4 やむなく摩文仁の丘に転進
2日目朝、林先生から昨日は相当西の方へ行きすぎていたとのことで、具志頭の海へ車で降り立ったところから今度は東側に展開することとなった。情報によると摩文仁の壕で出そうなので、もし人が足りなかったらすぐに戻ってくると約束して具志頭に向かった。私たち2班と5班併せて20数名は数人ずつに分かれ、一斉に頭上にそびえる岸壁目指して入った。
ところが、ここは昨日よりひどく、太い木の根っこが縦横無尽に生い茂り、行く手を阻む。やっとこさ登っていって、数少ない地表に降りれるところに行き、掘る。そしてまた木の根っ子の上を歩いて登り、掘る。そして大人1人が入って隠れることができる穴を見つけた。もしかして島田県知事が隠れていたところではないかと、そこを一生懸命掘るが堅くてなかなか掘れない。
眼下に声がしたので呼びかけると寮生のK君だ。そこで応援を頼み、どんどん掘ってもらった。しかし、何も出てこない。59年も経たのでその間に積もったであろう土砂が大穴の半分以上塞いでいるようにも見える。もし、そこまで根こそぎ掘ることができるなら必ず出てきそうな思いで一杯になる。
しかし、今もっている道具ではとうていそこまでは掘れない。やむなく場所をさらに上に移すと大石の上に出、ちょうど艦砲射撃をよけれそうなところに出た。これは間違いなくここにおられると、まずは掘りやすいようにその周りをK君とそして合流したF君で伐採しているときに、班長の「2班は摩文仁の壕に応援にいく」との声が聞こえた。まず班長のところまで行って現状を説明し、何人か残ることも検討してもらおうと、その方向にかすかに見える黄色いヘルメットを目指して斜め上に歩こうとするが、そこまで行くのが大変。男3人10メートルくらいのところを15分以上もかかってしまい、ようやくたどり着いた。そのようなことで、残念ではあるがやむなく摩文仁方面に転進した。
3 神量らいは奇しくて
昼食を終え、班長率いる本体と合流するため、今度は下へ下へと下りることにした。携帯は通じたが、こちらは全く視界がきかずどこにいるかわからない。海岸にいるであろう本体の方も「どこどこにいる」と答えようがない。
まずは海岸を目指し、ひたすら南下する。しかし、これまた思うようにまっすぐには下りられず、相当時間がかかってしまった。時々笛を吹いたりするが聞こえない。本体の方も何回か大声で呼んだり、笛を吹いたり、石を投げたりしたそうだが、全く聞こえなかった。あまりの暇さに貝をとっている人もいたようだ。面目ない。
ところが、これも不思議なことに1キロ以上ある海岸線のどこにいるかわからない本体の、まさにその待っているところに我々が出たのだ。降りたってすぐに、「途中なんか気配がして、ここに降りてくることがわかったの?」と聞くと、「突然がさがさと木が揺れたかと思ったら出てきた」という。まさに「神量らいは奇しくて」である。
ようやく合流した2班は、今度はさらに1キロほど西に向かい、「土佐の塔」がある付近を捜索することにした。海岸線から入ってすぐに大きな自然壕があり、初めての参加者は全員その中に入っていった。ここは、もうすでに一度は入った後であったろう、残念ながらご遺骨等何も出てこなかった。しかし、初めて体験した真っ暗闇の自然壕に恐怖を感じたようだ。
(つづく)
2 恐怖の迷走 戦争追体験
さて、海岸から遊歩道を30メートルほど登り、そこから歩道をはずれ真横に密林の中に入った。数十メートル進むともう何人かは見えなくなった。班長のY氏も先に進んだようでいない。残った7人は大石の袂や岸壁の上で人が隠れそうなところを掘ったが何も出てこなかった。
あるベテランの方の指示で、移動して壕を探すことにした。そしていなくなった班長や寮生の男2人の名前を呼ぶがいない。仕方なく7人で先に進んだ。しかし、これがいけなかった。まずは、西の方に進むがなかなか進めない。背の高い木や太い根っこが地上にせり出しているところなどは進むに進むない。視界がきかないし、聞こえるのは波の音だけだ。
