2012年11月アーカイブ

12月2日寮講演会開催

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 23日無事勝浦教会大祭が執行され感謝。諸事情で予定より1日早い24日に東京に戻った。また、諸事情で現在私と娘とが東京で、後掲に予定されている寮講演会が無事開催されるよう万事のご都合お繰り合わせを願っている。

 今年の講演会は、 テーマを「青年の築いてきた金光教」とし、後掲の開催趣旨のもとに、「金光教は、実は青年が築いてきた!!」ことを歴史に学び、混迷する現代社会の中で青年が果たすべき役割は何かを、人材の育成を担う東京学生寮に青年教師、青年会、学生会、寮友会等々現役、OBが相集い、交流を深めつつ、共に考えてまいりたいと願っている。

 そこで私が学生会の頃に活躍した下記の3名の方に講師をお願いした。現在のところ寮以外のACT( 関東教区青年布教委員会)から約5名、全国学生会、東京学生会から約5名、寮友会(卒寮生)10名弱、青年教師数名の参加が予定されている。

 もちろん、組織に加入していない青年も大丈夫ですので是非ご参加ください。

                                記
1 日 時 2012年12月2日午後1時から
2 場 所  金光教東京学生寮集会室 
       アクセス http://konkozaidan.jp/tokyoryo/  参照

3 内 容   13時    月例祭
               13時40分 講演
             メイン講師 相賀正実氏
              (元全国学生会協議委員会代表・寮OB・用吉教会長)
                    講師 大熨美智子氏
                    (元京都学生会会員・四ツ山教会在籍教師)
                    講師 安武立記氏  
                  (元東京学生会員・寮OB・熱田教会信徒会長)
               15時10分 質疑・懇談
               15時30分 懇親会
               17時30分 終了

4 開催趣旨 

                          「青年の築いてきた金光教」
 立教以来152年の歴史を振り返り、教団独立過程において、青年の果たした役割は何であったでしょう。教祖時代の青年たちは、この道の信心を後世に伝えるべく、教団独立を成し、人材を育成してきました。
  その後を受けて、金光教青年会・青年会寄宿舎(現・東京学生寮)を中心とした、第2世代の青年たちは、大正時代から昭和初期にかけて、各地に教会を設立し、教勢を発展をさせ、世の中に金光教を認知させてきました。
  第二次世界大戦をはさんで誕生する青年会、全国学生会などは、近年まで「いかに生きるか」という自分たちの拠り所を求めて、活動を展開してきました。
  常に、金光教の中にあって、青年たちはその構成員として、確かな立場を持ち続けていたはずです。しかし、時代に応じて青年たちが、金光教の中で活躍する場は変貌しつつあります。
  いよいよ今日では、青年たちが金光教の中で果たすべき役割は何でありましょうか。そうした育成という点を、今日の課題と捉え、共に考えてみたいと思います。
  

勝浦教会大祭へ

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11月25日までの予定で、勝浦に帰ってます。諸事情で今のところ1人です。いよいよ万事のご都合お繰り合わせを願ってます。

 「そうは言っても」という言葉やそのような思い方を極力しないよう、そして「だからこそ」という言葉をできるだけ使い、思うように努力している。

 私は学生寮や東京センター、そしていろんな小グループに所属している。各組織、グループが発展していく上で、必ず様々な問題を抱えている。その問題打開のために会議を持つ。そしていろんな意見が出る。

 その意見が斬新であればあるほど、現実には難しいことが多く、どうしても「そうは言っても」と思ってしまう。その後は、やはりそれは無理なので、できるところから始めようと最初から実行をあきらめてしまうことが多い。

 「だからこそ」は違う。例えば世界平和は、すぐ側の周辺国家間の間でもいざこざを起こしているなかで、だからそれは到底無理とあきらめてしまうのではなくて、いざこざを起こしている「だからこそ」、真の平和に向けて努力していこうとなる。

 話が大きすぎたが、だいぶ前になるが東京平和集会のあり方について、当時の寮生からかなり突っ込んで「こうした方がいい」と指摘を受けたことがある。しかし、内心「お金がない」とか、「センター職員や各教師はどう思うか」とか、「そうは言っても」で聞いてしまっていた。

 しかし、だからあきらめるのではなく、ある時「だからこそ」だと思い直して、それまではできそうもないような企画物を自分たちで作り上げたこともあった。前段に否定的なことが来ても、「だからこそ」にはそれを前向きに展開して行動へとつないでくれる言葉なのだ。皆さまも是非、お試しを。

11月月例祭・食事会執行

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 先日の月例祭・食事会、久しぶりに私が祭主・教話の御用をさせていただいた。お祭りの後、「声なき声を聞いて、世界真の平和を!」と題してお話した。          
 まず、普通は「世界平和」と表現するのに、金光教は「世界真の平和」と「真」を加える。この表現は金光教だけである。その意味を皆さん方でそれぞれ考えながら聞いていただきたいとお願いした。

 その上で、金光教の平和への信仰的原点、立ち処の根拠ともいうべき、以下の3つの教祖み教えを説明した。平和を考える上でいつも念頭におくもの、あるいは行き詰まった時、矛盾を感じる時、常にここに戻るべき原点である。

