分け隔てなく、分かち合う

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 (昨日は私が武蔵小杉教会ご大祭ご用と妻が中野区平和集会エレクトーン演奏のご用等々、いろんなことが重なり、当「思うがまま」をお休みしました。失礼いたしました。
 決して中日首位陥落のショックが理由ではありません(^_^;)。トホホ!)

 さて、一昨日の「一言で平和とは?」のつづき。
 昨年あたりから平和についてのお話の依頼や原稿執筆依頼が増え、いろんなところに出せていただいている。そこで平和について、本教の信心に基づきつつ一般用語で何とか言い表そうと言葉を費やしてきた。

 「いのちの立ち行き」「生きがいとやすらぎ」「そこに笑顔があること」「理想や目的ではなく、前提であり手段である」「平和は希有なるもの」「静的なものではなく、時々刻々と創り上げていくもの」「ある特定の人や集団のためはなく、すべての1人ひとりの平和である」「他者の痛みをわが痛みとすること」「非戦・非暴力」等々。

 色々と言っているが、なかなかそれぞれ単独の言葉だけでは言い表していない。そこで最近数カ所でお話しさせていただいた内容を、改めて一言で何が言いたいのかを振り返る中でひらめいた。

 結局、平和ならざるものを作り上げているのは、「分け隔てる」考えであり、行いである。すべてそこに原因がある。ではどうするか。まずは、分け隔てる考えをやめ、そして「分かち合うこと」である。つまり、平和とは「分け隔てなく、分かち合う」こと。単なる平和の状態説明だけでなく、この言葉には行動原理も含まれている。今後さらにこの言葉を基本に内容、魂を注入していきたい。

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このページは、つっさんが2005年5月23日 17:12に書いたブログ記事です。

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