勝手に行動するとすぐにも7人の集団からはぐれそうになるので、勝手な行動ができない。先頭を歩く方の勘に頼り、ぞろぞろとついて行く。上に上にあがれば頂上ないしは遊歩道に出ると、上を目指してひたすら歩くがこれも埒があかない。とうとう上にも進めなくなって、来た道をひたすら戻るか、無理にでも西に迎うか、大勢は西に向かうと判断し、ゆっくりゆっくりと西に向かった。携帯は全く通じない。
もう、2時間も歩いたであろう。その時がさがさと音がし、黄色いヘルメットが見えた。声をかけると何と全く反対側から入っていた地元沖縄の方が多い5班のSさんだった。Sさんは1人でご遺骨がありそうなところを探索されていたらしい。我々は海に出るだいたいの方向を聞いて安心し、もう12時もまわっていたのでそこでお弁当を頂くことにした。そこでようやくはぐれた2班の別動隊と携帯がつながった。
一時はどうなるかと思ったが、これは戦時中逃げられた方々の追体験をさせてもらっていると思った。もちろん今は敵もいないし、昼間の明るい気候のいいときである。真夏のそれも梅雨時の沖縄、そこにもってきて艦砲射撃や敵兵の銃撃を受けつつ逃げるのでは私たちと雲泥の差ではあるが、その少しでも恐怖の追体験ができたことである。(つづく)
皆様お元気でしたか?。無事けがもなく帰らせて頂きました。お祈り添え、誠にありがとうございました。今回も色々と体験させて頂きましたので、今日からしばらく連載の形で書かせて頂きます。昨年の体験記(2003.10.1~10.10に記載)で予告していたにもかかわらず触れてない沖縄戦の内容なども紹介できればと思ってます。
1 非業の殉職をとげた島田叡県知事をおう。
2004.2.14.15と、沖縄県糸満市における31回目の遺骨収集活動に参加した。今年も完全ご遺体が2体と、多くの骨片が収集された。運営委員会が解散され、自主参加となって2回目であるが、四国山城教会の赤レンジャー隊や大阪グループ、そして全国から一騎当千の老若男女の強者約80人が集まった。
東京からは、国セ、東セ、東京寮有志等8人とその他6人の計12人が参加した。その内東セと東京寮関係の6人は、沖縄で何があったのかを知るために、朝1の飛行機で沖縄に入った。そして、ひめゆりの塔、資料館、沖縄県立平和祈念資料館、平和の礎を回り、前もって勉強をしてから14日の本番に備えた。
そして当日、私たち6人は2班に配属され、沖縄戦当時県知事であり、最後が全く不明の島田叡さんを探すこととなった。島田県知事は、太平洋戦争の終局で戦場となることが確実視された沖縄の知事に任じらた。そして着任後、老幼婦女子の疎開や県民の食糧確保に奔走し、戦況の悪化で危険な台湾に自ら赴いて台湾米確保の折衝を行うなど、終始県民の犠牲を少なくするために心を砕き、戦闘が始まった後も非武装でもって最後まで県民を守り続けた。そして言い伝えによると、私たち沖縄遺骨収集団が本部をおいている摩文仁の丘あたりで殉職したとされている。
しかし、最近この摩文仁の東隣の具志頭村で、1人が入れるような穴に座り、「私は沖縄県知事です」と答えたという証言が出、わが2班はこの具志頭村の海岸側から頭上に見える直下に落ちる岸壁の下あたりを目指して、密林の中に果敢に入っていったのである。(つづく)
No.245
早いもので、昨年初めて沖縄遺骨収集活動に参加して1年になる。14日、45回目の誕生日を今年も沖縄で迎える。昨年は那覇教会でともちゃんのお父上である那覇教会長林先生と奥様と、そして一緒にいった真美ちゃん、ともちゃんに、奥様の美味しい手作り料理を頂きながらお祝いして頂いたのをはっきりと覚えている。ついこの間のことなのに、もう1つ年を重ねた。
振り返れば、このホームページを立ち上げようとした原点は、第1回金光教平和協議会後の「魚民」での、ともちゃんの「机上の空論ではだめ」との一言であった。その一言がなかったら、私の平和への取り組みも脳で考えるだけの薄っぺらいものであったろう。その一言で沖縄行きを決め、金光新聞、一般新聞への投書、ホームページ開設、そして積み残している課題も今年には果たせそうである。
今回も明日から参加させて頂く。東京からの仲間も3人から寮生2人、OG1人を含め8人と、一挙に3倍近く増えありがたいことである。そのようなことで17日まで当「思うがままに」を休ませて頂きます。それでは行ってきます。