○天(あめ)が下の者はみな、神の氏子である。天が下に他人はない。
○天地金乃神のご神体は天地である。
○人間を軽く見るな。軽く見たらおかげはなし。

 次に、なぜ日頃から戦争と平和について語るのか、また語らなければならないのか、について現在も戦争中であるという3点について紹介した。

1 日本は直接的には戦闘に加わってないが、イラク戦争は後方支援という間接的参戦であった。そして今も世界では戦争、紛争は続いている。
2 東京上空は米軍が占領中。ほとんどが米軍の空域であり、自衛隊が少し、民間機はそれよりも狭い。
3 1度戦争を始めれば50年や100年では終わらない。心身共に後遺症で苦しんでいる方はいまだにいる。

 次に沖縄遺骨収集の写真を見て頂きながら、私の体験を話した。その中で一番いいたかったことについて、

 ガマ(洞窟)の中から、ご遺骨はもとより、軍刀や軍服と一緒に出てきた薬品や注射器、そして手鏡や石けん箱、くしなど大量に眼前に現れ、民間の女性も共にここで亡くなったことを知った。
 その時に沖縄では御霊様が黒アゲハ蝶に宿って戻ってくると言い伝えられており、その黒アゲハ蝶が眼前に現れ、私にこう言った。
 「なぜ、人間は未だに殺し合いを続けているのですか。こんな悲しみはもう私たちで十分。お願いです。何とか平和な世の中に、平和な沖縄にして下さい」と。私はその声なき声を確かに聞いた。震えがとまらず、ただただその御霊様に力足らずで申し訳ないとお詫び申し上げた。

 以上をいろんなエピソードを交えて話した。
 
 次に世界真の平和について、まず一言で言うと 「分け隔てなく、分かち合うこと」。そして次の3つが世界の真の平和の真の内容となるのではないかと。 

世界真の平和とは、
①遠くにある理想や目的ではなく、人間生活の前提であり、手段である。と同時に平和は希有なるものであり、深く感謝しつつ、時々刻々と創り上げていくものである。
②ある特定の人や集団の平和ではなく、天地全体とすべての1人ひとりの平和である。
③表層的に平和を唱えるのではなく、私たち人間の心の奥に巣くう暴力性を自覚し、常に自らを正当化しようとする無礼を詫び、改まり、他者の痛みをわが痛みと感じつつ願い、行動するところにある。

 そして最後に沖縄遺骨収集を勧めている意味について、文字や映像など頭で考えるだけでなく、難儀の現場に実際に立ってみて、肌で感じ、体で体感しつつ、想像してみる。これは気仙沼ボランティアでも同じである。

 亡くなられた方々は、生きたかったのである。生きたかったのに死んでしまった。もし、今声を出すことができたら私たちに何を語るだろうか。悔しい思いを一杯しているのではないか。「もし過ちがあったとするならば、私たちでもういい、あなたたちは同じ過ちを繰り返さないでほしい、私たちで十分だ」と。こう叫んでいるのではないか。

 その声なき声を聞かせていただき、事実を忘れずに将来世代に伝え、教訓としていく責任がある。金光教人として世界真の平和実現への使命がある。そのための遺骨収集参加であり、ボランティア活動への参加であると思う。

 大要、以上のことを話させていただいた。

 引き続き、食事会では、寮生のY君がズワイガニを提供してくれ、食事会発のカニ鍋となり、舌鼓を打ち、懇親を深めた。

競っても、争ってはいけない

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 以前、「競っても、争ってはいけない」という言葉を紹介した。今まさに必要な言葉と思う。1人ひとりの人間関係であれ、国家間の国際関係であれ、外交や政治、経済にしても信頼関係がなければそもそもが成り立たない。

 都知事を突然辞任した石原氏の尖閣諸島問題の言動で日中の信頼関係が崩れた。パナソニックやシャープはもとより、日本企業全体の損失は巨大である。よく保守系の方々は国益を仰るが、これほどの損失はかつてないのではないか。しかし、誰もその責任を問わない。

 話は変わるが「子ども手当」は私は大いに賛成した。長男はすでにもらえず、ただ娘がまだ高校3年生1年を残していたので、賛成するのは当たり前なのだが、もし該当しなくても賛成したと思う。まあ、少しは損した気分になったかもしれないが。

 ただ、子どものいない方からの「どうして子どものいる家庭のために教育費を負担しなければならないのか、どうして子どもに恵まれた家庭のために養育費を負担するのか」という声も多かった。

 また、「子どもは社会全体のもの。だから社会全体で育てる必要がある。老年の生活を支える年金は、子どもたちが負担するのですよ」との声もあった。

 年金はともあれ、金光大神の信心からいけば、子どもは神様から頂いたもので、自分のものではない。みんなで育てていくものだという考え方のほうに近いと思う。

 また、例えば各種保険は、将来リスクに備えるために投資しておこうというものではなくて、何かあった時にみんなで助けることができるようにと互恵互助、助け合いの精神で始まったものである。

 それには社会全体の信頼関係がなければ成り立たない。現在日本はその思想の逆をいっていると思う。将来生活のためにしのぎを削って他を蹴散らす。お金を貯め、資源を確保しなければと互いに相争い、奪い合う。これでは身も社会も滅ぼしてしまう。金光大神の信心やその思想が1人ひとりにも社会全体にも今こそ必要とされていると思う。 

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