.5となる。もうほとんど食べられない状態となってきた。25日頃からは水分もとれないとのこと。主治医の先生によると昏睡状態になっても2、3日は生を受けているとのことで、そうなれば一旦東京に帰ってくるとまで言ってくれていた。

 万事にいい加減な父娘を残して、寮や家のことも心配なのであろう。この時期は寮前庭の桜の木の葉が毎日大量に落ちてくる。この落ち葉掃きが大変。1人では軽く1時間以上かかってしまう。その落ち葉掃きを私が大祭に帰っている間に娘が1人でしたとのこと。一応正面入り口ゲートの外側だけは『あまり溜まるようだったらしてね』とお願いはしていた。 

 ところが何と3時間かけて掃除をしてくれた。万事にいい加減ではあるが、私と同じB型人間、やる時はやり、それも完璧にやらなければ気が済まない。娘はなぜか食べ物の好みや習性等々私にそっくり。

 私が東京センター行っている間にもう一回落ち葉掃きをしてくれ、この時ばかりは雪が降るか、気温が30度以上にあがるのではと本当にびっくりした。予想に反してよくやってくれているので嬉しい。が、やはりこの2人なので部屋はすぐにぐちゃぐちゃになる。それでも仲良く何とかやっている。

 さて、そうとしても、2日当日に支障が出てくる可能性もだんだんに高くなってきた。そこで、27日の日に寮長と役員に万が一前日、当日と2人がいない場合を想定して事細かに打ち合わせをした。講演会前に行われる月例祭の祭主が藤原務正先生だから、まあ何とかなるだろうと。

 28日はどうしても東京センターへ出なくてはならず、その夜は「金光財団」関係者の懇親会がある。私の都合で一回流してしまったので出席した。そういうときに何かあるのではと思っていたが、案の定その最中に亡くなったとの電話があった。

 その日中に義父のお参りしている山手教会長との打ち合わせで、30日終祭、1日告別式と決まり、翌29日9時30分に葬儀社との打ち合わせで正式に決まることになった。これで私は当日だけはいることができる。

 29日朝から月例祭のための御神殿の調撰や最終的な準備品の購入など進めようとしていた。8時頃に女房から、山手の先生から今日終祭、30日告別式でも大丈夫と連絡があったと。2日講演会があることを知り、配慮してくれたらしい。 

 その方がもちろん有り難く、後は葬儀場と火葬場の都合となった。そこからすでに仕事に出たであろう勝浦の息子に連絡。今日の可能性もあると。娘にはすぐに大阪に行ける準備を指示。私の方はどちらかに決まらなければ準備のやり方が変わるのでオロオロ。

 ようやく10時に連絡があり、今日夜7時終祭と決定。大阪まで車で7時間、休憩、渋滞を考えると11時には出なければならない。後1時間、そこから今度は一泊で大阪に帰る準備に変更。とりあえずは最低必要な礼服等を用意する。そのような時に女房から黒のハンドバックとかいろいろ持ってきてほしいと電話がかかる。

 ここでイライラして慌てたらいけない。女房はそれどころではない、と言い聞かせ、なぜか「つった暖簾にもたれかかる心」とのみ教えが頭に浮かび、落ち着く。娘も神業と言いながら準備を済ませ、11時過ぎに出発。息子も急遽仕事を休むことができ、無事終祭、告別式とおかげを蒙った。

 30日葬後霊祭に参拝後、帰京。今大変になっている中央道を通って夜中の2時30分頃到着。寮の講演会には前々から息子が出席予定だったので、運転を代わってもらい助かった。娘も1日土曜日1限の授業に出ることができた。

 1日の懇親会おでんの材料等の買い出しも、車がないので自転車で行ってもらうことになっていた。ところが何と天気予報が外れての大雨。息子に車を出してもらい事なきを得る。このようにまさに願い以上の数々の万事のご都合お繰り合わせをいただき、おかげを蒙らせていただいた。感謝、感謝である。 

 以上のようなことで、半月ほど女房がいなくて、寮生たちには様々に迷惑をおかけしていることと思う。誠に申し訳ないことではあるが、事情ご賢察の上、ご容赦を。

 私の方も実は東京センター主催の現代社会問題研究会で、現在原発問題をテーマに取り組んでいるが、12月17日の会議までにレポートを書かなければならない。資料は最低限集めてきてはいるが、それを読む暇がなく、かなり焦ってきている。そのようなことでなかなかブログが更新できない毎日を過ごしている。また、ボチボチ義父のことや講演会の報告をさせていただきたい。しばらくはご容赦を。

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このページは、つっさんが2012年12月 4日 09:55に書いたブログ記事です。

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